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神血の英雄伝  作者: 小豆みるな
一章 始まり
35/83

裏ノ物語 父としての決断

これは、ナサ村が襲撃に遭う前と後、そしてその後の七年間にわたるイヅキのお話です。

 今日は記録書がやたらと多くて、守攻機関に遅くまで残っていた。

 帰り道、足は鉛のように重く、家にたどり着いた頃にはもう深刻の半ば。月が高い。


 引き戸をそっと開けて中に入る。

 家族を起こさないよう、息を殺して靴を脱ぐ。

 ふと、机の上に目をやると、俺の分の夕膳がきちんと残されていた。


──イロハだ。


 どんなに遅くなっても、必ず用意してくれる。律儀にも程がある。


 ……俺には、もったいない妻だ。


「帰ったか」


 ふいに横から声がした。

 振り向くと、お義父さんが部屋の影から顔を出していた。


「……あ、すみません。起こしてしまいましたか」


 静かにしたつもりだったが、やはり音で目が覚めたのだろう。申し訳ない。


「いや、わしも片づけごとをしていたんだよ」


 そう言って、お義父さんはいつもの穏やかな顔で微笑んだ。


「無理はするなよ」



 それだけ言って、すっと引き戸を閉める。


──村長なんて、常にやることだらけだろうに。


 家に帰っても気を抜くことはない。

 でも、それでも時間があれば、ちゃんと家族と向き合う。


 ……あの人は、すごい。

 俺なんかとは、比べるまでもない。


 守攻機関が休みの日なんて、俺はほとんど寝てばかりだ。

 たまに子どもたちに剣の型を教えるくらいで、遊んでやった記憶なんて……もう三年はない。


 イロハとも、ほとんど言葉を交わさない。

 隣で寝てはいるが、触れもしない。……まあ、そもそも、イロハの方にその気があるのかもわからないけど。


 家のこと、子どものこと。全部、イロハ任せだ。


 アイカはおてんばで手に負えない。

 トワは身体が弱くて、熱がでた時にはイロハが看付きしてくれる。


 家族みんなで出かけたのは、いつが最後だったろう。思い出そうとしても、もう出てこない。


 ……俺は、父親失格かもしれない。

 本気で、そう思う。


 それでも。


 それでも、家族は、俺を慕ってくれている。


 アイカもトワも、守攻機関の服を着てる俺を「すごい!」って目を輝かせてくれる。

 イロハも「人のために頑張るあなたは素敵」と言ってくれる。


 そして、お義父さんも、ああして心配してくれる。


──本当に、いい家族に巡り会えた。


 用意された夕膳を黙って食べて、沐所で水をかぶり、着替えて部屋に戻る。


 引き戸をそっと開けると、薄暗い寝間の中で、声がした。


「……おかえりなさい」


 眠そうな声がした。布団の中でイロハが目を開ける。引き戸の音で起こしてしまったらしい。


「悪い、起こしたか」


 言いながらも、ふと目が留まる。


 髪がさらっと肩にかかって、服の襟がずれて鎖骨が見えていた。……色っぽい。うちの嫁は村一番の美人って言われてる。

 でも今の顔はちょっと違った。眠そうな目とか、はだけた服とか──なんか、あどけなくて……。いつも凛としてる分、こういう顔されるとちょっと、まずい……。


 で、見とれてたら──


 イロハが自分の布団をちょいっと持ち上げた。


「……久しぶりに、一緒に寝る?」


 不意打ちだった。心臓が跳ねた。

 このまま布団に飛び込みたい、すごく。でも──


 隣の部屋には子どもたちが寝てるし、明日も早いし、なにより俺の体力がもう限界だ。


「今日はやめとく」


 そう言って、自分の布団に入った。


「……そう?」


 イロハは静かに布団にもぐる。

 俺も天井を見ながら考えた。


 ……次の休み、どこか行くか。アイカとトワを連れて市場でも。

 イロハにも何か贈ろう。たまにはお義父さんにも。

 そういうの、大事にしないと。最近、ちゃんとやれてなかったしな。


──と、そんなことを考えて眠りについた。





 警鐘が鳴った。


「……!」


 飛び起きる。


 なんだ? こんな時間に? まさか火事か? いや、警鐘ってことはもっと何か──


「何かあったの!?」


 イロハも起きた。


「わからない。でもたぶん──」


 引き戸が開いた。


「イロハ、イヅキ。襲撃だ。わしは村の確認をしてくる」


 そう言い残して、お義父さんが出ていった。


 襲撃──!? なんで!? まさか本当に?


