トラーナ街
会計を済ませ、茶店を後にした六人は、先頭にネシュカ、続いてアオイ、セイス。少し距離を空けてアイカ、レイサ、ハナネの順に歩を進める。
まっすぐに伸びる石畳の通りを抜けると、空気が変わった。ひとつ、またひとつと家々を過ぎていくうちに、肌に触れる風がねばついた何かを孕んでくる。鼻の奥をつく甘ったるいような、腐った果実のようなにおいが、風とともに流れてきた。
「このあたりが……トラーナ街」
ネシュカが足を緩め、前を見つめたまま言う。
「ここが……」
アイカが呟いた。周囲を見渡しながら、息を呑む。
「こんな場所……初めて見た」
レイサの声も、かすかに震えていた。
目の前に広がっていたのは、異界のような街並みだった。
石畳の隙間に溜まった汚水は、空など映さない。濁った水面には泥と紙くずが漂い、どろりとした反射が、まるで生き物のように揺れている。
両脇に並ぶ家々は、歪み、傾き、くすんだ木材や薄錆びた鉄板が継ぎはぎのように組み合わされていた。三階建ての建物もあるにはあったが、どれも傷だらけで、色褪せた布のようなものが所々に垂れ下がっている。
そこに暮らす人々の姿も、明らかに違っていた。
壁にもたれ、膝を抱えたまま動かない男。通りの隅で、誰かの食べ残しを漁る子ども。皆、痩せ細っている。どの瞳にも光はなく、それでも彼らの視線は、じっとこちらを追っていた。目が合った瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
「ひどいな……」
アオイの声が漏れた。言葉を探しているうちに、こぼれたような声だった。
セイスは一言も発さず、前だけを見て歩いている。まるで視界に何も映さぬように。
「うそ……」
アイカの口から漏れた声は、自分のものとは思えなかった。予想していた以上に——いや、想像すらしていなかった。
そのとき、アイカの足が止まった。
キュ、と。制服の裾が、後ろから引かれたのだ。
驚いて振り向いた彼女の目に映ったのは、一人の男の子だった。
痩せた体に、布切れのような服。髪は乱れ、頬には灰のような汚れがこびりついている。その瞳はうつむきがちで、ほとんど何も映していない。腕は細く、今にも折れてしまいそうだった。だが、その手が、かすかな力でアイカの制服を握っていた。
「……食べるものを、恵んでください」
掠れるような小さな声だった。
「あ……えっと……」
戸惑うアイカの隣から、ネシュカがすっと歩み寄った。
「ごめんなさい。私たちは、食べ物を持っていないの」
優しいが、それ以上を許さない声で。
男の子は静かに手を離し、足音もなくその場を去った。
「……食べ物なら、今から近くに買いに——」
アイカが口を開いたが、ネシュカの言葉がその思いを断ち切った。
「仮に、今、アイカがあの子に食べ物をあげたとして——その次は?」
ネシュカの声は静かだった。
どこか優しげにも聞こえるのに、まるで水底に沈んだ石のような、冷たさと重さを孕んでいた。
「……次?」
アイカの唇が震える。
声は出るのに、言葉の意味がすぐには掴めなかった。
「明日は? 三日後は? 二ヶ月先は? あの子はまた、同じように飢える。
それでも、あなたは——救えると思うの?」
胸が、きゅうっと縮んだ。
呼吸が、浅くなる。
頭ではわかっている。わかっていた。
それでも、心がそれを拒んでいた。
ネシュカはアイカの顔を見つめたまま、淡々と言葉を重ねていく。
「しかも、あの子だけじゃない。
一人に与えれば、十人、百人が集まってくる。
みんな、腹を空かせて、這うようにして、あなたのもとへ来る。
すがる目で、骨ばった手を伸ばして——
その全員を、あなたは救えるの? 金も、力も、それだけの覚悟も——あなたにあるの?」
「それは……」
答えられなかった。
口は開いているのに、声が出ない。
言葉はあっても、届かない。
「……できないのなら。
中途半端な優しさは、棄てなさい。
救えない命を前にして手を伸ばすことほど、——残酷なことはない」
ネシュカの言葉は静かだった。けれどその静けさが、まるで刃のように胸を裂いた。
——その優しさが、誰かを救うと同時に、別の誰かを絶望させるかもしれないということ。
アイカはただ、立ち尽くしていた。
小さな手で自分の制服の裾を握っていた、あの子の感触が——まだ、指先に焼き付いていた。
レイサとハナネは、ネシュカの言葉を聞いてそっと視線を伏せた。
まるで、自分の影の深さを見つめるように——沈黙だけが、場にじわじわと染み込んでいった。
◇
「いたい……離して……!」
静寂を切り裂くような泣き声が、どこか近くから響いた。
六人は、はっとしてその声の方へ顔を向ける。
視界の先にいたのは、痩せこけた少女。
その両脇を、大柄な男と、腹の出た中年男が挟むようにしていた。
