表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神血の英雄伝  作者: 三坂 恋
第一章 守攻機関
17/70

二次試験 四

 アイカとハナネは森の東側を歩いていた。


 会話は続かなかった。アイカが話しかけても、返ってくるのは冷えた声か、無言の拒絶。

 それだけだった。


(やっぱ私、嫌われてるよな?)


 アイカは、ほんの少し眉を寄せて、うつむいた。

目を閉じたその顔は、怒っているわけでも、泣いているわけでもない。

 けれどどこか、どうしていいか分からないような――そんな困惑がにじんでいた。

 口元はうっすらと結ばれ、言葉にできない想いを飲み込むように、小さく息をつく。


「私のこと……嫌い……?」


 思い切って問いかけた。

 だがその言葉は、地面に落ちた雨粒のように、音も立てず吸い込まれていった。


 ハナネは顔を向けず、前を向いたまま、無機質な声で答える。


「私は仲良しごっこをしに来たんじゃない。

組まされたのが貴方……“アイカ”だっただけ」


 刺すような声だった。

 温度のない語調が、森の空気ごと冷やしていく。


 沈黙。


 小枝が折れる音すら、どこか遠くに聞こえた。

 それでもアイカは、少しだけ表情を緩める。


(でも、名前で呼んでくれた)


 感情は見えない。けれど、わずかに礼儀がある。そのことに救われた気がした。



「……話は、終わったか?」


 突然の声が、空気を断ち割った。


 二人は同時に振り向いた。

 視線の先、少し高くなった斜面の上に、ひとりの男が立っていた。


 アオイだった。


(嘘だろ……)


 いつからいたのか。全く気づけなかった。

 鍛え抜いたはずの感覚が、一切反応を示さなかった。


 アイカだけじゃない。

 ハナネもまた、動揺を隠せず、じり、と片足を引こうとする。

 しかし、その動きを見逃さなかったアオイは、静かに目を細め、僅かに首を傾けるだけで、空気が張り詰めた。


 一瞬にして、森が黙った。


 視線ひとつ。

 それだけで場の空気が変わった。


 アオイが、ほんのわずかに首を傾けた――ただ、それだけだったのに。

 世界が止まったような感覚に、アイカの喉がひゅっと鳴る。

 空気が、肺に入ってこない。


 息が詰まる。

 視界が、妙に明るく感じるのは、脳が警告を発しているからかもしれない。


 呼吸が、重い。

 心臓が、打つたび痛む。


 それでも心臓は逃げ場を失ったように、容赦なく鼓動を打ち続けていた。

 どくん、どくん、と。

 何度も、何度も――命を思い出させるように。


(……強い)


 戦ってもいない。

 動いてさえいない。

 けれど、全身の細胞が告げてくる。


 “これは勝てない相手だ”と。

 “戦えば、負ける”と。


(それでも)


 アイカの喉が、ゆっくりと上下する。

 重たい空気を吸い込んで、ひとつ、息を整える。


(逃げたって、捕まる。隠れたって、見つかる)


 でも、それだけじゃない。


(――村人の命を守れないなら、守攻機関じゃない)


