怪しくないはずのお兄ちゃん
日付けが変わった幽刻の半ば過ぎ。
外はまだ陽の気配もなく、薄闇があたりを覆っていた。
けれど、ネシュカもアオイもセイスも、すでに目を覚ましている。
アオイは身軽だった。鞄も剣も、部屋の隅に寄せて、毛布をかけて隠してある。
対してネシュカとセイスは、それぞれの鞄と武器をしっかりと携えていた。
作戦は昨夜のうちに決めた通り――まずアオイとセイスが川辺へ向かい、時間をおいてネシュカが聞き込みへ動く。
「それじゃあ、二人とも気をつけてね」
ネシュカが軽く手を振り、柔らかな笑みを見せる。
「ネシュカ先輩も、気をつけください」
アオイがそう言うと、ネシュカは短く「えぇ」とだけ答えた。
二人の背中を見送る瞳に、一瞬だけ不安と決意が交錯していた。
垂布をめくり、アオイとセイスは外へと歩き出す。
◇
外に出るや否や、セイスはアオイから少し距離を取った。
昨夜の作戦どおり――アオイを遠くから護衛し、同時に情報を拾うためだろう。
アオイはその背中をしばらく目で追ったあと、ゆっくりと歩みを進めた。
(川辺は……たしか、あっちの方向か)
頭の中で、昨夜ネシュカに遅くまで叩き込まれた道順をなぞる。
『アオイにはできるだけ荷物を持たせたくないから、川辺までの道順はここで覚えて』
何度もやり直しをくらったことまで思い出しながら、慎重に歩を進める。
歩きながら、ふと学院へ潜入したアイカとレイサ、ハナネのことが脳裏をよぎる。
(三人は無事やってるのか。カコエラとレイサは、任務を忘れて学院生活を楽しんでる可能性もあるな。まぁ、ノセラがいれば止めてくれるか)
二月前の襲撃のあと、彼女たちはひどく沈んでいた。
アオイも彼なりに、その姿を気にしていた。
けれど、別れる直前の彼女たちは――しっかり前を向こうとしていた。
その姿を目にして、ようやくアオイも胸のつかえを下ろすことができたのだ。
考えをめぐらせているうちに、川辺に着いた。
そこには粗末な天幕が木に結びつけられ、雨を凌ぐだけの拠点が並んでいる。天幕の外には割れた食器や焚き火。
その周りには子どもたちが数人。五歳ほどの幼子から、十五歳前後と思われる少年少女まで。
魚を捕る子。水を汲む子。無邪気に走り回る子。
ただ、大人の姿は一人もない。
(子どもだけか……?)
アオイは川辺付近にいる子どもたちに目をやり思った。
アオイはてっきり子どもたちだけではなく少なくとも大人が一人や二人いるものだと思っていた。
だが見ている限りでは大人の姿はどこに見当たらない。
僅かに瞳を細めたその時――
「おい、何じろじろ見てんだよ!」
荒々しい声と同時に、服を掴まれる。アオイの体がぐいと引き寄せられた。
振り返ると、茶髪の短髪の少年が立っていた。十歳そこそこ。セイスほどではなかったが鋭い目が、敵意と怒りをあらわにしている。
「どこの奴だ!?」
掴む手に力がこもり、アオイは思わず一歩後ずさる。
「……気になって見てただけだ。悪い」
淡々と答えるが、それが逆に少年の怒気を煽った。
「嘘つけ! 何か盗むつもりだろ!? ここには金になるもんなんて――」
言い切る前に揺さぶられる。だが、アオイの体はほとんど動かない。
(……話が、通じない)
アオイは少年の顔を見つめながら、胸の奥でそうつぶやいた。
「無視するなッ!」
次の瞬間、少年は荒々しく拳を振りかぶる。だがその拳は、アオイの手にあっけなく受け止められた。指先が少年の手首をがっちりと掴み、寸前で動きを止める。
「……っ」
少年は引き戻そうと力を込める。しかし、びくともしなかった。
(どう言えば……伝わるんだ)
掴んだ拳越しに、少年の体温と焦燥が伝わってくる。アオイは言葉を探しながら、胸の中で迷い続けていた。素直に打ち明けても、きっと頭から否定される。