さきほどの少年と同じ、手入れのされていない髪。そしてボロの繋衣を身につけている。
首と足には鈍く光る鉄の枷。首枷に繋がる鎖の先を、中年の男が無造作に掴んでいた。
「さっさと歩け!」
男が苛立ちまじりに怒鳴り、鎖を乱暴に引き寄せる。
「く、るしいようっ……!」
少女は涙をぼろぼろとこぼしながら、必死に鎖を握る手に力を込める。
引きずられるようにして、その小さな足が、ようやく地を這う。
「……あれが、人渡し……」
レイサが、息を呑むようにして呟いた。
彼の目に映った少女は、サユと歳が変わらない。
それほどの年齢の子が、あんな目に遭っている。
見たくなかった。目を逸らせば、きっと楽になれた。
けれどレイサの瞼は凍りついたように動かず、視界に映る惨めな現実だけが、ただ残された。
どうしようもない無力さと、言葉にならない怒り。
喉の奥に溜まったそれは、吐き出すこともできず、ただ、静かに沈んでいった。
「何度も言わせるな。いつまで、のろのろ歩いてやがる」
中年の男が苛立ちをあらわにし、鎖を握る手とは逆の掌を振りかざす。
殴るつもりだ——そう思った瞬間、アイカの足が反射的に動こうとして、止まった。
(助けないと……でも……)
ネシュカの言葉が、錘のように足首を引き止めた。
レイサもまた動けずにいた。正しい行動が分からなかった。
目の前で、暴力が振るわれようとしている。その理不尽に、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
「やっ……!」
少女は咄嗟に両手で頭を抱え、膝を曲げて身を縮める。
だが、その手は振り下ろされなかった。
「……なんだお前ら……!」
不意に、男の腕が止まる。後ろからがっしりと掴んでいたのは、セイスだった。
怒気を抑えた目をし、指に力を込めるたび、中年男のたるんだ腕に不自然な皺が寄っていく。
少女と大柄な男のあいだには、アオイが立ちはだかっていた。
その無言の姿は、もうこれ以上は許さないと静かに告げている。
「おい、仕事の邪魔すんなよ」
苛立った声をアオイに向けて大柄な男が言う。
だが二人よも先に口を開いたのはネシュカだった。
「アオイ、セイス。やめなさい」
アイカたちのすぐ横にいたネシュカが、目を細めて二人を睨みつけていた。
「このまま、見過ごせっていうはるんですか?」
「この二人が、子攫いをしている奴らの可能性もあります」
セイスが語気を強め、アオイも視線を男から逸らさずに言い放つ。
「……子攫いなら、こんな白昼堂々やらないわよ。あの男の手を見なさい。あれ、契約紙でしょう」
ネシュカが淡々と返す。大柄な男の手元には、確かにくるりと巻かれた紙があった。
「そうだ……!分かったら早くこの手を離せ」
中年男が歯を食いしばりながら、セイスの手を振り払おうとする。
だが、セイスは離そうとしなかった。代わりに、少しだけ、握る力を強めた。
「……もう一度言うわ。二人とも、やめて」
ネシュカの声が、先ほどよりも少し強くなる。
セイスとアオイは、しばし逡巡したあと、ゆっくりと男たちから離れた。
「ったく、とんだ邪魔が入ったな……さっさと来い」
中年の男が少女の鎖を強く引く。少女は小さな呻き声を上げながら、その場を引きずられるようにして去っていく。
大柄な男も後に続いた。
振り返った少女の目には涙が浮かび、アオイとセイスの背中をいつまでも見つめていた。
けれど、二人が再び動くことはなかった。
やがて彼らの姿が通りの向こうに消えると、ネシュカがため息を吐き、二人に目を向ける。
「……騒ぎを起こすなって言ったのは、新人たちだけじゃないわ。あなたたちも含めて、よ」
「……すみません」
アオイが静かに頭を下げる。けれど、口元は真っ直ぐ、眉はわずかに歪んでいた。
セイスも、やり場のない思いを吐き出すように、無言で地面を小さく蹴った。
◇
そんなやりとりが交わされるすぐそばで、アイカはただ立ち尽くしていた。
目の前に広がる光景が、あまりにも自分の知っている世界と違いすぎて——
まるで嘘のようで、現実だと信じきれずにいた。
(……全部違う。私が生きてきた日々と、何もかも)
ナサ村での暮らしが、ふと脳裏をよぎる。
炉座のあたたかさを背に、ご飯を食べる。
学び舎へ通って、友達とふざけ合い、ときには先生に叱られたりして。
守攻機関に入ってからは、いつか任される務めに備え、教えを受け、訓練に励んだ。
目を閉じる前には、「明日は何をしようかな」なんて、小さな楽しみを思い描きながら——
ただ、安心して、眠っていた。
それが“普通”なんだと、どこかで疑いもなく思っていた。
けれど、ここでは——
ご飯もなく、学ぶこともできず、誰にも頼れず、怒鳴られ、鎖を引かれて、生かされている。
そして今、目の前の光景が、その思い込みを静かに壊していく。
(……じゃあ、“普通”って、何?)
