二次試験 三
森に入ると、レイサとコンは北側へ向かった。
やがて奥深くまで進み、人の気配が途絶えると、レイサはあたりを一通り確認しながら、肩の力を抜くようにため息をついた。
「レイサのお父さんは、さっきの隊長だよね?」
沈黙を破るように、コンが無邪気に声をかけた。
「ん? あぁ、そうだよ」
同じく軽い口調でレイサが答える。
「僕もね、兄弟いるんだ! 五人兄弟! 一番上のお兄ちゃんとお姉ちゃん、第一部隊なんだよ!」
コンは自慢げに笑う。その無邪気な声は、森の静けさに対してどこか異質で――それでも、少し心を和らげる力があった。
「へえ。……そうなんだ」
兄弟の存在も、そのうち二人が第一部隊というのも、レイサには初耳だった。
それに、
(兄って、まさか青髪のアオイ……? いや、似てないし)
「ちがうよ。アオイさんじゃない」
レイサの思考を読んだかのように、コンが否定する。
「二人とも今、任務でナサ村にはいないから」
レイサはそれを聞き、任務でナサ村にはいない二人は、コンの兄姉のことか。と、どこか納得した。
コンは一瞬だけ寂しそうに目を伏せたが、すぐにレイサの方を向く。
「僕も、二人みたいなかっこいい守攻機関の隊員になるんだ!」
希望を語る瞳はまっすぐで、どこかサユを思わせる。レイサは、思わず微笑んだ。
ほんの少しの静けさ――わずかな、平和な時間だった。
だがーー
「いやだ……助けて」
「早く逃げろ!!」
何かに追われるような足音と、混乱した声。森の中に、逃げ惑う気配が乱れ飛ぶ。
レイサとコンは一瞬で戦闘態勢に入る。
レイサは腰から二本の剣を引き抜き、コンは両手で剣を構えた。
辺りを警戒する中、レイサの耳に、風を切る“異音”が走った。
「コン、避けろ!!」
叫ぶよりも早く、レイサはコンに体当たりした。直後、小さな何かが――レイサの左肩に突き刺さった。
「っ……なんだこれ……」
刺さったのは、吹き矢のような小さな針だった。
「レイサ!!」
駆け寄るコンの声が震える。
「あれ、普通なら、もう毒が回って動けないはずなんですけど……」
前方から、高めの明るい声が聞こえた。
聞こえた瞬間、レイサは空瓶の袋を静かにコンに差し出す。
「コン、俺が言ったらすぐ逃げろ。わかったな?」
「え、えっ……うん」
困惑するコンに、レイサは真剣な目で頷かせた。
「あー。獣の神選者は、毒の耐性が普通より強いんでしたっけ?」
その声は着々と二人へ近づいてくる。
草むらの奥から現れたのは、長い白髪の男――イオリだった。
「行け!!」
レイサの声が響く。コンは反射的に、森の奥へと駆け出した。
「あら。一人逃げちゃいました。残念」
口では残念がっていても、その表情には余裕しかなかった。
“逃げても無駄だ”――そう言われているような、確信に満ちた微笑。
レイサは、武器を構える。
「本当は、あの女の子たちに会いたかったんですけど。……運がないですね」
(アイカたちのことか……)
「俺だと、荷が重すぎました?」
レイサは挑発的に笑ってみせた。
だが、その頬には冷たい汗が伝っている。心臓の鼓動が速くなっていた。
(勝てる相手じゃない……)
それでも、引くわけにはいかない。
ここで足を止めなければ、コンも――アイカたちも――きっと間に合わない。
「まぁ、いいですよ。実は、君にも聞いてみたいことがあったので」
イオリはそう言って、朗らかに微笑んだ。
まるで、これから始まるのが“試験”ではなく、“ただの雑談”ででもあるかのように――。
ーーイオリは、独特な笑みを浮かべたまま、微動だにしなかった。
一歩も踏み出さず、ただその場に立ち尽くしている。
