囮役の疑問
アイカたちの背を見送った後、アオイとセイスは同時にネシュカへと視線を向けた。
「……三人だけで、本当に大丈夫なんですか?」
アオイが問いかける。声色には、年下のアイカたちを心配する色と、任務の成否に対する現実的な不安が入り混じっていた。
三人はまだ未熟だ。学院に潜り込む任務において、失敗する可能性は決して低くはない。
「失敗でもされたら、こっちに火の粉が飛んできますわ」
セイスが低く呟いた。もし三人が標的──リイト・アダムスを捕らえそこねれば、任務全体に支障が響いてしまう。
「学院に潜り込むぐらいやったら、ネシュカ先輩にだってできるんとちゃいます?」
今度はセイスが顔を伏せ気味にしながら、鋭い言葉を投げる。
ネシュカは、その挑発を正面から受け止め、わずかに目を細めた。
「そうね。私が潜入することも、不可能ではないわ」
淡々とした口調でそう言うと、彼女は続けた。
「でも、もし私が一緒に行ったら――二人とも絶対に喧嘩して任務が進まないでしょう。特にセイス」
ため息混じりの言葉に、アオイとセイスはお互いの顔を見合わせて黙り込む。
けして仲が悪いわけではない。だが、意見が割れたとき、セイスは力強く押し通そうとし、アオイはそれを止めに入る。その度に任務が進まなくなる──そんな光景が、二人の脳裏に不快な影のように過ぎった。
「……それで俺たちは、何をすればいいんですか?」
アオイが話を進めるように口を開く。
ネシュカは二人の方へ身体を向け、抱えていた紙袋を軽く持ち直した。
「まずは着いてきて。──案内したい場所があるわ」
そう言い、歩き出すネシュカに、アオイとセイスは静かに続いた。
◇
しばらく進むと、ネシュカはひとつの建物の前で立ち止まった。
それは一階建ての古びた造りで、扉の代わりに垂れ布が掛けられ、窓もまた布で覆われている。先ほどまで見てきたより建物は幾分か綺麗に見えたが、それでも住居というよりは、どこか避難所めいた寒々しさを漂わせていた。
ネシュカは布を押し分けて中に入りかけ、ふと振り返る。
「どうしたの? 早く入って」
二人は少し戸惑いながらも、静かに室内へと入る。
意外にも、灑掃されていた。
床には大きな敷布が敷かれいた。低い机と台が置かれ、台の上には薄い毛布が四枚畳まれている。机には揺灯が一つ灯っていた。
「……ここは?」
アオイが見渡しながら尋ねると、ネシュカは淡々と答えた。
「私が寝泊まりしている場所よ」
そして、先ほどまでアイカたちが使用する学院用の制服が入っていた紙袋を前に倒し、二人に目を向ける。
「二人には、これに着替えてもらうわ」
袋の奥を覗き込んだアオイとセイスの表情が固まった。
入っていたのは古びた衣服。布の縫い目はほつれ、色は褪せ、野暮ったいほど生活感に満ちている。
「これに……着替えるんですか?」
アオイは戸惑いながら呟く。
「ええ。安心して。二人だけじゃなく、もちろん私も着替えるわ。守攻機関の制服はトラーナ街では目立つから」
淡々と説明するネシュカに、セイスは唇を噛みしめながらも、何も言わなかった。
確かに、トラーナ街では守攻機関の制服は目立ちすぎる。古びた服に着替えるのは賢明な判断だ。
「分かりました」
アオイが静かに頷く。セイスもまた、無言でその決定を受け入れた。
「私は外にいるから、着替えが済んだら呼んでちょうだい」
そう言い残すと、ネシュカはくるりと身を翻し、出入口の垂布を押して外へ出た。
室内には、アオイとセイスだけが残される。二人は言葉を交わすことなく、黙々と着替えに取りかかった。
ふと、アオイの視界の端に、粗雑に巻かれた包帯越しのセイスの上半身が映る。
──傷を負って、もう二月。
癒えつつあるとイナトは言っていたが、完全には遠い。看付きをしていたイナトも今は近くにおらず、包帯はおそらく自分で巻いたものだろう。
(じろじろ見るのは良くないな)
アオイは目を逸らし、静かに着替えを続けた。
一方でセイスは、包帯に擦れるたびに鋭い痛みを覚えながらも、苦悶を一切外に漏らさない。
