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神血の英雄伝  作者: 三坂 恋
第一章 
18/71

二次試験 五

 陽が完全に落ち、志願者たちは、森の入り口まで帰ってきた。


 ズタズタになっている者、外傷はないが、身体が自由に動かず、引きずりながら帰ってきた。

 動けない者は、見張り人と、アオイ、イオリが手分けをして運んでいた。


 トワ、サユ、チタの三人は、アイカとレイサが無事に顔を見せてくれるのを待っていた。



 アイカが先に現れた。

 トワとチタの顔が一瞬だけ明るくなる。だが次の瞬 間、言葉を失った。


 姉の顔には悔しさと後悔がにじんでいた。

 左腿と両腕に浅い傷。血が止まらず、じわじわと服を濡らしていた。


 声が出ない。

 何か言いたい。でも、言えない。

 考えていた言葉が、全部消えた。


 そんな二人に、アイカは小さく頭を下げて呟いた。


「……悪い……」


 目を合わせることさえ難しかった。



 やがて、レイサの影がゆらりと浮かび上がる。

 地面に足を引きずりながら、それでも自力で戻ってきた。


「お兄ちゃん……」


 サユが駆け寄った。

 その声には、安堵と痛みが滲んでいた。

 瞼は赤く腫れ、顔は蒼白。けれど、兄は、微笑んだ。


「……ただいま」


 いつもの調子で返すその一言が――

 かえって、サユの心を抉った。


 笑ってるけど、泣きそうに見えた。

 いつも通りだけど、どこか遠くにいるようだった。


 五人は、言葉を交わさぬまま、それぞれの方向へ歩き出した。

 労いも、褒め言葉もなかった。

 ただ、苦い沈黙だけが夜の空気に溶けていく。


 途中、アイカとレイサの視線が、ほんの一瞬交差する。

 言葉はいらなかった。

 互いに、どれほど悔しくても、まだ終わっていないことを知っていた。


 その視線の交差を、サユが横目で見ていた。

 そっと拳を握りしめ、唇を結ぶ。


 トワとチタは、何も言わず、姉の背を見つめる。

 その小さな背に、どれだけの想いが背負われているのかを、ほんの少しだけ、理解し始めていた。



◇◇◇



ーー村が静寂に包まれた夜


 アイカは、眠れなかった。

 隣で寝息を立てるトワとチタを起こさないよう、そっと布団を抜け出す。


 焚処たきどに向かうと、そこには冷たい空気が満ちていた。

 汲まれていた水を器に移し、踏み土に腰を下ろす。


 背中を丸めて、ただ黙っていた。


(勝てるなんて……思ってなかった。でも……)


 思い知った。

 何も届かなかった自分の力。

 鍛えてきたはずの六年が、まるで幻のように、あっさりと打ち砕かれた。

 全力で拒絶させれたようだった。


 アイカは、器を握りして、水面に浮かぶ自分の顔を眺める。


(……私の六年って、なんだったんだろう)