対するレイサは、緊張の糸を張り詰めたまま、じりじりと間合いを計っていた。だが、イオリは一向に攻撃の気配を見せない。
「私、戦闘は向かないんですよ。……ほら、挑発したんですから。レイサくんから、どうぞ?」
右手を背後に、左手を胸に添えて、どこか申し訳なさそうに頭を下げるイオリ。
その“芝居がかった優雅さ”が、レイサの神経を逆撫でした。
(……バカにしてんのか)
レイサは目を細め、静かに息を吐く。
どこまでも見下されているようなその態度に、怒りよりも冷たく澄んだ闘志が湧いてきた。
「――じゃあ、遠慮なく」
瞬間、レイサが地を蹴る。
音もなく、風のように距離を詰めた。
イオリの眼前まで迫ったレイサの剣が、迷いなく首元を狙って振るわれる――
ジャリッ。
鈍く、金属がこすれるような音。
レイサの左足が不意にもつれる。
何かに引っかかった。視線を落とすと、鎖――いや、針金のように細く鋭い鎖が、足首に絡んでいた。
次の瞬間。
視界の端から、閃く細剣。
イオリの左手が、まるで踊るような動きで細身の刃を繰り出してくる。
剣先には、黒い液体がかすかに塗られていた。
「くっ……!」
レイサは体を反らせる。仰け反るようにして細剣を回避すると、すかさず右手の剣を返し、今度はイオリの脇腹を狙って斬りつけた。
「おっと」
イオリは笑顔を崩さない。
まるで予期していたかのような身のこなしで、後方へ一歩、ふわりと引く。
剣筋を紙一重でかわすと、そのまま、つま先立ちでバランスを取った。
レイサはその隙に飛び退き、再び距離を取る。
斬撃は空を切った。けれど、それでよかった。
接近戦で長く戦えば、毒で負ける――そう直感が告げていた。
「やっぱり上手ですね。……さすが、隊長の息子」
イオリは、無邪気とも残酷ともつかない笑みでそう言った。
口調に挑発の意図はない。ただ事実を述べているようだった。
だが、言葉の端々には、あまりにも冷たい“本気”がにじんでいた。
レイサは心の中で歯を食いしばる。
背筋を伸ばし、再び構え直す。
(逃げるわけにはいかない)
震える呼吸を整えるように、深く、静かに息を吸った。
レイサは、顔をイオリに向けたまま、三歩、四歩と円を描くように横に動いた。
そして、急に加速し、周囲を駆ける。
旋回する動きの中で、イオリの急所をいくつも狙って切り込んだ。
だが――
キィン、カンッ!
攻撃はすべて、受け流されるか、鎖で牽制され、かわされていた。
(……っ、触れられない)
イオリの細剣には、明らかに毒が塗られている。
先ほど受けた刺突だけで、左腕が熱を帯びて腫れているのが感覚でわかる。
そのときだった。
「――そろそろ、こちらからもいきましょうか」
まるで誰にも聞かせるつもりのない、独り言のように。
イオリがぽつりと呟いた。
次の瞬間。
イオリの姿が一瞬霞んだかと思えば、すでに目の前。
「っ――!」
レイサの首元へ、手刀が鋭く突き込まれる。
息が詰まる。肺が一瞬だけ、空気を忘れた。
そこへ。
イオリは、最初に使ったのと同じ細い毒針を、レイサの右足に突き立てた。
「……クソッ!!」
レイサは反射的に右足を蹴り上げ、イオリの太腿を蹴る。
思わぬ反撃だったのか、イオリの笑顔が一瞬だけ緩み、瞳がわずかに揺れた。
だが、ダメージにはなっていない。
レイサの力では、届かない。
理解していたはずの現実が、重くのしかかってくる。
次の瞬間、イオリは鎖を操り、レイサの左手首を絡め取ると、そのまま横へ叩きつけた。
ボキッ――ボキッ、グギボキ
地面が鳴った。背骨が、軋んだ。
それでも。
レイサは、ゆっくりと身体を起こす。
青ざめた顔、汗に濡れた額。呼吸は荒く、立っているのがやっとだった。
イオリはそれを見て、ふっと笑みを深めた。
「そろそろ、質問をしなくてはダメかもしれませんね」
淡々とした口調。
イオリの言葉には、同情も、嘲りもなかった。ただ、静かに淡々と続ける。
「レイサくんは、妹さんの笑顔を守る為に守攻機関を志願した。そう聞きましたが、なぜ妹さんと守攻機関が関係あるのですか?」
レイサは、荒い息を整えようとしながら、ふらつく足で立ち直り、答えた。
「……隊長は、昔から……獣の神選者が継いでる。……サユにならせるわけには、いかない。……あいつには、ただ……笑っててほしいんだ」
「ふむ……」
イオリの笑みは、そのままだった。静かに、狂気のように。
「隊長は、死刑を執行する役でもありますからね。
血の温度、命の重さ、絶望の瞬間……それらを、己の手で味わうことになります」
レイサの表情が、わずかに強張った。
脳裏を過るのは、ユサのあの顔。
罪人の首を斬ったあとの、どこにも向けられない哀しみが滲む顔。
(あんな顔……サユには、させない)
そして、心の底に沈めていた記憶が、音もなく浮かび上がる。
――七年前。村が襲撃に遭った日。
崩れた家の中、瓦礫に埋もれたレイサは、ただ見ていることしかできなかった。
身体は動かず、声も出なかった。
目の前で泣き続けるサユに、手を伸ばすことすらできなかった。
「お兄ちゃんいかないで……いやだ……お願い……」
幼い叫びが、今も胸の奥に突き刺さったままだ。
(俺は……あの時、何もできなかった)
あの日を忘れたことなんて、一度もない。
イオリの声が、その記憶を踏み砕くように重なった。
「ですが先ほど、隊長になりたいと語ったサユさんを……あなたは笑顔で応援していました。
本心でなければ、あの目はできない」
「……本心だよ。
サユの気持ちは、誰よりも……大事にしてる。……だからこそ、応援してるんだ」
「では……隊長になっても、構わないのですか?」
「構わなくない」
その言葉に、イオリの目がすっと細くなる。
「――それは矛盾していませんか?」
レイサの中で、何かが弾ける。
「……矛盾でもなんでもいい」
レイサの声が、かすかに掠れていた。
「サユが隊長になりたいって言ったら……俺は応援する。心から。
あいつが何かを目指して、真っすぐ進もうとしてるなら……止めたくなんかない」
拳が、震える。
剣の柄を握っていなければ、自分の意志ごと崩れてしまいそうで――
レイサは、それを支えに立っていた。
「でも……でも、違う。
応援するのと、背負わせるのは違うんだよ。
“笑っててほしい”って願うことが、
あいつの未来を縛るなら……
そんな願い、俺の中から引きずり出してでも、捨ててやる!」
言葉が止まらなかった。止められなかった。
心に蓋をしてきた“弱さ”も“悔い”も――いま、全部叫びに変わっていた。
瞼の奥が熱い。何かが崩れて、こぼれ落ちそうだった。
「だから、俺がなる。俺が継ぐ。
サユより先に、俺が誰より強くなる。
それで守れるなら――俺が“正継”に、隊長になってみせる。
サユの笑顔は、俺が守る!」
その叫びは、誰に向けたものでもない。
泣きそうな自分に、今ここで言い聞かせたかった。
――これが、レイサの誓い。誰にも壊させない、心の核。
沈黙が落ちる。
イオリは、その場に立ったまま、目を伏せるようにして笑った。
「……いいですね」
その言葉は、温かくて、どこまでも優しい声だった。
だが、その奥にあるのは、まるで「痛みと悲しみを愛おしむ者」のような、静かな興奮だった。
「矛盾に気づきながらも、守りたいと願う。
すばらしい。壊したくなるほど、美しいです」
イオリの目が、ゆっくりとレイサを見据えた。
