リグラムへ
赤陽の月の初め。
夜の名残がまだ空を覆う中、北門の舟着き場に七つの影が集まっていた。
アイカ、レイサ、ハナネ――そしてアオイとセイスの五人に、舟手の男たちが二人。
かすかな波音と、時折吹く冷たい潮風が場を包み込む。
「ふあぁ……流石に早すぎない?」
アイカが欠伸まじりにぼやいた。片手で口を押さえながら、まだ眠たげな顔をしている。
幽刻もまだ続く頃。空にはまだ陽の気配はなく、辺りは仄暗いままだ。だがその分、風は少し肌寒くて心地よい。光源は、舟手たちが持つ小さな揺灯だけだった。
「今から出ても、リグラムに着くのは市刻ごろだぞ」
アオイが淡々と返すと、
「……うそ……」
「まじか……」
レイサとアイカが同時に目を細め、絶望のような声をもらした。
「朝からうるさいわ……」
セイスがぼそりと低く呟く。寝起きなのか不機嫌なのか、声はどこまでも地を這うように重たい。
そんな中、ひとりだけ涼しい顔をしていたのがハナネだった。
(……早く出発してくれればいいのに……)
すでにすっかり目が覚めているようで、アイカたちのやりとりを聞きながら小さくため息をついた。
ようやく舟手が口を開く。
「じゃ、出すぞ」
七人を乗せた舟が、ゆっくりと渡り場を離れた。
静かな海面に、一筋の水の跡が伸びていく。
◇
海は穏やかで、潮の匂いを含んだ風が五人の髪を優しく撫でていく。
舟の左右には腰の高さの柵があり、柵沿いには等間隔に腰をかけられる板が渡されていた。上方には、丸みを帯びた帆布の屋根が張られ、日差しや風を和らげる役目を果たしている。
左側に座るのはアイカ、レイサ、ハナネ。右側にセイスとアオイ。そしてもう一人の舟手が腰を下ろしていた。もう一人の舟手は舵を取りつつ、舟を前へと進めている。
それぞれの荷物は最小限。
個人のお金と水の壺、小型の武器、そして簡単な着替えなどが詰め込まれていた。
「わああ……海って、すごい!」
アイカが両手を広げ、思わず声を上げた。黒く沈んだ水平線には、わずかに白く光る波頭がきらきらと揺れている。
「でも、暗くてあんまり見えないなー……」
レイサがやや残念そうに言った。
二人がはしゃぐ側で、ハナネとアオイは静かに、まだ見ぬ西の空を見つめていた。
セイスはというと、屋根の柱にもたれ、目を閉じたまま身じろぎもしない。
しばらくして、アイカがふと舟手の手元に目をやる。
舟手の男が手にしていた丸い板に目が留まった。板の中央には晶板が嵌め込まれ、薄く金色の針が一つ、ゆらゆらと揺れている。
「それ、なに?」
「ああ、これ? ウェイナールって言うんだ。進む方角が分かるやつだよ」
「えっ、どうやって!?」
前のめりに食いつくアイカに、舟手は笑いながら板を少し傾けて見せる。
「この内側に、“南”とか“西”とか刻まれてるだろ? この針はいつも南を向くようになってる。だから、今舟がどの方角に進んでるかが分かるんだ」
「へぇ……ってことは、今は西に向かってるってこと?」
「そう。リグラムは西にあるからな。針が南を指してる分、こっちが西になる」
アイカとレイサは、顔を寄せてその針の動きにじっと見入った。
「本当だ! ……すごい!」
「不思議だなぁ……」
レイサもじっと針を見つめた。その様子に舟手は小さく笑みを浮かべる。
守攻機関の隊員とはいえ、まだ十五歳。
そんな年相応の反応を見て、どこか安心したような表情だった。
そのとき、ハナネがふとアオイに目を向けて口を開いた。
「……あっちに着いたら、どうするんですか?」
その声に、アイカとレイサも同時にアオイへ視線を移す。
リグラムのメルグロアでネシュカと合流し、任務の補佐をする――という話は聞かされていたが、具体的な行動は何も知らされていなかった。
「悪い。俺もセイスも……詳しいことは聞かされてない」
アオイは無表情のまま、肩をすくめる。
「え、じゃあどうすんの?」
「“詳しい話はネシュカ先輩に聞け”って。イナトさんの言葉だ」
「そうなんですね……」
ハナネが小さくうなずいた。
「あっ、お金って自分たちで出すんですか?」
レイサが思い出したように聞くと、アオイは即座に答えた。
「三百リザン、ユサ隊長から預かってる」
「さんびゃく……リザン!?」
アイカとレイサが、同時に目を丸くした。
「父さんの三か月分の給金なんだけど、それ……」
レイサが苦笑交じりに呟くと、アイカは指を折って数えはじめた。
「私がもらった給金が……二百ティルだから、つまり……」
途中で数えるのをやめて、手をぱたんと下ろす。
「んー。よく分かんないけど、すごい額ってことは分かった!」
その一言にレイサが吹き出し、アオイも思わず小さく笑った。
◇◇◇
舟に揺られて二時間が経った。空は東から白みはじめ、明刻の初め頃。
「ねぇねぇ! 太陽、出てきたよ!」
アイカが陽の昇る方角を指差し、ぴょんぴょんと跳ねた。
