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神血の英雄伝  作者: 小豆みるな
第三章 孤獣と氷華

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記憶の残火

 明刻の半ば前ごろ。


 朝日がゆっくりと地平を押し上げるように顔を出し、夜の名残をまとっていた空気は、ぬるい息を吹き返すようにじわじわと熱を帯び始めていた。まだ昇りきらぬ陽だというのに、肌にまとわりつく空気は、どこか気だるい。


 アイカは一人、守攻機関クガミの本部へと続く道を歩いていた。登り始めた朝日を横目に、その光を振り払うようにして。


 集合時刻までは、まだ二時間ほど余裕がある。

 だが、昨日訓練でセイスに完膚なきまでに叩きのめされた悔しさが、胸の奥で小さな棘のように引っかかっていた。抜こうとしても抜けないその感覚が、じくじくと存在を主張してくる。

 だからこそアイカは、北東の森で一人、特訓をするつもりだった。


(やっぱ、まだ誰もいないな)


 視線を巡らせても、人影はどこにもない。村はまだ眠りの中に沈んでいるようで、静けさがやけに広く感じられた。


(まぁ、トワたちも寝てたし)


 家を出るときも、トワやチタは夢の底へ沈んだままだった。イロハやイヅキも同じように、朝に抗うことなく眠り続けていた。


 ふと脳裏をよぎる。


 家の中に、タイガの姿だけがなかった。


 きっともう役場へ向かったのだろう。昨日も、帰ってきた頃にはすで深刻をまわっていた。そして今日もまた、夜の名残が消えきらぬうちに家を出ている。

 村長という立場は、陽が昇るよりも早く始まり、陽が沈んでも終わらないものなのかもしれない。


「やっぱ村長って大変だよなぁ……」


 感心と、ほんの少しの心配が混ざった声が、静かな空気に溶けていく。


 そんなふうに歩いていたときだった。


 中央広場を通り過ぎたあたりで、ふと視界の先に違和感が生まれる。


 見慣れたはずの景色の中に、ひとつだけ異物のように人影が浮かぶ。

 長身で、無造作に伸びた髪が顔を隠している。一見細身だが、その輪郭には無駄のない筋肉が潜んでいた。守攻機関の制服をまとい、膝を折って地面を探っている。


 雑草をかき分け、長椅子の下、柵の隙間、まるで何かを追い詰めるように、手探りで探している。

 ふと、動いた拍子に襟元の紀章が光を受けた。

 深い黒紫が、朝の光に触れて、かすかに息をした。


「セイ……ス……?」


 思わず、名前がこぼれる。

 髪と体格だけで、もうそれと分かってしまう。

 だが、他の隊員の姿はない。こんな時間に、なぜ一人で。


 何かを探している。


 そう考えた瞬間、アイカの足は自然と速くなっていた。


「セイスーー」


 声が、静寂を切り裂く。


 まだ幼さの残る高い声は、けれど確かな意志を宿して、まっすぐに届いた。

 地面を踏む足音に気づいたセイスは、ゆっくりと視線を上げる。


 そして、近づいてくるアイカの姿を捉えた瞬間、わずかに顔を歪めた。


「お前か……」


 低く落とされた声は、朝の空気よりも冷たい。

 それだけ言うと、興味を失ったように再び視線を地面へ落とした。


 アイカはその隣に立ち、顔を覗き込む。


「何してんの?」


 問いかけは素直だった。

 セイスは手を止めず、吐き捨てるように言う。


「お前に関係あらへんやろ。てかこんな朝っぱらから何うろついてんねん。集合時間ちゃうやろ。頭おかしなったんか」

「私は一人で特訓しようと思って早く起きただけ。おかしくなってないから」


 棘には棘で返すように、アイカは不機嫌そうに言い返す。


 セイスは短く「はっ」と鼻で笑うと、それ以上は何も言わず、雑草をかき分ける。


(そっちは話さないのかよ)