「俺も村の避難に行ってくる。子どもたちのこと、頼んだ」


「……ええ」


 慌ただしく服を着て、靴を履く──そのとき。


「イヅキ!」


 背中越しに、イロハの声がした。


「お父さんもだけど……イヅキも、絶対、無事でいて」


 その声はかすかに震えていた。凛とした彼女の声が、こんなにも不安げで……胸が締めつけられる。

 安心させたかった。けど、「大丈夫だ」なんて、軽くは言えない。


 だから俺は、精一杯の笑顔を浮かべてこう言った。


「頑張ってくるよ」


 それが、今の俺に言える精一杯だった。

 引き戸を開け、夜の闇へと飛び出した。


 外へ出ると、灰色の煙が空に舞っていた。


 風に煽られて、焦げた木の匂いが鼻を突く。

 南側の家のいくつかが、炎に包まれていた。


「……なんだよ、これ」


 一瞬、言葉が出なかった。

 燃え上がる屋根。崩れかけた壁。いつもと同じはずの村が、別の世界みたいに見えた。


 けど──耳をつんざくような泣き声が現実に引き戻した。


「やだよぉ、お母さんっ……お父さんっ……!」


 子どもの声だ。たぶん親とはぐれたんだろう。

 すぐに声の方へ走る。

 瓦礫の間に、小さな影が蹲っていた。


「大丈夫か?」

「ぅ……クガミの人……?」

「そうだ。お母さんとお父さんは?」


 しゃがんで、目線を合わせて聞いた。できるだけ怖がらせないように、笑顔を作る。


「……どっか行っちゃった」

「そっか。大丈夫。おじさんが安全なとこまで連れていく」


 そう言って、子どもを抱き上げる。小さな体が震えていた。

 足を止めてる場合じゃない。避難所へ急がないと。


──東の避難所なら近い。子どもや老人を優先して保護してるはずだ。


 走って、走って、やっとのことで避難所にたどり着いた。

 中ではすでに避難した村人姿が何人かあった。


「イヅキ先輩!」


 横から駆け寄ってきた声に顔を向けると、第二部隊のクレムだった。

 まだ入隊してニ年ちょっと。若いが真面目な後輩だ。


「クレム、状況は?」

「南西はユサ隊長と七人が対応中です。

中央はハクナ副隊長と四人。

各避難所は、僕を含めて三人で見守りしています。……でも、北側がシアン先輩とキイナ先輩だけで──」

「わかった。北は俺が向かう。ここは任せた」

「はい!」


 すぐに踵を返し、北側へ走り出す。

 村の全体をざっと見渡す限り、まだ壊滅的な被害ではない。今のうちに抑えなければ……。


──走っていると、前方で人影が見えてきた。


 シアンだ。襲撃者と交戦している。

 押されているな。


 俺は駆け込みざま、敵の足を狙って斬りつけた。

 膝に一撃が入ったのか、襲撃者は悲鳴を上げて腰を落とす。


「イヅキさん!」

「待たせた。みんな無事か!?」

「……三人、守れませんでした。それと……キイナさんが」


 シアンが視線を落とす先。

 血を流して倒れたキイナがいた。……クソッ 間に合わなかったか。


「死ねぇぇっ!」


別の襲撃者が飛びかかってくる。


速い──けど、力任せだ。


「ぐっ……!」


 力強い。動きを封じるように足を斬り込む。

 刺すのではなく、筋を断つ角度で。複数の敵の足を止めた。


 ここは大丈夫そうだ。


──そのとき、誰かが走ってくる足音が聞こえた。


「イヅキ……!」


 イロハだった。息を切らし、必死な顔でこっちへ駆けてくる。だが──あの子たちの姿が、ない。


「イロハ、アイカとトワは?」

「東の避難所へ向かわせたわ。もう着いてるはず……」


 ホッとしかけた。けど、その余韻に浸ってる暇はなかった。