レイサの瞳は、まだ何かを隠しているようにも感じた。
レイサは、歯を食いしばり、イオリに向かおうとした。
だが――一歩、踏み出した瞬間。
視界がぐらりと揺れた。
地面が傾き、天と地の境がわからなくなる。
力が入らない。剣が滑り落ちる。
そのまま、膝から崩れ落ちた。
(毒……っ)
刺された傷口から、遅れて回った毒が、全身を蝕んでいた。
呼吸も熱く、苦しい。だが、顔だけは――最後の意地で、イオリへと向けた。
「ありがとうございます」
イオリの声は、どこまでも穏やかだった。
まるで何の殺意も、敵意もなかったかのように。
「私の相手がレイサくんで、本当に良かった。……おかげで、とても素晴らしい時間でした」
それは、皮肉でも侮蔑でもなく――本心にすら聞こえた。
イオリは、ゆっくりと一歩前に出ると、全身を使って、深く、深く頭を下げた。
一分の隙もない、まるで神前で礼を捧げるような動作だった。
「では……ゆっくり、お休みください」
「まっ……」
レイサは何かを言おうとした。けれど、声は唇の動きに追いつかなかった。
世界が、音もなく、闇に沈んでいく――
意識が、静かに、途切れた。
ーーコンは、森の北寄りの奥深くで息を潜めていた。
小さくしゃがみ込み、手には、レイサから託された空瓶の袋をぎゅっと握りしめている。
「……レイサ、どうして来ないの……?」
レイサと別れてから、もう四十分が経っていた。
気配はない。足音も、声も――何ひとつ。
(まさか……やられちゃったとか……?)
最悪の想像が、頭をもたげる。
(……ちがう、違う。レイサなら、大丈夫。
絶対、絶対、大丈夫……!)
何度も自分に暗示をかけるように、心の中で唱え続けた。
――その時だった。
「見つけましたよ」
背後。上方から、声が降ってきた。
高く、明るい。
けれど、それは“希望”ではなかった。
響いたのは、“絶望”の音だった。
コンは、おそるおそる顔を上げる。
そこには、先ほどよりもさらに不気味で――歪んだ笑みを浮かべた、イオリがいた。
「う、うわぁあああぁぁぁ!!」
コンは尻を地面に擦りながら、後ろへと必死に逃げようとする。
でも、分かってしまった。
ここにイオリがいるということは、もうレイサは――
(嘘だ……そんな……!)
恐怖と絶望が、冷たい手で喉元を撫でていく。
呼吸がうまくできない。声も裏返っていた。
「どうしますか? 私と戦ってみますか?」
イオリの声は、穏やかすぎるほど穏やかだった。
まるで選択肢を与えるふりをしながら、すでに答えなど決まっているかのように。
「ぼ、ぼくは……っ、え、あ、ごめんなさい、ごめんなさい! 許してください!」
混乱と恐怖に支配されたコンには、もはや“戦う”という選択肢すら浮かばなかった。
「……そうですか。あのお二人方の弟さんなので、あなたにも少し期待していたのですが――残念です」
ぽつりと、イオリは言った。
そのまま、右手を軽く上げる。
シュッ――
空を裂く音と共に、細く鋭い針が放たれた。
「え……?」
首元に何かが触れた気がして、コンは視線をそちらに向けた。
だが、そこまでだった。
次の瞬間には、地面へと崩れ落ちていた。
イオリは、倒れ伏したコンの手からそっと空瓶の袋を抜き取る。
「……ありがとうございました」
その言葉すらも丁寧で、静かで、そしてどこか――恐ろしかった。
そして彼は、無言のまま、次の志願者のもとへと歩き出していく。
こうして、レイサとコンの第二次試験は――ここで、幕を閉じた。
神血の英雄伝 第十五話
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