 脚が震えていた。

 握った斬槍の柄が、じわりと汗ばむ手の中で滑る。


 それでも。


 アイカは、一歩、前へ出た。


 たった一歩。

 けれど、死を受け入れるかのような重さを孕んだ一歩だった。

 斬槍を、静かに構える。

 刃がかすかに音を立てて揺れた。風が、笑ったような気がした。


 その姿を見て、アオイが口を開いた。


「戦う気か?」


 淡々とした声。

 抑揚のない、ただの質問。

 けれど、その言葉でさえ、内臓を押しつぶされるような圧を持っていた。


 肺が軋む。

 心が怯む。

 それでも、口を開く。


「そうだよ」


 震える声だった。

 強がりも、虚勢も、とうに通じない。

 けれどアイカは、笑っていた。

 引き攣った笑み。唇が乾き、かすかに割れて血の味がした。


 瞳も表情も、強張っている。

 けれど、引かなかった。前を見ていた。


 戦う――その覚悟だけが、今の彼女を支えていた。


「二人で、か?」


 アオイの視線が、ゆっくりとハナネへ向かう。


 ハナネは、微かに肩を揺らしながらも立っていた。

 恐怖がないわけではない。その顔には確かに、緊張と警戒が混じっていた。

 だが――彼女の右手は、空瓶の袋ではなく、腰の武器へと向いていた。


「一人で負けて命を失うより、

 二人で勝って、多くを守る方が正しい」


 声は低く、静かだった。

 けれど、その最後の語尾に、わずかな決意が乗っていた。


 目が合った。

 冷たい視線の奥で、氷が少しだけ、揺れたような気がした。




ーー三人は、動かず互いの呼吸すらも計っていた。


 風もない。葉も揺れない。

 静寂だけが森に満ちていた。

 誰一人、油断などしていない。

 ほんの一瞬の隙すら、命を奪うきっかけになる。

 そんな空気が張りつめていた。


 数秒の、沈黙。


 その時だった。

 アオイの姿が、ふっと消えた。


 ……消えたように、見えた。


 いや――現実が追いつけなかっただけだ。


 気づいたときには、アオイはアイカの目の前にいた。

 両手で握った剣が、風を裂いて振り下ろされる。


 キィィィン――!


 金属同士がぶつかる高音が、森を裂いた。


 アイカは、咄嗟に斬槍を振るい、かろうじて受け止めた。

 だが、剣圧の重みに両脚が沈む。全身に鈍い衝撃が走った。


「っ……!」


 震える手。

 剣圧の鋭さと、目の前に立つ“異質”への本能的な恐怖が重なり、体が軋む。

 アオイは、表情ひとつ変えていなかった。

 淡々とした目で、まるで動作確認をしているかのように斬撃を放っていた。


 そのとき――


「っ!」


 ハナネが動いた。

 腰に携えていた茶色の拳銃を取り出し、アオイの頭部へ狙いを定める。


 無駄がない。揺れもない。

 その構えは、まるで殺すために生きてきた者のそれだった。


 バンッ!


 乾いた破裂音が、森に響く。


 だがアオイは――その動きさえ予期していた。


 アイカを一歩押し飛ばし、尻餅をつかせたその直後、アオイ自身は風を蹴って後方へ跳躍する。

 放たれた木製の弾丸は、空を切り、後方の木柱へ当たって砕けた。


(拳銃か)


 アオイの瞳がわずかに揺れる。

 だがそれは、戦闘中の分析にすぎない。

 次の瞬間、その視線はアイカからハナネへと完全に移った。


「……!」


 アイカは、咄嗟に地面へ手をつける。

 その手の下から、土がうねり、二人の間に分厚い壁が立ち上がる。


 アイカは、神選者(アロス)の力を使ったのだ。


 だが――


 バシュッ!


 乾いた音とともに、土壁はまるで紙のように真っ二つに割れた。


(なっ!?)


 アイカとハナネは、同時に目を見開く。

 その反応すら待たず、アオイの剣が、一直線にハナネへと振り下ろされる。


 カンッ!


 金属音。


 ハナネは、腰に隠していた短剣で咄嗟に受け止めていた。

 その目に怯えはなかった。

 ただ、研ぎ澄まされた生存本能だけが宿っていた。


 すぐさま、反対の手に握った拳銃を構える。

 狙いは、腹部。至近距離。


 だが――


 アオイの膝が、鋭く突き上げられた。

 そのままハナネの手首を強打する。


「っ……!」


 ハナネが顔をしかめた。拳銃が指先から滑り落ちそうになる。

 その隙を逃さず、アオイの脚がハナネの腹部を貫くように叩き込まれる。


 ドンッ!