「分かった。ありがとう。お前も北の避難所へ──今すぐ!」


 そう言ってイロハを送り出す。けど、どうしても気になった。アイカとトワ、無事にたどり着けてるか。少しだけでいい、顔を見たい。


 中央広場に出てから確認しに行こう。


「シアン ここは任せた」

「了解です」


 方向を変えて、中央へ向かって走る。


──けど、そこで俺は立ち止まった。


 広場が、地獄と化していた。


 血だまり。倒れた村人。隊員。ハクナ副隊長まで、地面に崩れてる。嘘だろ……。


 でも、それ以上に信じられない光景があった。

 そこに見覚えのある面影が二つあった。


「……なんでここにいるんだ」


 息が止まった。心臓が音を立てた。

 俺は全速力で駆け寄って、目線の高さを合わせてしゃがみ込む。


 そこにいたのは、俺の宝物だった。

 俺よりずっと小さくて、でもずっと強くて、大事で、大切で──


「どうしてまだここにいる……! イロハからは、お前たちはとっくに避難したって……!」


 怒鳴ってしまった。

 トワがびくりと肩を震わせる。悪い……怖がらせた。でも、この状況で、子どもを前にして、平静でなんかいられるか。


 ……なのに。


「……アイカ?」


 目の前の娘は──返事をしなかった。


 確かに、アイカはそこにいる。

 でも、俺を見てはいなかった。


 視線はまっすぐ前。

 焦点の合わない目で、何かを、いや……何も見ない まま、ただ空間を眺めている。


 まるで俺の声なんて、届いていないみたいに。

 鼓膜にすら触れていないかのように、まったくの無反応だった。


 ──朝に見た。

 無邪気で、何にでも手を伸ばすあの子の姿。

「いってらっしゃい」って笑って、俺に向かって小さな手を振ってくれた。

 ほんの数時間前のことなのに、もう何年も前の記憶みたいに感じる。


 その笑顔が、今では跡形もない。

 代わりにそこにあるのは、泣きもせず、叫びもせず、感情の色を剥ぎ取られた顔。

 まるで──壊れた人形みたいだ。


 誰が、こんな目に遭わせた。

 何が、アイカから声を奪った。

 いや──それ以前に、どうして俺は、その場にいなかったんだ。


 胸の奥が焼けるようだった。

 怒りも、悔しさも、悲しみも、すべてがごちゃまぜになって、息が苦しい。

 なのに、言葉にならない。叫び出すこともできなかった。


 でも、今は泣いてる場合じゃない。

 叫びたくても、喉を震わせてる暇はない。


 ──今は、父親として、動かなきゃいけない。


「……話は後だ。今は、避難することが最優先だ」


 そう言って、二人を片腕ずつ抱き上げた。


 トワは泣きそうな顔でアイカを見ていた。

 でもアイカは、ずっと下を向いたままだった。

 腕の中にいるのに、まるで遠くにいるように感じた。


 無反応の娘を胸に抱えて、走る足が震えた。

 情けないくらい震えた。父親なのに、こんなにも……怖かった。



 東の避難所は、いつの間にか人でいっぱいになっていた。

 みんな、不安そうな顔。言葉も出ないまま、ただじっとしてる。


 トワはきょろきょろと辺りを見回していて、俺の横にぴたりと寄っていた。


 クレムが布を配っていた。守攻機関の備蓄から持ってきたものらしい。

 俺はそれを一枚受け取り、アイカに近づく。


「寒いだろ。とりあえず、これ──」


 肩にそっとかける。

 けど、アイカは何の反応も示さない。


 トワも、不安げに声をかけた。


「お姉ちゃん……だいじょうぶ……?」


 返事はなかった。目すら動かない。


 ……心が痛い。


 どうしてやればいい? 何を言えば、この子は振り向いてくれる?