それに――昔から会話が不得意だ。どんな言葉を選べば、悪意がないと分かってもらえるのか。その答えが見つからない。
「やめて!!」
アオイが考えをめぐらせていると、後方から甲高い声が響く。アオイが振り返ると、十五歳ほどの少女が棒を構え、涙をにじませて立っていた。
その隣には同年代の少年、さらに年下の子どもたちが怯えながら身を寄せている。
「サレックに、酷いことしないで……!」
少女の声は震えていたが、必死にアオイを睨んでいた。
「俺は……」
アオイは必死に言葉を探し、目の前の少女を見返した。喉の奥からなんとか絞り出す。
「怪しい者じゃ……な、い?」
けれど、そう言い切った瞬間、自分でも首を傾げる。
顔も知らない人間が子どもたちの縄張りをじっと覗いていたら、怪しいに決まっている。ナサ村で同じ場面に出くわせば、きっと自分も警戒しただろう。
(……いや、やっぱり怪しいか)
中途半端な否定に、子どもたちの顔がわずかに緩む。呆気に取られたように目を瞬かせていた。
そのとき、背中に隠れていた小さな男の子が、おずおずと一歩前に出てきた。
「お兄ちゃん、悪い人……?」
真っ直ぐな瞳が突き刺さる。
アオイは戸惑いながらも、今度ははっきりと答えた。
「悪い人じゃない」
「じゃあ、なんで見てたんだよ!」
声を張り上げたのは、先ほどアオイに突っかかってきた少年──サレックだった。
どう言えばいいか。迷ううちに、アオイは昨夜ネシュカから散々叩き込まれた言葉を思い出す。
『もし子どもたちに両親のことを聞かれたら、病気で死んでしまって一人になったと答えなさい』
喉がつまる。それでもゆっくりと口を開いた。
「親が病気で……死んで、行くところがなくなって。だから、歩いてきたんだ」
沈黙。
子どもたちの瞳が一斉に丸くなる。
「じゃあ……お兄ちゃん、ひとりぼっちなの?」
先ほど近寄ってきた男の子が、再び問う。
「……ひとりぼっちだ」
声ににじむ影が、彼自身の雰囲気をそのまま映し出していた。
高い背丈。どこか消えいってしまいそうな存在感。子どもたちの目には、それは悲しみに耐える孤独な姿として映っていた。
「可哀想……」
背後に隠れていた小さな女の子が、思わず呟いた。
その言葉に、棒を握っていた手が次々と下ろされていく。
「お兄ちゃんも、一緒に仲間に入れてあげようよ」
先ほどの男の子がアオイの手をぎゅっと握る。心細げに、それでいて決意を宿した瞳で。
「でも……これ以上増えたら、大変だろ」
年長の少年が口を挟むと、子どもたちは顔を見合わせた。
サレックだけは依然として警戒を崩さず、睨むようにアオイを見ている。
「こんな奴、放っておけばいいんだ」
「でも……死んじゃうよ」
泣きそうな顔で訴える声に、他の子どもたちの表情が揺れる。
やがて、年長の少女が柔らかく笑った。
「ひとりくらいなら、まだ大丈夫だよ」
「そうだね」
うなずく声がいくつも重なる。
「じゃあ、お兄ちゃんも今日から仲間だね」
小さな手がアオイを引き、天幕のある方へ歩き出す。アオイも足を合わせた。
(……こんなにあっさりでいいのか?)
まだ川辺に来て数十分。子どもたちとここまで近づけるとは思っていなかった。
そんな戸惑いを抱えながらも、アオイは小さな手に導かれるまま歩を進める。
後ろからは笑顔の子どもたちが楽しげに続いてきた。
ただ一人、サレックだけがその場に残り、鋭い視線でアオイの背を射抜いていた。
神血の英雄伝 第五五話
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次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა




