学院案内
縁刻も半ばを過ぎたころ。
アイカたちは昨日と同じように、一限、二限、そして昼膳を挟んで三限の授業を終え、椅子に腰かけたままリイトの到着を待っていた。
やがてリイトが立ち上がる。教本と紙束──ナサ村以外では《ノート》と呼ばれているらしい──それを鞄にしまい終えると、軽い足取りでアイカたちの席に向かってきた。
「ごめんね。待たせたかな?」
浮かべられた笑みは、作りものか素顔か判じがたい。
その笑みに、ハナネの瞳がわずかに細められる。苦手意識がほんの一瞬、表情に滲んだのだ。アイカを挟んで隣にいたレイサは、そのささやかな変化を見逃さず、苦笑を漏らす。
(……ハナネって、アイカみたいなのも苦手だけど、こういう“人当たりの良すぎる奴”も苦手そうだよな)
レイサは片眉を上げながら心中で呟いた。
そんな二人の間に座っていたアイカが、いつも通り屈託なく返事をする。
「待ってないよ!」
満面の笑みに、リイトもまた柔らかく笑ってみせる。
「良かった。それじゃあ、どこから回ろうか?」
会話の流れを受け取ったのはハナネだった。
「前課の校舎や飼育園、それに植物園は……事前に許可が必要なのよね。昨日来たばかりの私たちじゃ、きっと難しいと思うけれど」
さっきまでの冷えた視線とは打って変わり、今度は優しげな表情で。だが、その表情が作り物であることを、隣にいるアイカとレイサは直感的に理解していた。
リイトは少しだけ首を傾け、視線をアイカからハナネへと移す。
「そうなんだよね。だから前課の方は案内できないんだ。でも、作りは後課とほとんど変わらないよ」
「前課は……?」
食い気味に尋ねるハナネ。その勢いを受け、リイトは鞄に手を入れ、数枚の紙を取り出した。
「実はね、編入生に案内したいってお願いしたら、特別に許可してくれたんだ」
申請日や使用目的、申請者としてリイトの名が印字され、承諾教員の署名と半印が押されていた。もう一枚は《植物園特別許可書》。
「特待生だと、こういうこともできたりするんだ」
照れ混じりに言うリイトの姿に、レイサが感心したように相槌を打つ。
「へぇ……特待生ってのは、すげぇんだな」
その横で、アイカがふと許可書の一部を指差した。
「ねぇ、この生徒証番号って何?」
リイトは柔らかく笑い、説明を始める。
「これは生徒証の裏に印字されてるんだ。生徒を識別するための番号で、三人にもあるはずだよ」
アイカとレイサはまるで宝物でも探すかのように、どこか楽しそうな笑みを浮かべながら鞄から学生証を取り出し、裏面を確認する。
「あ、本当だ! 三一六〇七四って書いてる」
「俺は三一六〇七五だな」
レイサがアイカに見せると、アイカはすぐさまハナネに顔を向けた。
「ハナネは何番だった?」
「三一六〇七六よ」
学生証を出すこともなく、当然のように答えるハナネ。その口元には珍しく穏やかな笑みが浮かんでいた。アイカは目を丸くし、すぐに小さな喜びをにじませる。
(ハナネが私に笑ってくれた……初めてかも)
たとえそれが演技であっても、アイカにとっては十分だった。
「この番号って、誰かが適当に決めてるの?」
レイサが横顔を向けてリイトに問いかける。
「違うよ。最初の三桁は、この学院ができてからの年数なんだ。僕たちの代は建学三一六年目に入学したから、番号も三一六から始まる。それで、あとの三桁は入学試験の成績順かな。三人は編入だから、どうしても最後のほうの番号になるんだと思う」
「そんな感じなんだ! じゃあ、私たちと同い年は七十六人もいるの!?」
アイカがぱっと目を丸くする。その様子に、リイトは微笑んで頷いた。
「僕たちも入れたら、ちょうどそれくらいになるね」
そう言ってから、彼は改めて三人を見回す。
「――さて、話はこのへんにして、そろそろ案内を始めようか。まずは後課の校舎からでいい?」
「あ、そうだな。よろしく頼む」
レイサも、少し話しすぎたという顔をして応じる。
「じゃあ、まずは四階から案内するよ」
リイトの言葉に三人はこくりと頷き、立ち上がった。四人は揃って教室を後にする。
◇
四階のE棟の廊下。
石造りの床は足音を吸い込むように静かで、外の陽射しを受けた窓硝子が白く光を散らしている。その中をリイトが歩きながら、後ろに続く三人へと説明をしていた。
「三階と四階は、主に大等部が使ってるんだ。E棟とW棟が教室で、S棟が集考室、N棟が実験室になってる」
足を止めずに前を向いたまま、言葉だけを後ろへ投げる。
アイカは横に並ぶ窓に目を奪われ、思わず身を寄せて外を見た。
(高い……!)
ナサ村で育った彼女にとって、この高さから眺める景色は異世界に等しかった。見慣れぬ街並みが四方に広がり、すぐ下には前課の校舎や、少し遠くにはリュスカ堂もくっきりと見えている。瞳が自然と輝きを帯びていた。
すれ違う生徒たちの姿を見ながら、レイサがぼそりと口を開いた。
「大等部って……大人が多いんだな」
背筋をすっと伸ばした生徒たち。その雰囲気は、高等部の若者とは明らかに違って見えた。
リイトは振り返らずに答える。
「うん。大等部は十八歳を過ぎてから入るからね。皆、もう大人に近いんだ」
「初等部から大等部までの違いって、なに?」
ふと気になったようにレイサが問うと、リイトは顎に手をやりながら説明を続けた。
「初等部と中等部は七歳から十五歳までの六年間。読み書きとか計算とか、基礎を学ぶんだ。で、高等部は十五から十八までの三年間。自分の興味ある専攻学を選んで授業を受けるんだよ。一年に二回、三年間で六つ。大等部に進むと、その中から一つを選んで資格を目指すことになる。だいたい四年くらいかな。医師や薬師はもっと時間がかかるけど……あ、でも資格が要らない子は高等部で卒業しちゃうよ」
説明は軽やかで淀みない。聞き慣れぬ制度に、レイサは小さく唸った。
「そうなのか……。で、リイトは何を目指してるんだ?」
自然な雑談のように尋ねる。するとリイトは少し照れたように肩を竦めた。
「僕? 僕は……教師になりたいかな」
「教師、ね……」
その一言に、ハナネの瞳が微かに揺れた。
まさか──。子攫いに関与しているかもしれない人物の口から「教師」という言葉が出るとは。
ほんの一瞬、声の温度が下がった。
「僕じゃ、向いてないかな?」
気づいたのか、リイトが振り返って苦笑を浮かべる。
ハナネはすぐに口調を整えた。
「いいえ。そんなことはないわ。……きっと面倒見の良い教師になると思う」
その柔らかい言葉に、リイトの表情が安堵にほぐれた。
「良かった……」
そして、今度は逆に問いを返してくる。
「三人は? 何か目指していて編入してきたの?」
不意を突かれて、レイサとハナネは一瞬だけ顔を見合わせた。
(どう答えればいいんだ。高等部で卒業するって言うか? それとも何かを目指してるってごまかすか……下手な嘘はすぐ見抜かれるかもしれない……)
迷うレイサの横で、アイカが窓からぱっと顔を向け、屈託のない笑みで言った。
「よく分かんないけど……他の地域のこととか、もっと知りたい!」
その無邪気な言葉に、リイトが片眉を上げる。
「資格は取らないの? この時期に編入してくる子は、だいたい目標があると思ってたけど」
「え、あ……でもこれから決める! なんか!」
慌てて言い繕うアイカ。その横で、レイサが「お前な……」とでも言いたげな顔をし、ハナネは「何してるの」と呆れた視線を送った。
アイカは二人に見つめられ、「あはは……」と苦笑いを浮かべて頭を掻いた。
そんなやりとりをしながら廊下を進むと、リイトが足を止め、N棟の一室《生物室実験室》の扉を押し開けた。
「ここが実験室。他は授業で使われてるから、見られるのはここだけだね」
そう言って、リイトは木扉に手をかけると、きしむ音とともに中へと足を踏み入れた。
ひやりとした冷気が頬を撫で、独特の匂いが鼻先をくすぐる。墨を擦ったような香りに、わずかに湿り気を帯びた埃っぽさが混ざっていた。
アイカたち三人も顔を見合わせ、わずかにためらいながらもリイトの背を追う。
踏み込んだ室内は、普通の教室とはどこか違った空気を漂わせていた。
右手の壁には、教室と同じ黒緑色の《黒板》がかかり、その前には教員のための《教卓》が鎮座している。だが視線を左へ移すと、様子が一変する。
そこには、教室中央にずらりと並ぶ十五台の大机があった。表面は樹漆 を塗ったかのように黒く光り、中央には丸い窪みが穿たれている。
その窪みに据えられたのは、ぐにゃりと曲線を描く銀色の棒。先端が口のように割れており、宿の沐所で見かけた“水を吐き出す器具”を思わせた。
(もしかして……あれも水が出るのかな)
アイカは唇を尖らせ、机を覗き込む。未知の器具がずらりと並んでいる光景に、胸の奥がくすぐったいような不安を覚えた。
廊下側の壁際にも、細長い作業机が延びている。そこには大小の水槽や虫籠が所狭しと置かれ、水草の影に群れる目高らしき魚影や、翅を震わせる飛蝗の姿がかすかに見えた。どれもかすかな生命の気配を放ち、じっと観察しているかのように動いている。
だが、視線を奥の壁へと移した瞬間、アイカとレイサは思わず息を呑んだ。
「うわっ……何あれ」
アイカの声は震えを帯びていた。
「……あれ、虫の死体か?」
レイサも眉をひそめ、顔をしかめる。
奥の壁には、薄い硝子に収められた標本箱が規則正しく並び、羽を広げた蝶や甲殻を輝かせた甲虫、足の多い奇妙な生物が一糸乱れず飾られていた。
その数はあまりにも多く、生きていた頃の鮮やかな色彩を保っているがゆえに、却って不気味さを際立たせていた。
初めて目にする光景に、二人は背筋を粟立たせる。
「最初は誰でも驚くよ。でもね、あと一月もしないうちに、僕たち自身で作る授業があるらしいよ」
リイトが柔らかく告げると、アイカとレイサは同時に顔を青ざめさせた。
「無理!絶対やりたくないっ!」
「……俺も無理かも」
アイカが声を張り上げ、レイサも小さく呻く。
リイトは「だよね」とでも言いたげに口元をほころばせた。
ただ一人、ハナネだけは表情を変えず、無言で標本に視線を注ぎ続けていた。硝子越しの昆虫たちを、瞳の奥で冷ややかに観察しているように見える。その横顔を、リイトは一瞬だけ横目で確かめた。
生物学実験室を後にした四人は、石造りの階段を下りて二階へと向かった。途中の三階は、四階と同じ造りだとリイトが簡単に説明してくれたため、そのまま素通りする。
二階のN棟に着くと、リイトに導かれて講堂へと足を踏み入れた。
重たい扉を押し開けた瞬間、四階で見た実験室とは比べものにならない広さが目に飛び込んでくる。整然と並ぶ木の椅子の列が奥へ奥へと続き、その先には磨かれた演壇が据えられていた。
誰一人いない空間は、足音さえも大きく響かせる。息を潜めると、静寂がまるで壁のように押し寄せてくるようだった。
さらに一階へと降りると、S棟の一角には医務室があった。小窓からは白い寝台が並ぶのが見え、薬草の匂いを思わせる乾いた香りが漂ってくる。ここで倒れた生徒や怪我人が運び込まれるのだろうと想像し、三人は無言でうなずき合った。
ひと通り見学を終えると、リイトが「次は植物園に行こう」と提案した。校舎の外に出て、ガラス張りの大きな建物へ向かう。入口では事務員が立っており、リイトが許可証を差し出すと、頷いて扉を開けてくれた。
途端に、むっとするような湿気と、青々とした草木の匂いが押し寄せた。
「うわぁぁ!!すっご!」
「おお……! なんだこれ、すげぇ……!」
アイカとレイサは揃って声をあげる。
眼前に広がるのは、まるで小さな森を切り取って閉じ込めたかのような光景だった。背の高い木々が天井の硝子にまで届き、棚ごとに分けられた壇には、薬草や見慣れぬ花々が整然と植えられている。葉の表面には水滴が煌めき、湿った空気が肌にまとわりつく。
一歩足を踏み入れるごとに、匂いが変わる。薬草の鋭い香気、甘く濃密な花の匂い、そして土の匂い。視線を巡らせば、室内は五つの区画に仕切られており、それぞれが異なる環境を模していた。
中には数人の生徒がいて、楽しげに植物を眺めている者もいれば、紙に観察記録を書きつけている者もいた。
アイカとレイサは足を止め、瞳を輝かせながら見入っている。対してハナネは、近くに置かれた薬草の壇の前に静かに腰を下ろし、じっと見つめていた。
「あっちの方はどんなのがあるの?」