「……何があったかは、また今度でいい」


 そう言うのが精一杯だった。

 言葉を探していると、すぐ横から、村人の声が聞こえた。


「北の避難所で、レイサくんが瀕死で運ばれたらしいわよ」

「ええ……可哀想に」


 レイサくん──アイカと一番仲が良かった友達。

 あの子まで……。

 ユサ隊長も、どれほど辛い思いをしてるか。


「俺は、村を見てくる。……トワ、ここにいろ。お姉ちゃんを頼んだ」


 アイカの分の布をトワに渡し、俺は走った。

 今は、守攻機関の隊員として動かなきゃいけない。


 ……本当は、親として、そばにいたいのに。



◇◆◇



 三日後の昼──


 村に残っていた襲撃者たちは、全員捕らえた。

 けど、指示を出してた奴は見つかっていない。


「俺たちは、サクヤさんに命令されたんだ……!」

「頼む! 殺さないでくれ、やりたくてやったわけじゃ──!」


 命乞いをする声が耳に刺さる。

 ……ふざけんな。やりたくなかった? じゃあ最初から来るなよ。


 人を殺しておいて、いざ自分の命が脅かされると泣きわめく。

 そんな都合のいい話が、あるわけがない。


 この三日間、ほとんど寝ていない。

 目は霞んで、頭はぼんやりしてる。

 でも、あの子の顔だけは、鮮明に脳裏にこびりついて離れない。


 あの、壊れたような目。


──そんなときだった。


「イヅキ……大丈夫か」


 ユサ隊長だった。


「……すみません」


 情けない声が出た。

 足元がふらつく。気を張っていたのが、一気に緩んだ。


「家族は……無事だったのか?」

「はい。一応は……でも……」


 堰を切ったように、アイカのことを話した。

 呼びかけても反応がないこと。

 目の焦点が合っていないこと。

 ただ座り込んでいるだけで、声も涙も出さないこと。


 ユサ隊長は黙って聞いてくれていた。

 そして、ぽつりと言った。


「……そうか」


──しまった。


 この人の息子、レイサくんも重体だっていうのに。 俺は、自分の不安を押しつけてしまった……。

 けれど隊長は、そんな俺に背を向けず、言った。


「そういえば、奥さんがアイカちゃんたちを迎えに行くって言ってたぞ。……伝えに行け。心配なんだろう?」


 ……この人は、本当に、強い人だ。


「ありがとうございます」


 深く頭を下げ、避難所へ向かった。



◇◇◇



 東の避難所に行くと、トワが俺に気づいて小さく頷いた。

 そして──アイカは、顔を伏せたまま、ぽつりと呟いた。


「……ひとりで、帰りたい」


 その顔は、三日前よりは少しだけ柔らいで見えた。

 けど、元気とは……到底、言えなかった。

 目元は赤く腫れ、頬には乾ききらない涙の跡。


 ……泣いたんだな。一人で。

 誰にも見られないように、そっと泣いたんだ。


 思い出す。

 アイカが泣いたのなんて、一度きりだ。

 あのときは──焚処の水を撒いてイロハに怒られた時。

 あれだって、すぐに笑ってごまかしてた。

 だから、今回のは……違う。明らかに。


 どうすればいい。

 どうすれば、あの子は、また笑ってくれる?