荒っぽい着替えの手つきに、苛立ちだけが混じる。
(ほんま、面倒な身体になったわ……)
歯噛みする心を押し殺し、表情を変えることなく袖を通す。その姿は、プライドだけで立っているかのようだった。
やがて二人が着替え終わると、アオイが垂布をめくり声をかける。
「ネシュカ先輩、終わりました」
「思ったより早かったのね」
壁にもたれ、退屈そうに空を仰いでいたネシュカが、ゆっくりと顔をこちらに向けた。姿勢を戻すと垂布を押さえ、アオイの横をすり抜けて室内に入る。
鞄を床に置き、中から古びた服を取り出した。それは先ほど二人に渡したものとよく似ていた。
その様子を見て、アオイとセイスは無言のまま外へ向かう。
「俺たちは一度、外に出ます」
「別にいても構わないわよ」
予想外の言葉にアオイは一瞬ためらったが、静かに首を振った。
「いえ……外で」
「そう」
短いやり取りの後、彼は外へ出る。壁に背を預けると、ふと心に浮かぶ。
(もし今ここに、クレムさんがいたら……)
考えを振り払うように、目を閉じた。すぐにセイスも出てきて、入り口を挟んで距離をとり、壁に寄りかかる。
沈黙を破ったのはアオイだった。
「セイス、巻布が一人で難しいなら手伝うか?」
「はっ、いらんわ。気色悪い」
棘を含んだ拒絶の声。アオイもそれ以上追及せず、ただ目を閉じた。
やがて室内から「いいわよ」とネシュカの声が響く。
二人は再び垂布をくぐり、中へと戻った。
古い繋衣を纏ったネシュカの姿がそこにあった。彼女の眼差しが二人を射抜く。
「セイスは……思ったより違和感ないわね」
粗暴な態度と鋭い目つきが、むしろ場に馴染んでいる。その姿を眺めながらネシュカが呟くと、セイスは鼻を鳴らした。
「ふん」
不満げな仕草を見せながらも、否定はしない。
ネシュカは気に留めず、軽く片手を上げて指を立てた。
「まぁ、服のことは置いておいて……これからのことを話すわ」
その声音に、アオイもセイスも自然と姿勢を正した。二人の視線がネシュカに集まる。
「新人たちが学院に潜入している間、私たちは三手に分かれて仲介屋を探す」
「私は情報収集。アオイは仲介屋をおびき寄せる囮役としてトラーナ街に紛れて行動してちょうだい。セイスは距離をとってアオイの護衛を兼ねつつ、中間で情報を拾って」
「……俺を囮役に、ですか」
淡々とした問いに、セイスが横目を動かす。斜め下から射抜くような視線がアオイに向けられた。
「そうよ。子攫いをしている仲介屋を誘き出すなら、子どもを使うのが一番早い。最初はそこら辺の子どもに金を渡して囮を頼むつもりだったけれど、無関係な子を危険に晒すわけにはいかないと思ってたの。アオイが来てくれたのはちょうどよかった」
ネシュカの声は冷静だったが、一つひとつの言葉にどこか優しさが滲んでいた。
「アオイはこの中で一番年下よね。私とセイスは、もう子どもには見えないもの。でもアオイなら、その容姿もあるし……すぐに誘き出せるはずよ。お願いできる?」
「……はい」
ネシュカの視線を受けて、アオイは小さく瞬いた。
しかし、アオイは少し不思議に思った。
(俺の……容姿?)
年齢で選ばれたのは納得できる。しかし容姿に関しては、どこかどうしても腑に落ちなかった。
アオイは昔から、人の顔立ちに頓着がない。自分が整っていると評されても自覚は薄く、他人の容姿にも関心を向けることもなかった。
自分の容姿についての違和感は拭えなかったが、アオイはひとまずそれを飲み込み、ネシュカの言葉に集中した。
「それからセイス」
ネシュカがセイスの方へ真っ直ぐに顔を向ける。
「あなたも中間の情報役として大事な役割がある。くれぐれも勝手な行動はやめてね」
「分っとります」
セイスは舌打ちでもしそうな顔で、それでも渋々返事をした。
こうして、アオイを囮に据えた作戦が動き出す。
神血の英雄伝 第五三話
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