アイカは区切られた一角を指さし、興味深げに声を弾ませる。
リイトは穏やかな調子で答えた。
「あれはね、ユーレナのほうで咲く植物だよ。隣の区画には毒を持つものもあるから、きちんと管理されているんだ。今日は時間が限られているから、この辺りだけになるけどね」
そう言われ、アイカは残念そうに肩を落とす。
「そっか……」
その横でレイサがリイトに問いかけた。
「リイトは、ここによく来るのか?」
視線を向けられたリイトは一瞬だけ瞬きをし、やわらかな笑みを浮かべる。
「うん。七日に一度くらいは来るかな」
「何をしに?」
食い気味に問うレイサに、リイトはわずかに目を丸くしたが、すぐに植物へ視線を戻しながら言った。
「……好きなんだ。植物も、動物も。見ていると、不思議と心が落ち着くんだよ」
その言葉にレイサは、しばし彼を見つめたまま小さく答える。
「そうなんだ……」
そうして四人は、しばらく植物園の中を巡り、十五分ほどで外へ出た。続いて隣にある、白い建物で天井はガラスだろうか。壁には所々に窓が設置されている飼育園へ入った。
中へ入ると、鉄で組まれた網状の籠がいくつも並んでいた。籠の中には、青や赤、黄色と鮮やかな羽を持つ鳥たちが羽ばたき、時おり透き通る声で鳴く。その合間には、長い尾を揺らしながら二本足でぴょんぴょんと跳ねる奇妙な小動物の姿もある。
籠のあいだを縫うように石畳の小道が枝分かれして伸び、頭上のガラス天井からは陽光が降り注いでいた。温室の空気は柔らかく、草木の匂いに混じって、獣たちの体温の気配が漂っている。
「ねぇ、あの動物なに!?」
瞳をきらきらと輝かせながら、アイカが指をさす。彼女の先にいたのは、鮮やかな赤に染まった不思議な生き物だった。尖った耳はギザギザと裂けたように伸び、四足で大地を掻きながら歩く姿はどこかトカゲを思わせる。しかし、その額には小さな角が生えていた。
リイトは視線をそちらに向けると、穏やかに口を開いた。
「あれはトンゲ。もともとトカゲだったのが、異獣に変化した生き物なんだ。おとなしいから、この区画でも飼われているんだよ」
(異獣……?)
耳慣れぬ言葉に、アイカはきょとんと首を傾げる。その時、ふと肌を刺すような視線に気づいた。顔を向けると、少し離れた場所から二人の生徒がこちらをじっと見つめている。
学院に来てから、珍しい容姿のせいで見られることはあった。だが、彼らの眼差しにはそれだけではないものが宿っているように思えた。
(……なんだろう)
不思議に感じていると、リイトが彼女の視線を追い、軽く頷く。
「あ、もしかしたら僕に用事があるのかも。郷学の授業で一緒だから」
リイトの言葉に、三人は一斉に顔を見合わせる。ハナネが思い出したように口を開いた。
「そういえば――郷学の授業って、いつ受けているの?」
「学院は五日通って二日休みがあってね。その五日のうち二日か三日。今週は二日間だから……明後日かな」
「……!」
アイカたちの目が大きく見開かれた。明後日にはリイトが郷学へ行ってしまう。つまり、彼と接触できる時間は限られているのだ。
三人は互いに視線を交わし、無言で思案を巡らせた。
「リイトー、ちょっと来て!」
先ほどの二人が声を張り上げる。呼ばれたリイトは振り返り、にこりと笑った。
「ちょっと話してくるね」
軽やかな足取りで二人の元へ向かい、少し離れた場所へ移動していった。三人は後を追うか迷ったが、初めて来た飼育園でうかつに動くのは危うい。結局、その場に残り、互いに顔を見合わせる。
「……なぁ、どうする? 明日を逃したら、本当にやばいぞ」
レイサが低く焦りを含んだ声を出す。
「そうね。まだ情報はまったく集まってない。まずいわ」
ハナネも眉を寄せた。その時、アイカが意外なことを口にする。
「じゃあ、もう聞いちゃえばいいんじゃない?」