 胸の内で小さく毒づく。


 だが、その動きはあまりにも真剣で、どこか焦りすら滲んでいるようにも見えた。

 一人で森へ向かう気は、いつの間にか薄れていた。

 代わりに、アイカはその場にしゃがみ込む。

 そして、同じように雑草へと手を伸ばした。

 緑の隙間をかき分け、土の匂いを掘り返すように。

 その行動に、セイスの眉間が深く寄る。


「おい、なんの真似や」

「見て分かんない?探してんじゃん」


 手を止めずに答える。


「セイス、何か探してるんでしょ。手伝うって」


 その言葉に、セイスはわずかに鼻で笑った。


「なんも聞かずに、何探してるか当てられんのか」

「いや、言ってくれないのに分かるわけないじゃん」


 即答だった。


「だから今はテキトーに探してる。セイスが言ってくれたら、もっと早く終わるかもよ」


 土を払う指先は止まらない。

 その軽さとは裏腹に、そこに居座る意思はやけに重かった。

 セイスは一瞬、黙り込む。

 本当は追い払いたい。

 だが、目の前の少女は、見つかるまでここを動かない。そんな確信めいたものが、空気に滲んでいた。

 観念したように、セイスは目を閉じる。

 そして、大きく息を吐いた。


「……指輪や」


 その一言は、土の中に落ちる小石のように、静かに重く響いた。


「指輪……?」


 吐き捨てるように落とされた一言に、アイカの手がぴたりと止まる。まるで時間だけが一瞬、足を取られたみたいに。


「え、セイスって指輪とかつけんだ」


 思ったままを口にした、その瞬間――


「俺なわけあるか!依頼に決まっとるやろが!」


 怒鳴り声が、至近距離で弾けた。


 乾いた音みたいに耳にぶつかって、頭の奥までビリっと響く。


「っ……!」


 思わず、アイカは半歩だけ距離を引いた。反射的に瞼を閉じる。


(ちかすぎ……)


