一次試験 一
数日が経ち、いよいよ一次試験の日が訪れた。
アイカとレイサは、朝の冷たい風に身を引き締めながら、静かな緊張に包まれた学び舎の前に立っていた。
守攻機関の一次試験――識門試験と志の問答試験は、毎年、守攻機関本部と学び舎の二か所に分けて実施される。
三日前、それぞれの家に届いた通知の手紙には、自分がどちらの会場へ向かうかが明記されていた。
今回、アイカとレイサに指定されたのは、村の学び舎だった。
引き戸を静かに開けて中へ足を踏み入れると、すでに数人の試験者たちが学びの間に集まっていた。
部屋に満ちる空気は、張りつめた緊張と、かすかな期待を含んでいた。
「やっぱり、人が多いなぁ。同い年くらいのやつもいるな」
レイサが、少し肩の力を抜いたように息をつきながら周囲を見渡し、隣のアイカに声をかけた。
アイカもちらりと視線を巡らせたあと、ぽつりと呟いた。
「だいぶ少ないな」
思っていたより、同世代の姿は見当たらなかった。
守攻機関の試験は、学び舎を修了し、満十五歳に達した者であれば誰でも受けることができる。
アイカたちと近い世代は、二人を含めて三十六人。そ のうち、男子のほぼ半数が「試験に挑む」と話していた。
けれど、この学び舎に集められたのは、二人を含めてわずか六人だった。
「たぶん、他のやつらは本部の方に行くように言われたんだろうな……」
レイサが、どこか寂しげに呟く。
広々とした学びの間は、人の少なさを際立たせ、余計に静かに感じられた。
アイカは言葉を返さず、小さく頷くと、壁に貼られた紙で自分の席を探した。
そのまま、黙って指定された席に腰を下ろす。
机に手を添えた指先には、わずかに緊張がにじんでいた。
やがて、役場勤めの見張り人が二人、学びの間に姿を現した。
前の席から順に、彼らは机の上に墨木と、左上に小さな穴が開けられ細い糸で束ねられた紙束を配っていく。
すべての配布が終わると、見張り人の一人が学びの間の前方、中央に立ち、落ち着いた声で告げた。
「これより、守攻機関の一次試験――識門試験を行う。終わりは、今から陽の上りきる刻まで。
終了したら、前の者から順に、隣の学びの間にて志の問答を行う。……皆が通過できることを祈っている。では、始め」
静けさが張り詰める中、アイカとレイサは、紙に並んだ問いの間の小さな空白へと、墨木を走らせていった。
識門試験で出される内容は、大きく分けて五つ。
一つ目は、読み書き。
二つ目は、計算。
これらは、最低限の文字の理解と、日常で必要なお金の計算ができるかを見る問題だ。
守攻機関に限らず、どんな仕事をするにも必須とされているため、学び舎では六歳から十五歳までのあいだ、日常的に教えられている。
そのため、よほど学びの間を抜けていない限り、大きな失敗をすることはない。
三つ目は、村の構造について。
村にある施設や建物の配置、生活動線、避難経路の把握だけでなく――「どの場所が狙われやすいか」「緊急時、誰をどこへ誘導すべきか」といった、状況に応じた判断力が問われる。
問題は単なる地図の穴埋めに留まらず、たとえば「舟戸が塞がれた場合、南東からの火災が広がる前に避難民をどう動かすか」といった実践的な設問も含まれる。
村の地形と構造、建物の材質や周囲の環境を把握していなければ、的確な対応はできない。机上の知識だけでは通用せず、「実際に動くとすれば――」という想像力と現実感が求められるのだ。
そして四つ目と五つ目が、医学と薬学。
こちらは専門知識までは求められないが、守攻機関が人命救助を行う場面を想定しているため、一定の理解が必要とされる。
出題される内容は多岐にわたり、人体の構造や止血、縫合の基本に始まり、薬草と毒草の見分け方、簡単な薬の調合、発熱や病に苦しむ村人への初期対応などが含まれる。
これらの知識は、役場の書物や記録書を通じて学ぶことはできる。だが、その量は膨大で、全てを覚えるには時間と集中力が必要だった。
墨木を走らせる音が、次第にまばらになっていく。誰もが、紙束に詰め込まれた問いに苦しみ始めていた。
それは、アイカも例外ではなかった。
(頭痛の際に使うと良い薬草の名前……何だっけ。レイサと覚えたのに……)
(イヅチノって、何の効果があったっけ……止血の方法……あぁもうやりたくない)
アイカは眉を寄せ、紙束を睨むように見つめる。
記憶がこんがらがり、どれが正解か分からなくなっていく。
もともと、こうした知識を覚えるのは得意ではなかった。
今回も、記憶との格闘に苦しんでいた。
一方で、アイカの斜前に座るレイサの手は、迷いなくスラスラと動いていた。
(ツネモの実は……胃や腸を整えるのに少量使う。けれど、大量に摂ると……逆効果。確か、そうだったはず……)
レイサは墨木を手に、迷いなく紙束に答えを書き連ねていた。父親が守攻機関の隊長を務める家で育った彼にとって、記録書や書物は幼いころから身近な存在だった。知識を得ること、覚えることも元々好きだった。
やがて、陽が一番上まで登りきり、静かに射し込む光が学びの間の床を照らし始める。すると、前に立っていた見張り人が声を張った。
「止め! 今から回収に入る。墨木を机に置いておけ」
ザッという布の擦れる音と共に、見張り人が順番に机を回り、紙束を回収していく。しばらくしてすべてが集め終わると、今度は一人ずつ名前が呼ばれ、隣の間へと誘導されていく。
