二次試験 四
アイカとハナネは森の東側を歩いていた。
会話は続かなかった。アイカが話しかけても、返ってくるのは冷えた声か、無言の拒絶。
それだけだった。
(やっぱ私、嫌われてるよな?)
アイカは、ほんの少し眉を寄せて、うつむいた。
目を閉じたその顔は、怒っているわけでも、泣いているわけでもない。
けれどどこか、どうしていいか分からないような――そんな困惑がにじんでいた。
口元はうっすらと結ばれ、言葉にできない想いを飲み込むように、小さく息をつく。
「私のこと……嫌い……?」
思い切って問いかけた。
だがその言葉は、地面に落ちた雨粒のように、音も立てず吸い込まれていった。
ハナネは顔を向けず、前を向いたまま、無機質な声で答える。
「私は仲良しごっこをしに来たんじゃない。
組まされたのが貴方……“アイカ”だっただけ」
刺すような声だった。
温度のない語調が、森の空気ごと冷やしていく。
沈黙。
小枝が折れる音すら、どこか遠くに聞こえた。
それでもアイカは、少しだけ表情を緩める。
(でも、名前で呼んでくれた)
感情は見えない。けれど、わずかに礼儀がある。そのことに救われた気がした。
「……話は、終わったか?」
突然の声が、空気を断ち割った。
二人は同時に振り向いた。
視線の先、少し高くなった斜面の上に、ひとりの男が立っていた。
アオイだった。
(嘘だろ……)
いつからいたのか。全く気づけなかった。
鍛え抜いたはずの感覚が、一切反応を示さなかった。
アイカだけじゃない。
ハナネもまた、動揺を隠せず、じり、と片足を引こうとする。
しかし、その動きを見逃さなかったアオイは、静かに目を細め、僅かに首を傾けるだけで、空気が張り詰めた。
一瞬にして、森が黙った。
視線ひとつ。
それだけで場の空気が変わった。
アオイが、ほんのわずかに首を傾けた――ただ、それだけだったのに。
世界が止まったような感覚に、アイカの喉がひゅっと鳴る。
空気が、肺に入ってこない。
息が詰まる。
視界が、妙に明るく感じるのは、脳が警告を発しているからかもしれない。
呼吸が、重い。
心臓が、打つたび痛む。
それでも心臓は逃げ場を失ったように、容赦なく鼓動を打ち続けていた。
どくん、どくん、と。
何度も、何度も――命を思い出させるように。
(……強い)
戦ってもいない。
動いてさえいない。
けれど、全身の細胞が告げてくる。
“これは勝てない相手だ”と。
“戦えば、負ける”と。
(それでも)
アイカの喉が、ゆっくりと上下する。
重たい空気を吸い込んで、ひとつ、息を整える。
(逃げたって、捕まる。隠れたって、見つかる)
でも、それだけじゃない。
(――村人の命を守れないなら、守攻機関じゃない)
脚が震えていた。
握った斬槍の柄が、じわりと汗ばむ手の中で滑る。
それでも。
アイカは、一歩、前へ出た。
たった一歩。
けれど、死を受け入れるかのような重さを孕んだ一歩だった。
斬槍を、静かに構える。
刃がかすかに音を立てて揺れた。風が、笑ったような気がした。
その姿を見て、アオイが口を開いた。
「戦う気か?」
淡々とした声。
抑揚のない、ただの質問。
けれど、その言葉でさえ、内臓を押しつぶされるような圧を持っていた。
肺が軋む。
心が怯む。
それでも、口を開く。
「そうだよ」
震える声だった。
強がりも、虚勢も、とうに通じない。
けれどアイカは、笑っていた。
引き攣った笑み。唇が乾き、かすかに割れて血の味がした。
瞳も表情も、強張っている。
けれど、引かなかった。前を見ていた。
戦う――その覚悟だけが、今の彼女を支えていた。
「二人で、か?」
アオイの視線が、ゆっくりとハナネへ向かう。
ハナネは、微かに肩を揺らしながらも立っていた。
恐怖がないわけではない。その顔には確かに、緊張と警戒が混じっていた。
だが――彼女の右手は、空瓶の袋ではなく、腰の武器へと向いていた。
「一人で負けて命を失うより、
二人で勝って、多くを守る方が正しい」
声は低く、静かだった。
けれど、その最後の語尾に、わずかな決意が乗っていた。
目が合った。
冷たい視線の奥で、氷が少しだけ、揺れたような気がした。
ーー三人は、動かず互いの呼吸すらも計っていた。
風もない。葉も揺れない。
静寂だけが森に満ちていた。
誰一人、油断などしていない。
ほんの一瞬の隙すら、命を奪うきっかけになる。
そんな空気が張りつめていた。
数秒の、沈黙。
その時だった。
アオイの姿が、ふっと消えた。
……消えたように、見えた。
いや――現実が追いつけなかっただけだ。
気づいたときには、アオイはアイカの目の前にいた。
両手で握った剣が、風を裂いて振り下ろされる。
キィィィン――!