 衝撃音が、体内から響いた。

 ハナネの細い体が、くの字に折れる。


「がっ……!」


 ハナネの身体が、衝撃で空を切るようにして四歩ほど吹き飛ばされる。


 だが、倒れなかった。

 短剣を持ったままの手で腹部を押さえ、膝をわずかに折りながらも、踏みとどまった。


 十五歳の少女には、あまりにも重すぎる一撃。

 アオイが手加減しているのは明白だった。だが、それでも――痛みは痛みだった。


 その間に、アイカが斬槍を構え、吠えるように振りかぶる。


 だが――


「ッ……!」


 アオイは振り返らない。

 ただ、剣を逆手に持ち替えると、素手で刃を掴んだ。

 その掌に、赤い滴が滲む。

 血だ。

 鋭利な斬槍の刃が、アオイの皮膚を裂いていた。

 だが、顔は変わらない。痛みの表情も、歪みもない。


「っあ……!」


 アイカが動揺した、その刹那。

 アオイのもう一方の剣が、風を裂いた。

 アイカの左腿を掠める。鋭い斬撃。


 ビシャッ、と飛び散った血が、地面に赤い花のように咲いた。


「っ……くぅっ!」


 アイカの膝が一瞬、揺れる。

 でも、倒れない。

 ハナネも、武器を取り直しながら、なおも構えている。

 二人とも、攻撃の手を止めていない――だが、もう何度目だ。止められ続けている。


 その時。

 アオイが、ゆっくりと、真正面からアイカの方へと身体を向けた。

 黒い瞳が、まっすぐに、アイカだけを捉えていた。


「カコエラは――誰かを救えるように、強くなりたいと志願した。そう聞いているが」


 低く、澄んだ声。

 静かすぎて、鼓膜にじわりと染み入る。

 二人の動きが、止まる。


「この程度なら、辞めた方がいい。誰も救えない」


 まるで天気予報でも語るような、淡々とした言葉。

 だが、その一言で、空気がまたひとつ重くなる。


 アイカは、うつむいた。

 まるで、吐く息が白く凍るような錯覚――そんな寒さが、胸の奥にあった。


(……今の自分じゃ、追いつけない)

(まだ救えない……)


 現実は、残酷だった。

 どれだけ走っても、剣を振っても、敵の背には届かない。

 ただ、傷だけが積み重なっていく。

 息が切れ、手が震え、足が軋む。

 それでも、何も変わらない。


 胸の奥が、きしんだ。

 自分が情けなくて、悔しくて、――それでも。


「……諦めない。こんなんじゃ終われない」


 吐き出した声は、小さく、震えていた。

 けれどそれは、確かに、芯を持っていた。

 ――消えかけた炎が、ふたたび灯るように。


「今度こそ……誰かを救えるようになるんだ」


 ゆっくりと、アイカは顔を上げる。

 その瞳に宿っていたのは、涙でも、怯えでもなかった。


 燃えるような光。

 どこまでも真っ直ぐで、ぶれない強さ。

 それは、たしかに“立ち上がる者”の瞳だった。



 そして、再び斬槍を構える。

 震えていても、踏み出す。

 アオイは動じない。

 再び斬りかかったアイカの武器を、アオイはその手で掴み、完全に止めた。


「っ……!」


 抵抗はあった。だが、力が違いすぎた。

 そして――アオイの剣が、アイカの腕へ振り下ろされる。


 鈍い衝撃。

 斬槍が、アイカの手から滑り落ちる。


 次の瞬間――


ドンッ!