そのたび舟が小刻みに揺れ、乗っていた皆の身体もそれに釣られてふわりと浮いた。
「うおっ……アイカ、危なっ!」
レイサが思わず声を上げ、慌てて柵にしがみつく。
「ちょ、ちょっと! 落ちるってば……!」
ハナネも同じく柵に掴まり、眉をひそめてアイカに鋭い視線を投げた。
「え〜、大丈夫だよ! きっと、このくらい平気だって!」
アイカは口をとがらせながらも、どこにも根拠のない笑顔で返す。
「なによ、“きっと”って……」
ハナネは必死で柵を掴んだまま、呆れたように返した。
「……わかったよ、やめるってば〜」
アイカは照れたように笑って、ようやく大人しく腰を下ろした。
それを見たハナネは、ようやくほっと息をつく。
ハナネがちゃんと自分に向き合ってくれるようになった気がして、アイカの胸は少しくすぐったくなる。
(……この三人、本当に仲いいよな)
アオイはそんなやりとりを横目に、内心で静かに呟いた。
やがて、昇った陽の光が海面を照らしはじめる。
水面はまるで宝石を砕いたようにきらめき、穏やかな波の上で光が踊っていた。
「これが……海……」
波間にきらめく光が、どこまでも続く絨毯のように広がっていた。
アイカは柵に身を乗り出し、両手でしっかりと縁を握ったまま見惚れていた。
「綺麗だなぁ……」
レイサも腕を柵にかけて、朝焼けに染まる水平線をじっと見つめている。
先ほどまで暗く沈んでいた海が、徐々に水色へと染まりはじめた。
「レイサ、見て! 魚!」
「……亀もいる」
一瞬、言葉を忘れるほどの静けさと美しさが場を包んだ――が、それもつかの間だった。
キュイィッ!
甲高い鳴き声が、上空から響いた。
アイカとレイサは驚いたように、空を仰ぐ。
チィキュキュィー!
「……見たことない鳥! 目のまわり、黒い!」
「トリリンだな。海沿いに住んでる鳥で、特に夏場に活発になる」
舟手の一人が穏やかに答えると、アイカが嬉しそうに顔を向けた。
「へえっ、そうなんだ!」
そのとき――
コトン。
舟の中で、鈍い音が響いた。
皆が一斉に音の方を見ると、なんとセイスが上半身を、舟手との間の空間にぐったりと倒していた。
「セイスさん、寝てるんですか?」
「……みたいだな」
レイサがアオイに小声で尋ねると、アオイはちらりとセイスを見やりながら答えた。
セイスは上半身を少し丸め、まるで遊び疲れた子どものように眠っていた。
「……子どもみたい」
ぽつりとハナネが呟く。
この言葉をもしセイスが聞いていたら、大声で怒鳴り返していたかもしれない。
……起きてなくて、本当に良かった。
◇◇◇
それから、さらに五時間が経った。
陽はすっかり高く昇り、海上にもじりじりとした日差しが降り注いでいる。舟の帆布屋根の下にいても、風の止んだ瞬間には汗が滲むような暑さだった。
「……ほんとに、暑い……」
アイカはうなだれるように背を丸め、肩で息をしながら呟いた。朝のはしゃぎぶりはどこへやら、今はぐったりと柵に寄りかかっている。
「……俺、戻しそうかも……」
「いつまで……乗ってるの……」
レイサも顔を青くし、ハナネはうんざりとした声を漏らす。さすがに長時間の舟旅は、三人の体力を容赦なく削っていた。
そのとき、舟の奥から低くあくびの声が響く。
「……朝か……」
セイスがゆっくりと上体を起こし、片手でぼさぼさになった髪をかきあげた。目元を擦りながら、大きく息をつく。
相変わらず舟酔いひとつ見せないその様子に、アイカたちは一瞬だけ羨ましげな視線を向けた。
アオイは、じっと進行方向を見据えたまま、舟の縁に片肘をついている。
やがて、静かに口を開いた。
「……もうすぐ着くぞ」
その一言に、アイカたちが一斉に顔を上げる。
前方。まだ遠くだが、霞の向こうに──ナサ村の舟戸とは比べ物にならないほど広い港が、ぼんやりとその輪郭を見せ始めていた。
だがそこに、建物の影は一つもなかった。広い岸辺に、いくつかの舟が静かに浮かび、その先には低く平らな野原のような地が、淡く広がっている。
一本の桟橋──渡り場橋だけが、海へとまっすぐ突き出ていた。だが、人影はどこにも見えず、港全体が時の止まったような静けさに包まれていた。
それでも、そこには──ナサ村とは違う光景が広がっていた。
「……大きい……!」
アイカが目を見張り、呟いた。心なしか、声が震えている。
舟はなおも静かに進む。
初めての任務。初めての土地。
胸の奥に不安がないと言えば嘘になる――それでも、同じくらいの期待と高鳴りが、五人の胸に灯り始めていた。
神血の英雄伝 第三十四話
読んでいただき、ありがとうございました。
今回から、いよいよリグラム編が始まりました。
ネシュカと合流するまで、少し長めの道のりになりますが、気長に楽しんでいただけたら嬉しいです૮ ◜ᵕ◝ ა
初めて村の外の世界を目にした、アイカとレイサの表情にもぜひご注目ください。
次回も読んでいただけたら、とても嬉しいです(՞ . .՞)