アイカの言葉に、二人は同時に目を見開いた。呆気にとられたような沈黙の中、その顔には「そんな無謀な真似をする奴がどこにいる」と言わんばかりの影が浮かんでいた。
「はっ? 何言ってんだよ! できるわけないだろ!」
「そうよ。下手したら逃げられるかもしれないのよ」
二人の言葉はもっともだった。今ある情報はあからさまに不十分で、とても駆けに出られる状況ではない。軽率な判断が命取りになることくらい、アイカも理解している。
情報が足りないのなら、焦らずに探せばいい。
それが、イナトからの教えだった。
しかし、アイカは二人の反応にたじろぐことなく、ただ真っ直ぐに言葉を紡いだ。
「正面から訊かなくてもいいんだよ。それっぽく探って、怪しかったらそのとき捕まえれいいじゃん。時間もないしさ」
その無邪気とも大胆とも言える提案に、二人は息をのんだ。
「私は、二人みたいに作戦立てるのは苦手だし……こういうのしか思いつかない」
アイカは頼りなげに笑う。その笑顔に一瞬の沈黙が流れ、やがてハナネが頷いた。
「……いいかもしれないわ。誘導してボロを出させる。そういうやり方だってある」
「モタモタしてたら、先輩たちに迷惑がかかるしな」
レイサも渋々同意する。その時、ちょうどリイトが戻ってきた。優等生らしい柔らかな笑みを浮かべながら。
「ごめんね。待たせちゃったかな」
「待ってないよ」
レイサが笑顔を作って応じたその瞬間――耳に『ヂャリ』と小さな音が届いた。獣の鳴き声でも、人の足音でもない。場違いに響いたその音に、思わず周囲へ視線を巡らせる。……だが、見えるものは何も変わらない。
……鞄の中? いや、ほんの一瞬、そう思っただけだ。だが胸の奥に、説明のつかないざわめきが広がる。
「ごめんね、僕、もう行かなくちゃ。今日の案内はここまででいいかな?」
「ええ、大丈夫。私たちのために、わざわざ時間を割いてくれてありがとう」
レイサがそんなことを考えていると、隣ではリイトが申し訳なさそうに言葉をこぼし、ハナネはそれに静かに微笑みを返していた。
飼育園を出ると、リイトは立ち止まり三人に振り返る。
「それじゃあ、僕はこっちだから」
軽く手を挙げ、門の方へ歩き出す。
アイカは勢いよく手を振った。
「うん、またねー!」
リイトは一度振り返り、もう一度手を振る。その背中が小さくなっていくのを、三人は黙って見つめていた。
アイカの脳裏には、今日までの光景がよみがえる。教室で初めて見つけた姿。食堂で交わした言葉。朝の教室で声をかけてくれたこと。許可書を用意してまで案内してくれたこと――。
その一つひとつに怪しさなど感じなかった。ただ人当たりの良い、親切な少年にしか見えない。
(リイトって……本当に悪い人なのかな。もしかして、事情があるだけなんじゃ……)
彼の背を見送りながら、そんな迷いが胸に芽生える。
隣でハナネが小さく吐き捨てるように言った。
「もし、あの子を“良い人か悪い人かじゃない”なんて思ってるなら――その考えはやめた方がいいわ」
ハナネの口調は、いつもの冷たいものに戻っていた。その響きが場に残り、外気の冷えと重なっていく。三人は無言のまま、リイトの背中が消えた方を見つめていた。
勝負は――明日。
胸の奥にじわりと緊張が広がり、三人の呼吸は自然と浅くなる。失敗は許されない。準備も情報も足りていないのに、立ち止まることなどできない。そんな不安が影のように心にまとわりつく。
だが同時に、進まねばならないという覚悟もまた確かにそこにあった。西の空は茜から群青へとゆるやかに移ろい、蝉の声が遠くで途切れ途切れに響く。
風が頬を撫で、小さく制服の裾を揺らす。重苦しい沈黙の中、それぞれの瞳に宿る決意だけが、確かな灯のように瞬いていた。
神血の英雄伝 第六十話
読んでいただきありがとうございました。
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異喰→人間を襲う動植物