 わからない。

 でも、父親として、何かしてやりたかった。


 隣に座って、そっと手を握りたかった。

 何も言わずに抱きしめるだけでも──それだけでも。


 ……けど、それが、今のアイカを追い詰めるかもしれない。

 だから俺は、喉の奥に飲み込んだ。


「……わかった。気をつけて、帰るんだぞ」


 それだけ言って、小さな背中を見送った。


 声をかけたかった。

 立ち止まってくれるまで、何度でも呼びたかった。

 でも……言えなかった。


 ただの一歩すら、踏み出せなかった。


 父親としての“正解”なんて、どこにも見当たらなかった。


 けど、ひとつだけ──たったひとつだけ、はっきりしていることがある。


──もう、二度とあんな顔は見たくない。




 避難解除からしばらくして、村の誘導や片付けも、ようやくひと段落ついた。

 守攻機関の隊員も、一時帰宅が許された。


 俺は途中でお義父さんと合流して、二人で家に向かった。

 足取りは、思った以上に重かった。


 お義父さんもさすがに疲れているらしい。

 避難所をすべて見て回り、交流が深かった名家の医者に願文まで届けてくれたらしい。

 さらに、ユーレナからも支援の物資が届くという話だ。


 ……たぶん、あの人じゃなければ、そこまで話は進まなかったと思う。


 本当に、ありがたい。


 家に着いたとき、周囲は奇跡的に大きな被害を免れていた。

 多少の破損はあるが──生きているだけ、充分だ。


 引き戸を開けて踏み場に入った瞬間、聞き慣れた声が迎えてくれた。


「お父さん、イヅキ。おかえりなさい。……お疲れ様」


 その一言が、胸に沁みた。


 ああ、やっと──帰ってきたんだなって。


「……ただいま。でも悪い、すぐにまた戻らなきゃいけない」


 許可は出た。けど、長くは家にいられない。

 こんな時に、家族の傍にいてやれない自分が情けなかった。


 それに、正直──

 アイカの顔を見るのが怖かった。


 けれど。


「イロハ、その子は……」


 お義父さんの声で、顔を上げる。


 その視線の先に、見知らぬ男の子がいた。

 巻き布を纏った小さな体。……こんな子、見覚えがない。


 みなし子たちは全員顔を把握しているつもりだった。

 でも、この子は知らない。


 ……そしてなにより、目に留まったのは髪。


 その子の髪は──半分が金、半分が白。


 ありえないような配色だった。

 ただの染めか、生まれつきか、それすら判断がつかない。


 その子の隣に、アイカがいた。

 その後ろには、トワもいる。


 でも俺の目が奪われたのは、アイカのほうだった。


──顔が、違う。


 つい先日まで、心を失ったようだったあの子が、

 今は少し……いや、はっきりと、表情を取り戻していた。


 まるで吹っ切れたような、晴れた顔。


 ……この子が、何か関係してるのか?


「アイカが、助けたんですって」


 イロハが、そっと耳打ちしてくる。


 アイカが……?

 あんな状態だったのに?