金属同士がぶつかる高音が、森を裂いた。
アイカは、咄嗟に斬槍を振るい、かろうじて受け止めた。
だが、剣圧の重みに両脚が沈む。全身に鈍い衝撃が走った。
「っ……!」
震える手。
剣圧の鋭さと、目の前に立つ“異質”への本能的な恐怖が重なり、体が軋む。
アオイは、表情ひとつ変えていなかった。
淡々とした目で、まるで動作確認をしているかのように斬撃を放っていた。
そのとき――
「っ!」
ハナネが動いた。
腰に携えていた茶色の拳銃を取り出し、アオイの頭部へ狙いを定める。
無駄がない。揺れもない。
その構えは、まるで殺すために生きてきた者のそれだった。
バンッ!
乾いた破裂音が、森に響く。
だがアオイは――その動きさえ予期していた。
アイカを一歩押し飛ばし、尻餅をつかせたその直後、アオイ自身は風を蹴って後方へ跳躍する。
放たれた木製の弾丸は、空を切り、後方の木柱へ当たって砕けた。
(拳銃か)
アオイの瞳がわずかに揺れる。
だがそれは、戦闘中の分析にすぎない。
次の瞬間、その視線はアイカからハナネへと完全に移った。
「……!」
アイカは、咄嗟に地面へ手をつける。
その手の下から、土がうねり、二人の間に分厚い壁が立ち上がる。
アイカは、神選者の力を使ったのだ。
だが――
バシュッ!
乾いた音とともに、土壁はまるで紙のように真っ二つに割れた。
(なっ!?)
アイカとハナネは、同時に目を見開く。
その反応すら待たず、アオイの剣が、一直線にハナネへと振り下ろされる。
カンッ!
金属音。
ハナネは、腰に隠していた短剣で咄嗟に受け止めていた。
その目に怯えはなかった。
ただ、研ぎ澄まされた生存本能だけが宿っていた。
すぐさま、反対の手に握った拳銃を構える。
狙いは、腹部。至近距離。
だが――
アオイの膝が、鋭く突き上げられた。
そのままハナネの手首を強打する。
「っ……!」
ハナネが顔をしかめた。拳銃が指先から滑り落ちそうになる。
その隙を逃さず、アオイの脚がハナネの腹部を貫くように叩き込まれる。
ドンッ!
衝撃音が、体内から響いた。
ハナネの細い体が、くの字に折れる。
「がっ……!」
ハナネの身体が、衝撃で空を切るようにして四歩ほど吹き飛ばされる。
だが、倒れなかった。
短剣を持ったままの手で腹部を押さえ、膝をわずかに折りながらも、踏みとどまった。
十五歳の少女には、あまりにも重すぎる一撃。
アオイが手加減しているのは明白だった。だが、それでも――痛みは痛みだった。
その間に、アイカが斬槍を構え、吠えるように振りかぶる。
だが――
「ッ……!」
アオイは振り返らない。
ただ、剣を逆手に持ち替えると、素手で刃を掴んだ。
その掌に、赤い滴が滲む。
血だ。
鋭利な斬槍の刃が、アオイの皮膚を裂いていた。
だが、顔は変わらない。痛みの表情も、歪みもない。
「っあ……!」
アイカが動揺した、その刹那。
アオイのもう一方の剣が、風を裂いた。
アイカの左腿を掠める。鋭い斬撃。
ビシャッ、と飛び散った血が、地面に赤い花のように咲いた。
「っ……くぅっ!」
アイカの膝が一瞬、揺れる。
でも、倒れない。
ハナネも、武器を取り直しながら、なおも構えている。
二人とも、攻撃の手を止めていない――だが、もう何度目だ。止められ続けている。
その時。
アオイが、ゆっくりと、真正面からアイカの方へと身体を向けた。
黒い瞳が、まっすぐに、アイカだけを捉えていた。
「カコエラは――誰かを救えるように、強くなりたいと志願した。そう聞いているが」
低く、澄んだ声。
静かすぎて、鼓膜にじわりと染み入る。
二人の動きが、止まる。
「この程度なら、辞めた方がいい。誰も救えない」
まるで天気予報でも語るような、淡々とした言葉。
だが、その一言で、空気がまたひとつ重くなる。
アイカは、うつむいた。
まるで、吐く息が白く凍るような錯覚――そんな寒さが、胸の奥にあった。
(……今の自分じゃ、追いつけない)
(まだ救えない……)
現実は、残酷だった。
どれだけ走っても、剣を振っても、敵の背には届かない。
ただ、傷だけが積み重なっていく。
息が切れ、手が震え、足が軋む。
それでも、何も変わらない。
胸の奥が、きしんだ。
自分が情けなくて、悔しくて、――それでも。
「……諦めない。こんなんじゃ終われない」
吐き出した声は、小さく、震えていた。
けれどそれは、確かに、芯を持っていた。
――消えかけた炎が、ふたたび灯るように。
「今度こそ……誰かを救えるようになるんだ」
ゆっくりと、アイカは顔を上げる。
その瞳に宿っていたのは、涙でも、怯えでもなかった。
燃えるような光。
どこまでも真っ直ぐで、ぶれない強さ。
それは、たしかに“立ち上がる者”の瞳だった。
そして、再び斬槍を構える。
震えていても、踏み出す。
アオイは動じない。
再び斬りかかったアイカの武器を、アオイはその手で掴み、完全に止めた。
「っ……!」
抵抗はあった。だが、力が違いすぎた。
そして――アオイの剣が、アイカの腕へ振り下ろされる。
鈍い衝撃。
斬槍が、アイカの手から滑り落ちる。
次の瞬間――
ドンッ!