 心の中で吐き捨てる。


 けれどセイスはそんなことお構いなしに、すぐに視線を手元へ戻していた。


「幽刻に、夫からもろた指輪を落としたんやと。ばばあから捜索依頼が来とる」

「あー……依頼か」


 腑に落ちたように、アイカは小さく頷く。


「他のあては全部潰した。あとはここだけや」

「え、まさか……ずっと探してたの!?」


 驚きが、そのまま声に弾けた。


 セイスは手を止めないまま、面倒くさそうに返す。


「ああ?なんか文句でもあんのか」

「文句はないけど……日が出てから探した方がよくない?昨日だってずっと訓練してたし、疲れてないの?」


 イナトとの約束もある。

 けれどそれだけじゃない。アイカ自身、少なからずセイスの身体を気にしていた。

 一晩中、無理に探し続ける必要なんてないはずだ。

 少しでも休んでほしい。そんな思いが、言葉の端に滲む。

 陽が昇れば、光が地面をさらう。見落としていたものだって、きっと拾い上げられる。

 そんな当たり前の理屈を、遠回しに含めたつもりだった。


 だが――


 セイスの手がふっと止まり、空気が糸を張ったみたいに張り詰めた。


「……お前、大事な奴からもろたもん無くして、平気でおれるか?」


 低く落ちた声は、土の奥に沈むみたいに重い。


「……いや、見つかるまで不安になるかも」


 アイカは少しだけ視線を落としながら答えた。

 胸の奥に、見えない何かを当てられたような感覚が残る。


「なら、その指輪無くしたやつも同じやろ」


 短く、言い切る。

 それだけで十分だと言うように。


「あ……そっか」


 ぽつりと、理解が落ちた。

 水面に小石を落としたみたいに、遅れてじわりと広がる。

 けれど、その波紋はすぐに言葉にはならず、ただ気まずさだけが足元に残った。

 アイカは視線を落とし、再び指輪を探し始める。

 土を払う指先が、どこかぎこちない。

 その沈黙を振り払うように、ふと昨日から引っかかっていたことを口にした。


「そういえば、セイスはなんで守攻機関に志願したの?」


 だがセイスは、気のない調子で返した。


「んなこと聞いて、なんの得があんねん」

「別に得とかじゃないよ。ただ私が気になっただけ」


 雑草をかき分けながら、続ける。


「セイスって態度とか悪いのに、なんで守攻機関に入ったんだろうって」

「はっ、言うやんか」


 セイスは、低く言い捨てた。


「お前も大概やろ」

「それはそうだけど……まぁ、別に嫌ならいいや」


 これ以上踏み込んでも、答えてはくれない気がした。アイカは、そっと引いた。


 けれど――


「別にお前に話したところで、なんも変わらんわ」


 間を置かず、手を休めることもなくセイスは言った。


「ただ古臭い約束、果たしただけや」


 乾いた声だった。

 セイスの視線は、ふっと足元へ落ちる。

 けれどそれは地面を見ているというより、もっと遠く、ここじゃないどこかを見ているようだった。

 その横顔に、ほんのわずかに滲む影。

 それが何なのか、言葉にはならないまま、アイカは、そっと口を開いた。


「誰と約束したの?」


 気づけば、一歩だけ踏み込んでいた。


 だが、空気ごと切り捨てるかのように、セイスは意識を引き戻す。


「そんなんどうでもええやろ。さっさと手ぇ動かせ」


 吐き捨てると同時に、雑草を乱暴にかき分ける。


「……はーい」


 気の抜けた返事。

 それ以上は、もう踏み込まない。

 アイカは視線を落とし、指輪探しに戻る。

 けれど、アイカが目を逸らしたそのあとで、雑草をかき分けるセイスの手は、当たり散らすように荒くなっていた。







 そして、指輪を探し続けること、四十分ほどが過ぎた。


「あ、これじゃない?」


 不意に、アイカの声が弾む。

 指輪は、二人が探していた場所から数歩離れた、伝達板のそばに落ちていた。


 ちょうど差し込んできた朝の光が、そこだけを掬い上げるみたいに照らしている。

 その中で、小さな金属が静かに光っていた。


 アイカはそれを拾い上げると、陽にかざす。

 指輪には控えめな模様が刻まれていた。

 ところどころに年季は見えるが、それでもなお、大切に扱われてきたことが、指先越しに伝わってくる。


「見つかったー」


 ぽつりと息を抜く。


 思った以上に時間がかかり、ずっと中腰だったせいか、首の奥がじんわりと重い。

 アイカは軽く首に手を当てながら、隣のセイスへ指輪を差し出した。


「これ、どうすればいい?」


 セイスは視線だけを落とし、ぶっきらぼうに答える。


「ばばあの家に届ける。もうこの時間なら起きとるやろ」

「分かった!」


 返事は素直だった。

 その横で、セイスは大きくあくびをひとつこぼす。

 今になって、眠気が追いついてきたらしい。


 それから二人は、南側にある老婆の家へ向かった。


 指輪を差し出すと、老婆は目を見開き、やがて、ぽろぽろと涙をこぼした。

 それは亡くなった夫から、求婚のときにもらったものだった。

 セイスが一晩中探してくれていたと知ると、何度も、何度も頭を下げて礼を言った。

 そのお礼として、朝膳をとっていなかった二人に、ささやかな菓子が手渡される。

 鍔のような形をしたそれは、布に包まれ、二つずつ渡された。


 二人は本部へ向かう道すがら、それを口にする。


「甘くない」


 アイカがぽつりとこぼす。


 中には小豆と餡が入っているが、子どもが喜ぶような甘さではない。

