弱さという名の傷跡
その後、アイカは糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。
恐怖と安堵――両極の感情が一気に押し寄せ、喉の奥で交じり合う。
「お姉ちゃん…」
その姿を見たトワはアイカの名前を呼び、アイカの背中に手を添える。
透羽の小さな手は震えていた。声にも、心配とサクヤ・クオネへの恐怖が色濃く残っていた。
トワは言葉を探しかけたが、口を開くことはできなかった。
初めて見る姉の顔――そのこわばった横顔が、まるで今にも砕けそうに見えたからだ。
何を言っても、きっと傷つけてしまう。そんな予感だけが、胸に重くのしかかっていた。
やがて、重苦しい時間が五分ほど流れた。
――そのときだった。
「……なんでここにいるんだ」
北側から、低くしわがれた声が響く。
北側から現れた男は、まるで獣のような足音で駆け寄ってきた。
三十代ほどの男だった。鋭い目つきと、兵士のように研ぎ澄まされた筋肉を持つその男は、どこか愛叶に似た空気を纏っていた。
濁った銀の刈り上げ髪は、よく見ると霞んだような灰茶をしている。
男は素早く足を止めると、そのまま膝をつき、二人と視線を合わせた。
怒り、焦燥、そして滲むような不安が、その低く掠れた声に混じる。
「どうしてまだここにいる……! イロハからは、お前たちはとっくに避難したって……!」
叫ぶような声。だが、その裏にあったのは、紛れもなく
「父」としての焦りだった。
男は二人の父であるイヅキだった。
守政機関第一部隊の兵だ。
おそらく、途中で様子を見に戻ってきたのだろう。
だが、そこで目にしたのは
「……アイカ」
イヅキは愛娘の名を呼んだ。だが、その声は強くも厳しくもなかった。イヅキの目の前にいるのは、もう、"いつもの"アイカではなかった。
朝に見たはずの、無邪気で、何にでも手を伸ばしていた少女は、どこにもいなかった。
目は開いているのに、何も見ていない。
耳は聞いているのに、何も届いていない。
呼吸だけが、まだ体に命を繋ぎ止めていた。
泣き叫ぶことも、怒ることも、できなかった。
イヅキは、言葉を失った。
愛娘から、こんな顔を見せられる日が来るとは
思ってもみなかった。
鋭いはずの目が揺れ、唇が、無意識に強く結ばれる。
……今、かけるべき言葉が見つからない。
深く息を吸うと、感情を押し殺したように冷静な口調へと変わる。
「……話は後だ。今は、避難することが最優先だ」
そう言って、イヅキは二人を片腕ずつ抱き上げた。
その腕には、戦場を駆ける兵士としての強さと、父親 としての必死さが混じっていた。
呻き声が響く崩壊の村を背にして、三人は夜の川辺へと駆け出した。
◇
東側の川辺に三人はようやく辿り着いた。
このあたりには、守政機関の施設があるため、他の避難所に比べて物資がやや充実している。
そのため、東側は子どもや老人といった、避難が困難な村人が優先的に集められている。
だが、その空気に安堵はなかった。
ただ、張り詰めた沈黙と、不安だけが、じっとりと肌にまとわりついていた。
イヅキも、トワも、アイカに何度か声をかけてくれた。
だが、その言葉はどこか遠くで響いているようで、ほとんど耳に届かなかった。
かろうじて覚えているのは「北側の避難所でレイサが瀕死の状態で運ばれたらしい」
という会話だけだった。
避難所の子どもスペースでは、泣いている声が絶え間なく響いていた。
両親とはぐれた子ども。
空腹に耐えきれず、うずくまる幼い声。
何が起きたのかもわからず、ただ呆然と座り込んでいる小さな背中たち。
薄い毛布に包まりながら、アイカはサクヤ・クオネが残した言葉を、何度も何度も思い返していた。
サクヤ・クオネの言うとおり。
あの時、怖くて動かなかった。
"いつか誰かを助けられるように"なんて綺麗事を考 えておきながら、結局は自分が傷つくのが怖くて
あの子に手を伸ばさなかった。
──助けられたはずだったのに。
──手が届いたはずだったのに。
自分は強い人間だと思っていた。錯覚だった。
惨めで、臆病で、無力で、どうしようもないくら い、弱いだけの人間だった。
アイカは、毛布をかぶったまま、そっと泣いた。
暗がりの中、喉の奥で詰まった嗚咽が、ゆっくりと胸を焼いた。
毛布の中で、濡れた呼吸だけが震えていた。
何をしても、もう遅い。
時間は戻らない。
あの女の子は、二度と、助けられない。
それでも。
それでも――
(……強くなりたい)
苦し紛れのその願いは、祈りですらなかった。
光なんてどこにもない。
ただ、血まみれの悔しさと、剥き出しの自責の中から零れた、
ひとつの、呻きに近い願望だった。
神血の英雄伝(イコルの英雄伝)第四話
読んでいただきありがとうございました!
短めですが、書き終わりました。゜(゜ ◜ᴗ◝゜)゜。
暑くなってきましたね!私の家では扇風機を使い始めました!
次回も読んでいただけると嬉しいです(՞ . .՞)︎