 でも……現に、そこにはしっかりと立って、笑っているアイカがいた。


「ぼく、お名前は?」


 お義父さんが子どもに優しく尋ねる。

 男の子は、不安げに口を開いた。


「……きゅ、きゅうばん……」


 九番。──名前じゃないな。

 きっと、襲撃者たちにそう呼ばれていたんだろう。


「んじゃあ、チタ。どう?」


 アイカが、ぱっと明るく笑って言った。

 まるで、それが何の迷いもない当然のように。


 ……驚いた。


 三日前、目の焦点も合わず、壊れたように座り込んでいたあの子が、今は誰かに笑いかけている。

 それも、しっかりと前を向いて、まっすぐな声で──。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


 ……ああ、よかった。

 本当によかった……。


 俺には、どうしてやることもできなかった。

 何を言っても、どう手を伸ばしても、届かない気がしていた。

 あのときの俺は、ただ立ち尽くすことしかできなかったんだ。


 でも今、目の前にいるアイカは、

 もう一度、自分の意志で立ち上がろうとしてる。


 そのきっかけをくれたのが──この子だった。


 小さな命が、アイカの手を引いてくれた。

 俺にできなかったことを、してくれた。

 言葉にはできなかったけど、心の中で、何度も何度もつぶやいた。


 ありがとう。

 ありがとう。ありがとう……。


 本当に、ありがとう。



◇◆◇



 あれから──三年が経った。


 二十人近くいた守攻機関の隊員は、一夜にしてほとんどが命を落とした。

 生き残ったのは、俺を含めて、たった五人。


 当然、作業量は信じられないほど増えた。

 明刻から宵刻まで、いや、深刻が過ぎても眠る暇はなかった。

 家に帰れるのは、七日に一度。それもほんの数刻だけ。

 そんな生活を、もう何百日も繰り返していた。


 ……辛い。正直、心も体も限界だった。

 でも、それは俺だけじゃない。

残った隊員はみんな、同じように歯を食いしばっていた。

 役場の人たちも協力してくれる。

 それでも……人手が足りない。


 そんなある日──チタが駆け込んできた。


 トワの調子がおかしい。


 その一言に、背筋が凍った。

 頭が真っ白になった。

 一秒でも早く家に帰りたくて、駆け出していた。


 家に着くと、布団にトワが寝ていた。

 顔色が悪く、呼吸が浅く、苦しそうだった。

 目を開けているのに、焦点が合っていない。

 医師は言った。「いつ気を失ってもおかしくない状態です」と。


──嘘だろ。


 やめてくれ、やめてくれ……

 まだあんなに小さいのに。

 やっと……やっと、身体も丈夫になってきたのに……


 なんで、こんなときに限って俺はいない。

 どうして、大事な瞬間に、いつも俺はいないんだ。


 ……何のために守ってるんだ、俺は。

 村か? 仕事か?

 それで……家族を見殺しにして、何になる。


 俺は……父親として、最低なんじゃないか。



◇◇◇



 夜、イロハに「二人で話がしたい」と声をかけた。

 炉座の前に座った彼女は、何も言わず、ただ俺を見つめていた。


 ……怖かった。


 本当は、何も言わずにこのまま仕事に戻った方が楽だった。

 でも、もう限界だった。


「……守攻機関を、辞めようと思う」


 喉の奥が詰まって、声がかすれた。

 でも、それでも俺なりの全てを込めたつもりだった。

 イロハは少しだけ目を見開き、それから静かに聞いた。


「……どうして?」


 その声は、いつもと変わらず凛としていた。

 だけどその視線は、俺の奥底まで見透かしてくるようで……言葉が詰まった。


「家族が苦しいとき、俺は、いつもいない。

アイカのときも……トワのときも……」


 喉が熱くて、声がうまく出なかった。

 でも、唇は勝手に動いていた。


「強い父親でいたかった。憧れられる存在でいたかった。

……でも全然、違った。現実は、情けないもんだ」

「俺がいない間、あの子たちがどれだけ頑張って、耐えてたか。

わかってたのに……何もしてやれなかった」


「ユサ隊長みたいにはなれない。お義父さんみたいに村を支える器もない。

俺は、父親失格だ……何もかもが中途半端だ……父親としても、夫としても」


 だからこそ──。


「……今度こそ、ちゃんと向き合いたい。

父親として、まだ足りない俺だけど……遅くても、やり直したいんだ」


 大の大人が、しかも男が、

 泣きそうな声で、それでも必死に言葉を紡いだ。


 しばらく沈黙があった。


 そのあと、イロハはまっすぐに言った。


「あなたは……父親失格なんかじゃない」


 その強い言葉に、思わず顔を上げた。


「言ったでしょう? 誰かのために頑張るあなたが素敵だって」

「今だってそう。家族のために、必死に悩んで……

ずっと守ってきた守攻機関を辞めるって、そう決めてくれた」

「……それを情けないとか、卑怯者とか言う奴がいたら──私がぶん殴る」 

「いや……それは……」

 