 その瞬間、静かに――誰かが隣に腰を下ろす気配がした。

 アイカがゆっくりと横を向くと、そこにはイヅキがいた。


「頑張ったな」


 その声は、あまりに短く、あまりに優しかった。


 次の瞬間。


 イヅキの大きな手が、ポンとアイカの頭に乗せられた。


 それだけだったのに――アイカの胸が、ふっとほどけた。


「……う、うっ……」


 堪えていた何かが、一気にあふれる。

 小さな嗚咽。頬を伝う涙。

 押し込めていた悔しさと、哀しさと、もうどうしようもない感情が、全部。


 六年間の努力は、無駄じゃなかった。

 そんなふうに、父の手が教えてくれる気がした。


 イヅキは何も言わなかった。

 ただ、静かに横にいてくれる。

 それが、どれほど救いになるかを、彼自身が一番よく知っていたからだ。


 あの襲撃の夜――


 怯えて震えていたアイカに、

 自分は何も言ってやれなかった。

 何もしてやれなかった。

 その悔いを、彼はずっと胸にしまっていた。


 もし、また娘が苦しむときがあるなら、次は、絶対に、そばにいる。

 そう決めていた。


 月明かりだけが差し込む焚処に、二つの背中が寄り添っていた。


 父と娘。

 言葉のいらない、かけがえのない時間が、そこには確かにあった。





ーーハナネは、窓の外を見上げていた。


 灯りも消して、布団にも入らず、ただ膝を抱えている。

 まるで、時間が止まったかのように。


 試験での敗北。

 自分が選んだ道。掲げた正義。

 そのすべてが――あの一瞬で、呆気なく崩された。


(……弱い)


 胸の奥が焼けるように、じくじくと痛んだ。


 母を奪われたあの日。

 声すら出せず、ただ震えていた自分。

 「もう二度と、誰かが壊れるのは見たくない」と誓った――あの日から。


(全部、無駄だったのかな)


 その呟きと同時に、涙が一筋、頬を伝った。


 拳を握る。

 白くなるほど力を込めても、震えは止まらなかった。


(“人には、自分で人生を決める権利がある”って……)


 それを口にした自分の声すら、今はどこか遠く感じる。

 現実は、それを笑うように、踏みにじってきた。


「……っく……」


 喉の奥から漏れた、小さな嗚咽。

 誰にも聞かれないように、声を殺す。

 ハナネの肩が、静かに揺れた。


 だけど。

 それでも。


(それでも私は――)


 うつむいたまま、ハナネは呟く。


「……お母様……」


 そっと名前を呼んだ。

 誰にも聞こえないように。けれど、心の奥から。


 涙ににじむ視界の中、夜空を見上げる。

 雲の切れ間から、一瞬だけ、星が顔を出す。


 その光は、どこかで誰かが「まだ終わりじゃない」と囁いたようで。


 ハナネは、ぬぐうことなく、涙の頬をそっと上げた。


 あの人の目的を、知るためにも。

 ここで終わるわけにはいかない。


 静かな夜に、また一つ、確かな決意が灯った。





ーーその夜、レイサもまた、眠れずにいた。


 隣に寝ているサユの寝息を確認すると、そっと布団を抜け出す。

 階段を一歩一歩下りるたび、木が静かに軋んだ。


 一階に降り立つと、音を立てぬよう引き戸を開けて外へ出た。

 その音に気づいたユサは目を開けたが、寝たふりを続けた。


 レイサが今、一人でいたいことを――誰よりも知っていたから。


 外は、静かだった。

 月と星が綺麗に瞬いていて、空気はひどく澄んでいた。


 レイサは、家の壁にもたれながら空を見上げる。


(……全然ダメだったな)


 肩の力を抜いて、そうつぶやく。


 ふと、目の端に冷たい感覚が触れた。

 それは、知らぬ間に頬を伝った“涙”だった。


 一滴。二滴。

 やがて、こぼれる音が聞こえそうなほどに、それは地面へ落ちていく。


「……クソッ……」


 声に力が入らない。


 相手は、本気ですらなかった。

 何もできなかった。守ることも、背中を見せることも。


(何してんだよ、俺……)


 サユの笑顔を守りたい。

 強くなりたいって、あんなに言ったのに。


 悔しさが、滲む。

 それでも泣き声は上げない。

 唇を噛んで、眉を寄せて、それでも涙だけは止められなかった。


 レイサは、前髪をぐしゃりと掴み、顔を隠すようにして空を仰いだ。


 月は、どこまでも静かで残酷だった。


ーー村の夜に、小さな泣き声が、誰に届くこともなく、響いていた。



 そして二週間後、それぞれの思いを胸に、合格発表の日が訪れた。

神血の英雄伝(イコルのえいゆうでん) 第十七話

読んでいただきありがとうございました。

次回も読んでくださると嬉しいです

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