 どちらかというと、ほんのり塩味が効いた、落ち着いた味だった。

 けれど、一仕事終えた身体には、それが妙にしっくりきた。


 朝刻の半ばを過ぎたナサ村は、ゆっくりと目を覚まし始めていた。

 朝の散歩をする老人たち。

 川へ向かう漁師たち。

 静かだった村に、人の気配が少しずつ戻ってくる。

 そんな中で、二人は黙々と菓子を食べながら、本部へと向かった。







 そこで待っていたのは、いつもの穏やかさを失ったイナトの姿だった。


 引き戸を開けると、廊下の奥。

 踏み場の前に、腕を組んで立っている。

 その瞳には、小さな怒りと、拭いきれない心配が滲んでいた。

 セイスの姿を捉えると、わずかに眉を寄せる。


「セイス、おかえり。今まで何してたの?」


 声は静かだが、柔らかさはなく、いつもの笑みも消えている。

 その視線は、隣にいるアイカには一切向けられず、ただまっすぐセイスだけを射抜いていた。 


 いつもと違うイナトの気配に、セイスは気づいていた。

 だが、顔をしかめると視線を逸らし、何も言わない。その沈黙が、余計に空気を重くする。

 イナトは一歩、言葉を強めた。


「本部に来て、セイスの部屋まで行ったら、夜からいないってイオリが言うし……一体、休みもせずにどこ行ってたの?」


 その声には、抑えた苛立ちと心配が滲んでいる。

 返事はない。

 セイスは、口を閉ざしたまま。


「……答えてくれないかな?」


 視線を落とし、イナトは大きく息を吐く。

 そして顔を上げたとき、ようやく、セイスの隣に立つアイカの存在に気づいた。


「あれ、アイカも一緒?まだ集合時間より早いよね」


 ほんの少しだけ、いつもの柔らかさが戻る。

 不思議そうに首を傾げるイナトに、アイカはぴくりと肩を揺らした。


 だが――


「帰ってきたら、外で無くした指輪探してほしいっちゅう依頼受けた。それ終わって、今戻ったとこや」


 セイスが口を開き、ぶっきらぼうに短く返す。


「こいつは途中で会ったから、手伝わしただけや」


 突き放すような言い方だった。

 その空気を少しでも和らげるように、アイカが続ける。


「私は一人で特訓しようと思って早く出ただけだよ。途中でセイスと会って……私が勝手に手伝ったの」


 イナトは二人の言葉を聞き終えると、静かにセイスへ視線を向けた。


「……請書には、そんな依頼一切書かれてなかったけど?」

「忘れとった」


 間髪入れずに返す。あまりにも軽い。

 その一言で、空気がさらに張る。

 イナトの視線が、わずかに鋭くなる。


「セイス。君は今、怪我人でもあるんだよ」


 言葉を選びながらも、その声には芯があった。


「本当はハナネみたいに療養させるべきなのに、セイスが絶対納得しないから、“無理をしない”って条件で隊長も許可したんだ」


 一歩、詰める。


「その約束を守れないなら、隊長に指示をもらって療養に専念してもらう」


 セイスの眉が動く。


「……もうあんな傷、とっくに治っとるわ。周りが勝手に騒いどるだけやろ」


 吐き捨てるように返す。

 だがイナトは引かない。


「そうやって、周りの心配を無視して一人で動くところ。それがセイスの悪い癖だよ」


 静かに、しかしはっきりと告げる。


「少しは、周りが心配してることも分かって」


 一瞬の沈黙。

 セイスは、ぐしゃりと髪をかき上げた。


「チッ……心配なんぞ、されんでもええわ。余計なお世話や」

「余計なお世話って。あのさ——」


 二人の言葉が、さらに熱を帯びかけた、そのときだった。


 ガラリ――


 背後の引き戸が、遠慮のない音を立てて開く。

 アイカが、音に弾かれるように振り返る。

 つられて、イナトとセイスも言い合いを止め、視線を向けた。

 そこに立っていたのはユサだった。眉間に皺を寄せ、三人を見据えている。

 先ほどまで熱を帯びていた空気が、すっと一段冷えた。


「そこまでにしろ。二人とも」


 低く、短い声。


「言い合いが過ぎる」


 言葉は少ないが、その一言で空気ごと押さえつけられるようだった。


 イナトとセイスは、ほぼ同時に背筋を伸ばした。


 ユサはゆっくりと視線を流す。

 まず、顔を歪めたままのセイスへ。

 次に、まだ感情の残るイナトへ。


「イナト。お前がセイスを心配する気持ちは分かる」


 一度、間を置く。


「だが、肩入れしすぎだ。少し落ち着け」

「……はい。申し訳ありません」


 イナトは小さく息を呑み、すぐに頭を下げた。


 その動きに、わずかな迷いが混じた。心配が過ぎていたことを、自分でも分かっていたのかもしれない。

 視線を落とす。

 ユサは頷きもせず、次にセイスを見る。


「セイス」

「……」


 セイスの下瞼が、かすかに引きつる。


「お前には療養を優先するよう、俺からも言ったはずだ」


 一歩、言葉を強める。


「それが守れないなら、癒庵に送り込むぞ」


 静かだが、有無を言わせない声音だった。

 セイスは視線を逸らす。

 舌打ちを飲み込むみたいに、口元が歪む。


「……以後、気いつけます」


 返事はした。

 だがそこに、反省の色はほとんどない。

 形だけの言葉が、床に転がるみたいに落ちた。


 ユサの一声で、イナトとセイスの言い合いは中断された。


 セイスは集合時間までの間、湯浴みをしに湯処へ向かい、イナトは「少し頭を冷やす」とだけ言い残し、対応の間へと引っ込んだ。


「うわー……」