 苦笑いするしかなかった。

 でも、ほんの少し、心が軽くなった。


「それに……いっぱい考えてたんでしょ?」

「そうやって、誰かのために悩めるイヅキ。

優しくて、不器用で、一生懸命なあなたが──私は好き」

「ありがとう。……家族のために、たくさん悩んでくれて」


 その一言で、何かが崩れた。


 もう、堪えきれなかった。

 言葉じゃ返せなかった。


 涙が、止まらなかった。


 本当に──

 イロハには、敵わないな。


 きっと、アイカの強さも、トワの優しさも……

 イロハから、もらったんだろう。


 俺はその夜、日付が変わるまで泣いた。



◇◆◇



 翌日、俺は、ユサ隊長のもとへ向かった。


 守攻機関の現状を考えれば──

 俺が抜けるなんて、どれだけ迷惑をかけるか分かっていた。

 何を言われても、叱られても仕方がないと、そう思っていた。


 それなのに──


「……分かった」


 隊長は、それだけを言った。

 驚いて、顔を上げる。


「他のことは、心配しなくていい。……お前は、家族のそばにいてやれ」


 静かな声だった。

 けれど、その言葉は、まるで抱きしめられたように、温かかった。


 こんな時でさえ、責めず、背中を押してくれる。

 この人は、いつだって、そうだ。


 ……なのに。


「……泣かれると、困るんだが」


 そう言った隊長の目が、少し赤くなっていた。


 心の奥に、何かがじわりと広がった。


「……今まで、本当に、お世話になりました」


 深く頭を下げて、守攻機関本部の敷居をまたいだ。


 この日、俺は──

 長い間仕えてきた守攻機関を去った。


 けれど。

 重く背負っていた何かが、少しだけ軽くなった気がした。



◇◆◇



「イヅキさん、終わったら休憩でいいよ」

「はーい、分かりました!」


 守攻機関を辞めて、もう四年になる。


 今は村の東側、養屋やしやで働いてる。

 牛や豚、鶏に羊。動物たちの世話ってのは、まあ、想像以上にしんどい。

 小屋の掃除に餌やり、体調管理。壊れた柵を直して、寝床の藁を替えて……やることは山ほどある。


 けど──嫌いじゃない。むしろ、けっこう好きだ。


 給金は三百ティル。かつての三分の一ほど。


 けど、そのぶん、七日のうち二日は休める。家に帰れる。

 ……それが何より嬉しい。


 正直なところ、家の仕事はまだ慣れない。

 お湯ひとつ沸かすのも一苦労だし、洗濯だってやたらと手間がかかる。

 膳立てもまともにやったことがなかった。火加減って何だよ……。


 それでも、イロハはずっと、それを一人でやってくれていた。

 本当に、頭が上がらない。


 今日は、アイカが守攻機関の二次試験の日だった。

 ……どうだったかな。帰ったら、まず話を聞こう。


 帰ってきて、引き戸を開けた瞬間──


 「あっ……」と思った。

 アイカの顔が、いつもより少し沈んでる。


 多分、うまくいかなかったんだろう。


 俺も二次試験には苦戦した。あれは本当に難しい。

 合格するのに二年かかったんだから、落ち込むのも無理はない。





 夜になって、ふと気づくと──

 アイカがひとりで、踏み場にいた。

 器を手に、ぽつんと腰を下ろしてる。


 きっと、誰にも気づかれたくなかったんだな。


 そっと横に座った。何も言わずに。

 どう声をかけるべきか、言葉を探した。


 あれこれ考えたけど──

 最終的に出てきたのは、たった一言だけだった。



「……頑張ったな」



 アイカの頭に、そっと手を置く。


 それは、たぶん俺自身が、一番言ってほしかった言葉だった。


 家族ってのは、思ってたよりずっと難しい。

 ただ一緒に暮らしてるだけじゃ、上手くいかないんだなって、ようやく分かってきた。


 向き合うってことも、そんなに簡単じゃない。

 お互いに情けない姿は見せたくなくて、つい強がってしまう。

 本当は心配してるのに、素直に言えなかったり。

 言葉にしようとしても、うまく伝わらなかったり。


 それでも──俺は、寄り添っていこうと思う。

 ぎこちなくても、不器用でも、少しずつでいい。


 だって、守ると決めたんだ。

 この家族を、大事な人たちを。

 何度つまずいても、そのたびにまた立ち上がって、隣に立とうと思う。


 俺は、そうやって生きていきたい。

裏ノ物語 父としの決断

読んでいただきありがとうございました。

次回も読んでくださると嬉しいです(՞ . .՞)︎


イヅキは、ユサほどではありませんが、不器用な性格です(ᐡ•͈ ·̫ •͈ᐡ )



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