誰が決めるの。
どこからが正しくて、どこまでが間違い?
どうして、それが“生まれた場所”なんかで決まってしまうの?
答えは出ない。
ただ、胸の奥に、重たい痛みだけが沈んでいく。
その隣で、レイサもまた、黙って立ち尽くしていた。
顔をこわばらせ、拳を、強く握ったままで。
(……俺たちは、ただ……たまたま、恵まれていただけなんだ)
家があること。
膳が並ぶこと。
頼れる誰かがいること。
それは、“あって当然”なんかじゃなかった。
本当は、とても脆くて、簡単に手に入るものじゃなかった。
ここでは、そんな“当然”が、一つもない。
希望も、子どもたちも、
まるで道端に転がる石ころのように——
踏まれて、見捨てられ、置き去りにされていく。
そんな二人のそばで、ハナネは静かに息をついていた。
(世の中なんて、きっとどこも、こういうもの……)
綺麗に整った場所の裏には、必ずといっていいほど、こうした汚れがある。
目を背けて、誰かが見えないふりをして——そうして成り立っているものばかり。
何を今さら。
けれど……そう思ってしまう自分自身にさえ、嫌悪や、腹立たしさを覚える。
私はずっと、自分のことばかり考えていた。
どうしてこんな目に遭うのか、どうして誰も助けてくれないのか——
そんな思いばかりを抱えていた。
でも今、こうして目の前の現実を見て思う。
私よりも、もっと酷い状況にいる人たちがいる。
それは、わかってる。
でもだからといって、自分の痛みが間違っていたとは思わない。
それを理由に、何かを我慢しろなんて話になるのは、もっと違う。
誰の人生にも、ちゃんと重みがあるはずだから。
けれど、それでも。
こんな目に遭っている人たちを前にして、過去ばかり見ていた自分が、ただただ情けなかった。
どうして、この人たちがこんな扱いを受けなければならないの。
どうして、わたしたちと同じように生まれ、同じように生きているだけなのに、こんなにも違うの。
声を上げることすら許されず、理不尽を受け入れるしかないなんて——そんなの、あんまりじゃない。
……分かってる。
私がここで何を思ったところで、何も変わらない。
だからこそ、感情なんて、意味がないはずなのに——
それでも、どうしようもなく、胸がざわついていた。
◇
「……なんだ?」
アイカたち六人が集まっている場所を、少し離れた建物の上階から見下ろす人影があった。
ガラスのない窓枠から身を乗り出すようにして、少年がちらりと顔をのぞかせている。
「ライ? どうしたの?」
すぐそばにいた若い女性が、よそ見をしていた少年に気づき、声をかけた。
「なぁ、あいつら……ここらの連中じゃねぇよな?」
ライと呼ばれた少年は、下方にいるアイカたちを見据えながらつぶやいた。
「どれどれ……あの黒い制服、もしかして守攻機関の人たちじゃない?」
女性も窓の隙間から外をのぞき、ライの視線の先を追う。
「守攻機関って、なに?」
ライが首だけで問い返すと、女性は顎に指を添えながら少し考えるように言った。
「たしか……ナサ村の。南の方にある村だったよね。すごく評価されてるって噂。春の試験がめちゃくちゃ厳しいらしいけど」
「……稼げるのか?」
ライは目を離さずに問いかけた。
「うーん、普通でも三百ティルくらいはもらえたはず……上にいけばもっと、かな」
「へぇ、そんなにもらえるんだ」
感心したようにつぶやくライに、女性がくすりと笑う。
「ねぇ、そんなことより。今は私の相手してくれるんでしょ? もう待ちくたびれちゃった」
甘えるように身体を寄せながら、女性が誘う。
「ああ、悪い」
ようやく視線を外したライが、そちらへと顔を向けた。
ライはそのまま女性の腕を引き、ゆっくりと窓辺を離れた。
神血の英雄伝 第四六話
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繋衣→ワンピースのイメージ