アオイの蹴りが、アイカの腹部に突き刺さる。
「ぐっ……!」
声を上げる暇もなく、アイカの体が後方へ吹き飛ぶ。
地面を転がり、咳き込むように息を吐くアイカの視界が、ぐらついた。
そして、アオイは――
今度は、かろうじて立っているハナネへと、静かに身体を向けた。
「ノセラは……母親の仇を取りたい、と聞いた」
淡々とした声。
アイカのときとまったく同じ、感情の揺れを一切感じさせない口調だった。
「だが――それだけでは、守攻機関ではやっていけない」
まるで、すでに結果が見えているとでも言いたげな語り口だった。
その瞬間――
ハナネの顔がわずかに歪んだ。
呼吸が、浅くなる。
強張った背筋に、熱が伝う。
寄った眉の奥、氷のように冷えていた目に――かすかな熱が滲んだ。
「私はっ……」
その声は、小さく震えていた。
けれど、それは確かに、心の奥底から響く“叫び”だった。
「お母様を……あんな目に合わせた奴らが……っ
今もどこかで、何事もなかったかのように……っ、
簡単に! 誰かの人生を壊してるのが、耐えられないのよ!」
吐き出すような怒りだった。
それは“冷たい怒り”ではない。
氷の奥底から、ようやく溶け出した――
剥き出しの感情。
傷ついた少女の、本物の声。
「人には……っ、自分で人生を決める権利がある!!」
最後の言葉は、喉が裂けるほどの叫びだった。
怒りと、願いと、哀しみが、全部混ざった声。
それは、誰かを責めるためじゃない。
奪われた人生に、必死に抗うための叫びだった。
声を吐き出すと同時に、ハナネは拳銃をアオイの顔に向けて引き金を引いた。
バンッ――!
森に銃声が響く。
アオイの視線が、ほんのわずか弾丸の軌道に向いた。
その一瞬を狙い、ハナネは距離を詰めていた。
短剣を構え、まっすぐ喉元を狙う。
だが。
アオイの身体が、風に乗るように横へ流れる。
弾丸は空を裂き、虚しく消えた。
そして――
「っ!」
次の瞬間、ハナネの手首が掴まれた。
細い身体が宙に浮く。
足が地から離れた。
「――ぁ……!」
全てが、止まったように見えた。
アオイの剣先が、ゆっくりと、しかし迷いなく、彼女の腹部へと向かっていく。
死が、目の前にあった。
(死ぬ……!)
そう思った。
視界が、ほんの刹那、暗くなる。
ハナネは目を閉じた。
光も、音も、なくなる。
そして――
パリンッ……
乾いた、けれど妙に響く音が耳を裂いた。
ハナネは、弾かれたように目を見開いた。
視界に入ったのは――砕け散った、あの空瓶だった。
アオイの剣先は、まっすぐ。
彼女の腰の袋を貫通し、その中身――空瓶を、粉々に砕いていた。
その破片が、風に舞うように落ちていた。
それは、まるで――命そのものが、割れた音のようだった。
沈黙。
森が、あまりに静かだった。
空瓶が“命”であるなら。
今、二人は――“誰かの命”を守れなかったということ。
アオイは、掴んでいたハナネの手首を、静かに――まるで重さなどなかったかのように離した。
「……これが、現実だ」
低く落ちる声。
語気は強くなかった。だが、それゆえに残酷だった。
その言葉を最後に、アオイは振り返りもせず、森の奥へと足を向ける。
他の志願者たちへ向かうために。
残されたのは、二人。
アイカも、ハナネも、何も言えずにその背中を見送った。
血の滲む太腿を押さえるアイカ。
空瓶の割れた袋を抱えたまま、沈黙するハナネ。
どちらも、言葉を持たなかった。
涙も、怒りもなかった。
ただ――胸の奥に、焼けるような悔しさが広がっていた。
空瓶。
それは“命”を象徴するもの。
それが割れた今、ふたりの試験は――終わったのだ。
もう戦うことは許されない。
守ることも、挑むことも。
残されたのは、試験の終わりを、ただ黙って待つことだけだった。
陽が落ちるまで。
森は静かで、ただ風だけが、敗者の存在を忘れようとするように吹き抜けていった。
神血の英雄伝 第十六話
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