 アオイの蹴りが、アイカの腹部に突き刺さる。


「ぐっ……!」


 声を上げる暇もなく、アイカの体が後方へ吹き飛ぶ。

 地面を転がり、咳き込むように息を吐くアイカの視界が、ぐらついた。


 そして、アオイは――


 今度は、かろうじて立っているハナネへと、静かに身体を向けた。


「ノセラは……母親の仇を取りたい、と聞いた」


 淡々とした声。

 アイカのときとまったく同じ、感情の揺れを一切感じさせない口調だった。


「だが――それだけでは、守攻機関ではやっていけない」


 まるで、すでに結果が見えているとでも言いたげな語り口だった。


 その瞬間――

 ハナネの顔がわずかに歪んだ。


 呼吸が、浅くなる。

 強張った背筋に、熱が伝う。

 寄った眉の奥、氷のように冷えていた目に――かすかな熱が滲んだ。


「私はっ……」


 その声は、小さく震えていた。

 けれど、それは確かに、心の奥底から響く“叫び”だった。


「お母様を……あんな目に合わせた奴らが……っ

今もどこかで、何事もなかったかのように……っ、

簡単に! 誰かの人生を壊してるのが、耐えられないのよ!」


 吐き出すような怒りだった。

 それは“冷たい怒り”ではない。

 氷の奥底から、ようやく溶け出した――

 剥き出しの感情。

 傷ついた少女の、本物の声。


「人には……っ、自分で人生を決める権利がある!!」


 最後の言葉は、喉が裂けるほどの叫びだった。

 怒りと、願いと、哀しみが、全部混ざった声。

 それは、誰かを責めるためじゃない。

 奪われた人生に、必死に抗うための叫びだった。


 声を吐き出すと同時に、ハナネは拳銃をアオイの顔に向けて引き金を引いた。


バンッ――!


 森に銃声が響く。


 アオイの視線が、ほんのわずか弾丸の軌道に向いた。

 その一瞬を狙い、ハナネは距離を詰めていた。

 短剣を構え、まっすぐ喉元を狙う。


 だが。


 アオイの身体が、風に乗るように横へ流れる。

 弾丸は空を裂き、虚しく消えた。


 そして――


「っ!」


 次の瞬間、ハナネの手首が掴まれた。


 細い身体が宙に浮く。

 足が地から離れた。


「――ぁ……!」


 全てが、止まったように見えた。

 アオイの剣先が、ゆっくりと、しかし迷いなく、彼女の腹部へと向かっていく。


 死が、目の前にあった。


(死ぬ……!)


 そう思った。

 視界が、ほんの刹那、暗くなる。

 ハナネは目を閉じた。

 光も、音も、なくなる。


 そして――


 パリンッ……


 乾いた、けれど妙に響く音が耳を裂いた。


 ハナネは、弾かれたように目を見開いた。

 視界に入ったのは――砕け散った、あの空瓶だった。


 アオイの剣先は、まっすぐ。

 彼女の腰の袋を貫通し、その中身――空瓶を、粉々に砕いていた。


 その破片が、風に舞うように落ちていた。


 それは、まるで――命そのものが、割れた音のようだった。


 沈黙。


 森が、あまりに静かだった。


 空瓶が“命”であるなら。

 今、二人は――“誰かの命”を守れなかったということ。


 アオイは、掴んでいたハナネの手首を、静かに――まるで重さなどなかったかのように離した。


「……これが、現実だ」


 低く落ちる声。

 語気は強くなかった。だが、それゆえに残酷だった。


 その言葉を最後に、アオイは振り返りもせず、森の奥へと足を向ける。


 他の志願者たちへ向かうために。


 残されたのは、二人。


 アイカも、ハナネも、何も言えずにその背中を見送った。


 血の滲む太腿を押さえるアイカ。

 空瓶の割れた袋を抱えたまま、沈黙するハナネ。


 どちらも、言葉を持たなかった。


 涙も、怒りもなかった。

 ただ――胸の奥に、焼けるような悔しさが広がっていた。


 空瓶。


 それは“命”を象徴するもの。


 それが割れた今、ふたりの試験は――終わったのだ。


 もう戦うことは許されない。

 守ることも、挑むことも。


 残されたのは、試験の終わりを、ただ黙って待つことだけだった。



 陽が落ちるまで。

 森は静かで、ただ風だけが、敗者の存在を忘れようとするように吹き抜けていった。

神血の英雄伝(イコルのえいゆうでん) 第十六話

お読みいただきありがとうございました。

次回も読んでくださると嬉しいです(՞ . .՞)︎

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