隣の間では志の問答が行われ、終わった者はそのまま帰される決まりだった。
レイサは斜後で肩を落としていたアイカに、少し身体を傾けて声をかけた。
「おい、アイカ、どうだった?」
ニヤリと口元を緩めながら尋ねるその顔には、どこか余裕があった。
対して、アイカは顔を机に伏せたまま、低く、かすれた声で応えた。
「やべー……落ちたらどうしよう……」
答えるまでもないというように、机に埋もれた彼女の背中からは、落ち込んでいるのが手に取るように伝わってくる。レイサの表情も、それを見てふと苦笑いへと変わった。
と、間もなくして、見張り人がその名を呼んだ。
「次、レイサ・ハリス」
「お、呼ばれた。じゃ、先に行くな!」
レイサは軽く片手を挙げてアイカに合図する。アイカも顔を上げることなく、手だけをゆるりと上げて応えた。
隣の間へと通されたレイサの視界には、簡素な室内が広がっていた。机がふたつ、向かい合うように置かれ、その奥には見張り人がひとり座っていた。見張り人の机上には白紙と墨木が用意されている。
見張り人は、目の前に座れと言うように顎をクイっとさせた。レイサは手前の席に腰を下ろす。すぐさま静寂が訪れたが、やがて見張り人が口を開いた。
「では、レイサ・ハリスに問う。なぜ、守攻機関に志願した?」
静かに、だが揺るがぬ声音だった。その視線はまっすぐに、レイサの奥底を見通すように向けられていた。
レイサは、ほんの一拍の間を置き、それからまっすぐに視線を返し、言葉を紡ぎ始めた。
「はい。ご存じかもしれませんが、私の家は代々、守攻機関の隊長を務めています。今も父が、ナサ村を守るために全力で尽くしています。私は、物心ついた頃から、そんな父の姿を見て育ちました。だから私も、自然と、いつかあの人のようになりたいと思うようになりました」
そこまで語ると、一度言葉を止める。けれどその瞳には、ためらいも迷いもなかった。
そして、静かに、続ける。
「それと……私は、妹が大好きです」
「……は?」
不意に飛び出したその言葉に、見張り人の目がわずかに見開かれる。
意図を測りかねたのか、思わず声が漏れていた。だが、レイサは淡々と、微笑みさえ浮かべたまま続けた。
「私の願いは、村の皆が平和に暮らせること。そして、妹が、何の心配もなく、ただ笑って過ごせる日々を守ることです。その為に、守攻機関を志願しました」
その言葉に、誇張や飾りはなかった。凛とした声音。まっすぐな瞳。その全てが、嘘のない本心を物語っていた。
見張り人は一瞬、何かを言いたげに口元を動かしたが、すぐに表情を戻し、短く言った。
「……帰っていい」
レイサは静かに一礼し、席を立った。
足音が遠ざかっていく中、室内に再び静寂が訪れる。
そしてぽつり、見張り人が呟いた。
「あんなこと言ったやつ……初めてだな……」
ーー次々と名前が呼ばれていく中、アイカはただ黙って、視線を膝の上に落としていた。
志の問答に、どう答えるべきか。
アイカは、言葉が得意ではなかった。
気持ちを伝えることが、昔から少し苦手だった。だからこそ、自分の思いがうまく伝わらず、誤解されることも多かった。
(言いたいことはあるのに、うまく言葉にならない……)
焦るほどに喉が詰まる感覚。言葉にすることで、心が遠ざかっていくような不安。そんな思考の渦の中にいたときだった。
「次、アイカ・カコエラ」
張られた声が学びの間に響いた。
名を呼ばれたアイカは、静かに顔を上げた。何も言わず、ただ見張り人の後に従って立ち上がり、足音を殺すように隣の間へと歩いていく。
簡素な室内。向かい合う二つの机。その光景がアイカには、まるで別世界のように感じられた。
奥に座る見張り人は、変わらぬ冷静な視線で彼女を見据えていた。
「アイカ・カコエラ。なぜ、守攻機関を志願した?」
問いかけは静かだった。だが、空気を切り裂くような鋭さを孕んでいる。
アイカはほんの少しだけ瞬きをした。まだ答えの形は定まっていなかった。けれど、瞳に宿る光は確かに変わった。迷いの奥にあった小さな灯が、ゆっくりと、強く、燃え上がる。
「……強くなりたいから」
短く、率直な答えだった。飾りも、迷いもなかった。だが、それだけでは足りないことを彼女自身が一番よくわかっていた。
だから、アイカは続けた。
「私は……あの襲撃の時、何もできなかった。誰かを救えるかもしれないって、そう思っていたはずなのに……本当にその時が来たら、怖くて、足が動かなかった。声も出なかった。私は、ただの弱虫だった」
苦しみを吐き出すような言葉だった。けれど、その声は震えていなかった。
「だから今度こそ、自分の力で、誰かを救いたい。強くなりない。そのために守攻機関に入りたいです」
アイカは視線を逸らさずに、まっすぐ見張り人の瞳を見つめていた。その小さな身体に宿った意志の強さが、空間の空気を変えていた。
やがて、見張り人がふ、と視線を落とし、息をついた。
「……そうか。帰っていい」
それ以上、何も言葉を添えることなく。
アイカは静かに頭を下げ、席を立った。その背中は、ほんの少し、さっきよりも真っ直ぐに伸びていた。
神血の英雄伝 第十一話
読んでくださりありがとうございました。
次回も読んでいただけると嬉しいです(՞ . .՞)︎
暑い日が続いているので、皆さん熱中症にお気をつけください。