草原を越えて
ナサ村を出発してから、およそ七時間。
陽は高くなり、市刻の始まりを告げていた。
舟の揺れがようやく止まったとき、五人の姿は、リグラムの南端──ミラストのトラセイル港にあった。
「やっと着いた……」
「帰りもこれ乗るんですか……?」
舟を降りるなり、アイカとレイサがくったりとへたり込んだ。長時間の揺れに晒された顔は、すっかり生気を失っている。陽差しは強く、波は穏やかでも、体力は確実に削られていたようだ。
ハナネも無言のまま、口元に手を当てていた。表情が青白い。どうやら、酔ったらしい。
そんな三人を尻目に、セイスはどこか涼しげな顔で立っていた。舟の中で寝ていた分、幽刻の頃よりもすっきりしている。
「俺たちはここで休む。お前らは、まぁ頑張れや」
舟から荷物を降ろした船手のひとりが軽く手を挙げ、そう告げた。
「ありがとうございました」
アオイは深々と頭を下げ、礼を述べた。
そのとき、アイカが足元の感触に気づいたように、ぽんぽんと足で渡り場を叩いた。
「……この渡り場、木じゃなくて石でできてる……」
「ほんとだ……ナサ村にもこういうの作ればいいのに」
レイサも感心したように呟く。だがその顔色は相変わらず悪い。
「今から歩けば、市刻の終わりまでにはミラストに着ける」
アオイが淡々と口にする。その顔には疲れの色ひとつ浮かんでいない。
「……歩くんですか」
「着いたばかりなのに……」
アイカとレイサが、揃って絶望的な声を上げる。
「……嘘でしょ……」
ハナネも、さすがに信じられないといった表情で呟いた。
そのときだった。少し離れた場所から、陽気な声が飛んできた。
「お前たち、ミラストまで行くならラゴンに乗せていこうか? 安くしとくぜ?」
顔を向けると、声の主は赤ら顔の中年男性だった。 日焼けした腕を組み、傍らには一頭の馬と、それに連結された車輪付きの荷台があった。屋根もついている。
(……ラゴン?)
アイカは、イナトの話を思い出す。
リグラムには《ラゴン》という、人や荷物を乗せて馬が牽引する移動手段がある、と。
アイカとレイサは、歩かなくて済むという希望に、顔をぱっと明るくした。
だがアオイは、無言で少し思案をめぐらせていた。
「まぁ、一人五ティルってとこだな」
間を置かず、中年男性がにやりと笑って言い放つ。
「たっか!」
「たっか!」
アイカとレイサが、まるで示し合わせたかのように声を上げた。
楽はしたい。けれど、一人五ティルは高すぎる。そう判断したのだろう。
「嫌なら別にいいぜ?」
男は肩をすくめ、からかうように視線を送る。
「そんくらい、歩けるやろ」
セイスが無感情にそう返す。
「……そうだな。歩く……」
アオイもそれに倣って、口を開きかけた──が。
その瞬間、アイカとレイサが、無言のまま一歩、また一歩とセイスとアオイにじわじわと詰め寄っていった。
顔は泣きそう、いや、むしろ今にも泣く気満々だ。
手を組み、うるうるした瞳を上目遣いに向け──もはや「物理的圧」がすごい。
セイスは明らかに引き攣った。眉がピクリと跳ね上がる。
アオイも「これは断れないやつだ」と察したのか、そっと視線を逸らした。
……三秒後。
二人は、見事に沈黙の圧力に屈した。
◇◇◇
こうして五人は、ラゴンに乗ってミラストを目指すことになった。
草原を進むラゴンは、車輪の音を立てながら、ゆっくりと道をゆく。屋根付きの荷台は日差しを多少和らげてくれ、歩くよりもはるかに快適だった。
「……これ、歩いてたら死んでた……」
「ほんとに……」
アイカがもたれかかりながら呟き、レイサが心底同意するように頷いた。
ハナネも、歩かずに済んだことにほっとしたような表情を浮かべている。
「……あんくらいで音上げてたら、続かんぞ」
セイスがぼそりと呟く。
「でも暑いしな。三人の気持ちもわかる」
アオイが静かに庇うように言った。
アイカは荷台の前方まで移動し、操縦席の後ろから野原を見渡した。
目の前に広がるのは、どこまでも続く草地。森の外に石壁があり、その外は海に囲まれているナサ村とは、まったく違う風景だった。