 二人のやり取りを見ていたアイカは、小さく声を漏らす。

 無理をせず身体を休めてほしいイナトと、自分の傷程度で休む気はないセイス。

 どちらの言い分も分かるからこそ、どちらにも肩入れしきれない。


 胸の中に、収まりの悪いものだけが残る。


 こんなやり取りのあとで、一人特訓に行く気にもなれなかった。

 それに、今から向かっても大して時間は取れない。

 結局アイカは、集合時間まで大部屋で過ごすことにした。







「じゃあ、気をつけてね」


 朝刻の始まり。


 五人は、昨日よりも早く見回りに出ることことになっていた。


 アイカとレイサは、それぞれの組の先輩である、セイスとイオリと共に本部を出る。


 村では、すでに人の気配が動き始めていた。

 主婦たちが朝の支度を始め、仕事へ向かう者たちも家を出ていく。


 その中で、イナトは四人を見送っていた。


 先ほどまでの張り詰めた空気は消え、いつもの柔らかな表情に戻っている。


 だが最後に、セイスの背中へと視線を向けた。

 その視線は、弟を見るような、いや、幼い子どもを見るような優しさを含んでいた。



 セイスの苛立ちはすでに引いていた。


 けれど、一晩中指輪を探していたせいか、どこか足取りが重い。

 瞼は落ちかけ、目の下にはうっすらと影が滲んでいる。


「セイス、大丈夫?」


 東側の見回りを進みながら、アイカはそっと声をかけた。


 あれからどう過ごしていたのかは分からない。

 仮眠を取ったのか、食事をしたのか。

 だが今のセイスは、誰が見ても無理をしている状態だった。

 今にも、糸が切れそうなほど。


 それでも――


「ほっとけっ!」


 返ってきたのは、いつもの荒い言葉。

 しかし、その声は、どこか掠れていた。

 鋭さが少し削れたような、弱さの混じった声だ。


(これ、やばそ……)


 アイカは眉間に皺を寄せる。

 このままでは、本当に倒れるかもしれない。

 そう思い、言葉を重ねた。


「ねえセイス、戻って休みなよ。今日はアオイかイナトに教えてもらうからさ」


 気を遣ったつもりだった。

 だが、今のセイスには、それが逆に刺さる。


「なんなん、お前までっ!」


 足を止める。


「ごちゃごちゃ口出してくんなや!」

「そんなんじゃ——」


 今度はアイカが口を開きかける。

 言い合いの第二幕が、始まりかけた――そのときだった。


「セイス! アイカちゃん! 来てくれ!!」


 鋭い叫びが、空気を裂く。


 振り向けば、昨日仕事を手伝った樵の一人が、血相を変えて駆けてくる。


「子守り屋で火事が起こってるんだ!」


 言いながら、震える指でその方向を指し示す。


「え!?」


 アイカの声が跳ねた、その瞬間。

 視界の端を、何かが横切る。

 セイスの肩だった。

 それはすぐに背中になり、走り出している。


「はやっ……!」


 もう背中が遠い。


(違う、行かないと)


 遅れてアイカも駆け出す。

 だが数歩踏み出したところで、セイスが急に足を止め、振り返った。


「お前らは井戸行け! 水持ってこい!」


 ピシャリと、命令が飛ぶ。


 さっきまでとは別人みたいな声だった。

 アイカは反射的に足を止める。

 隣で走り出そうとしていた樵も、同時に止まった。


 セイスはそれ以上何も言わず、振り返りざまに踵を返すと、アイカたちを置き去りにして、さらに速度を上げて駆けていく。






 セイスが数分も走らないうちに、道の先に異変が見え始める。


 並ぶ作業小屋の向こう。

 その奥に、目印のように煙が立ち上っていた。

 最初は細く、頼りない一本の線だったそれは、見る間に広がり、白く濁っていく。


 やがて、人影が浮かび上がる。

 人影は、いくつも重なり合い、ざわめきが波のように押し寄せてくる。


 水を汲んでは、手桶で火へ叩きつける者。

 子どもを抱え、必死に遠ざける者。

 怒号と叫びが入り混じり、空気はすでに騒然としていた。


 だが、人が多すぎるせいか、肝心の火元が、見えない。

 セイスは速度を緩めることなく、そのまま人混みへと突っ込んでいく。


 荒い足音に気づいた数人が、振り返った。


「おい、守攻機関が来たぞ!」


 声が上がる。


 それを合図にしたみたいに、周囲の視線が一斉にセイスへ集まった。

 人の流れが割れ、道が開く。


「まだ一人、中にいるの!」


 人混みをかき分け、前へ出てきた一人の女が叫んだ。


 腕の中には、子どもを抱えている。

 衣服にも顔にも煤がつき、息も乱れていた。

 首には、子守り屋の者であることを示す名札が揺れている。


 震える声が、焦げた空気に溶ける。

 セイスはその声を拾った。

 だが足は止めない。

 一直線に、火元へと駆け抜ける。

 そして、子守り屋の建物の前に出る。

 人垣が割れ、視界が開けた。


 その瞬間――


 勢いをつけていたセイスの足が、ぴたりと止まる。


 白い煙は、鈍く濁り、内側から噴き上がるのは、橙に染まった光。


 炎。


 揺らめき、うねり、すべてを呑み込もうとするそれは。

 かつて、自分から父と母を奪った日の炎と、同じ色をしていた。

神血(イコル)の英雄伝 第九十五話

お読みいただきありがとうございます。

次回も読んでくださると嬉しいです૮꒰ྀི⁔.⸝⸝⸝⸝.⁔꒱ྀིა

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