(……こんなに広い場所、初めて)
その景色に、胸が静かに高鳴る。
「すごい……」
思わず漏れた呟きに、中年男性が振り返ることなく返す。
「なんだ、嬢ちゃん。ラゴンに乗るの、初めてか?」
「うん! リグラムでは、みんなこれ使ってるの?」
「いや、金のあるやつは《カレット》っていう、もっといいやつに乗ってるな」
そう言って笑う男性に、アイカも目を輝かせながら声を返す。
「へぇぇ!」
アイカは、きらきらとした目で話を聞く。どこか娘と話す父親のような雰囲気になっていた。
「嬢ちゃんたち、南から来たってことは……ナサ村からか?」
「うん!」
アイカは即座に返事をした。
「ナサ村か……昔、あの村長に会ったことがあってな」
「え、ほんと!?」
「ああ。穏やかでな。トラーナ街にいる連中にも、分け隔てなく接してた。あれは、いい村長だったよ」
男の語り口は、どこか懐かしげだった。
(……やっぱり、じいちゃんってすごいんだな)
祖父を誇らしく思いながら、アイカは静かにその言葉を噛みしめた。
「トラーナ街って何?」
「んー、まあ……子どもは知らなくていいことだ」
苦笑混じりにそう言われ、少しだけ不満そうな顔を浮かべる。
やがて──
「お、見えてきたぞ。ミラストだ」
男があごで前方を指す。
男の声に、アイカは進行方向を見つめる。
視界の先、地平線の向こうに、建物が点々と立ち始めていた。ナサ村とは違う、どこか硬く無機質な形をした建物群──
「……すごい……」
アイカは目を丸くしたまま、視線を離せずにいた。
まるで別の世界に足を踏み入れるような、そんな心地が胸に満ちていた。
◇◇◇
「うりゃっ!」
元気な声をあげて、アイカが勢いよくラゴンから飛び降りた。
「おい、待てってば!」
すぐ後を追って、レイサも軽やかに地面に降り立つ。先ほどまでの陰りはすっかり消えていて、頬には血の気が戻っていた。走り出したアイカの背を目で追いながら、レイサもその後を駆ける。
続けてアオイ、そしてセイスが、静かにラゴンを降りた。
最後に残ったハナネは、一人、荷台の端に腰をかける。足元を見下ろしながら、そっと支柱に手を添え、慎重に降りようとするその様子に、アオイが近づいてきた。
「……使うか?」
アオイは短く言いながら、無言で手を差し出す。
ハナネは静かに顔を向けると、しばし迷った末に、その手に自分の手を重ねた。そして、一歩、地面へと降り立った。
草を踏む音とともに、視界が開ける。
アイカは思わず足を止め、辺りを見渡した。
どこまでも広がる草原。その中に、ぽつりぽつりと、家のような建物が点在している。
それは、見たことのない造りだった。
壁は、積み上げられた細長い石でできており、屋根はなめらかに斜めに落ちているものや、中央がわずかに平坦になったものまで、様々だ。どの家にも共通して、屋根の上に突き出した筒があり、いくつかからは白い煙が揺れていた。
扉の取っ手には金属が使われていて、どこか上品な雰囲気を漂わせている。
柱で屋根と繋がれた庇が外壁に沿って伸びている家もあり、建物は開けた川の近くに寄り添うように並んでいた。
「……すごいな。どこを見ても、ナサ村とは違う……」
レイサが追いつき、肩で息をしながらぽつりと呟く。
「もうすぐヴォランクが出る。早く行くぞ」
少し離れた場所から、アオイの声が届いた。目を輝かせて立ち尽くす二人に向けて、落ち着いた声で呼びかける。彼の隣には、セイスとハナネの姿もある。
「あ、待ってよ!」
アイカが声をあげて駆け出す。レイサも笑みを浮かべながらそのあとを追った。
「お前たちー! 気をつけて行けよー!」
ラゴンの御者だった中年の男が、口に両手を当てて大声を上げた。その声にアイカは振り返り、にっこりと笑って大きく片手を振る。
男もまた、穏やかに手を振り返す。
そしてアイカは、もう一度前を向いた。
神血の英雄伝 第三十五話
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