記憶の残火
明刻の半ば前ごろ。
朝日がゆっくりと地平を押し上げるように顔を出し、夜の名残をまとっていた空気は、ぬるい息を吹き返すようにじわじわと熱を帯び始めていた。まだ昇りきらぬ陽だというのに、肌にまとわりつく空気は、どこか気だるい。
アイカは一人、守攻機関の本部へと続く道を歩いていた。登り始めた朝日を横目に、その光を振り払うようにして。
集合時刻までは、まだ二時間ほど余裕がある。
だが、昨日訓練でセイスに完膚なきまでに叩きのめされた悔しさが、胸の奥で小さな棘のように引っかかっていた。抜こうとしても抜けないその感覚が、じくじくと存在を主張してくる。
だからこそアイカは、北東の森で一人、特訓をするつもりだった。
(やっぱ、まだ誰もいないな)
視線を巡らせても、人影はどこにもない。村はまだ眠りの中に沈んでいるようで、静けさがやけに広く感じられた。
(まぁ、トワたちも寝てたし)
家を出るときも、トワやチタは夢の底へ沈んだままだった。イロハやイヅキも同じように、朝に抗うことなく眠り続けていた。
ふと脳裏をよぎる。
家の中に、タイガの姿だけがなかった。
きっともう役場へ向かったのだろう。昨日も、帰ってきた頃にはすで深刻をまわっていた。そして今日もまた、夜の名残が消えきらぬうちに家を出ている。
村長という立場は、陽が昇るよりも早く始まり、陽が沈んでも終わらないものなのかもしれない。
「やっぱ村長って大変だよなぁ……」
感心と、ほんの少しの心配が混ざった声が、静かな空気に溶けていく。
そんなふうに歩いていたときだった。
中央広場を通り過ぎたあたりで、ふと視界の先に違和感が生まれる。
見慣れたはずの景色の中に、ひとつだけ異物のように人影が浮かぶ。
長身で、無造作に伸びた髪が顔を隠している。一見細身だが、その輪郭には無駄のない筋肉が潜んでいた。守攻機関の制服をまとい、膝を折って地面を探っている。
雑草をかき分け、長椅子の下、柵の隙間、まるで何かを追い詰めるように、手探りで探している。
ふと、動いた拍子に襟元の紀章が光を受けた。
深い黒紫が、朝の光に触れて、かすかに息をした。
「セイ……ス……?」
思わず、名前がこぼれる。
髪と体格だけで、もうそれと分かってしまう。
だが、他の隊員の姿はない。こんな時間に、なぜ一人で。
何かを探している。
そう考えた瞬間、アイカの足は自然と速くなっていた。
「セイスーー」
声が、静寂を切り裂く。
まだ幼さの残る高い声は、けれど確かな意志を宿して、まっすぐに届いた。
地面を踏む足音に気づいたセイスは、ゆっくりと視線を上げる。
そして、近づいてくるアイカの姿を捉えた瞬間、わずかに顔を歪めた。
「お前か……」
低く落とされた声は、朝の空気よりも冷たい。
それだけ言うと、興味を失ったように再び視線を地面へ落とした。
アイカはその隣に立ち、顔を覗き込む。
「何してんの?」
問いかけは素直だった。
セイスは手を止めず、吐き捨てるように言う。
「お前に関係あらへんやろ。てかこんな朝っぱらから何うろついてんねん。集合時間ちゃうやろ。頭おかしなったんか」
「私は一人で特訓しようと思って早く起きただけ。おかしくなってないから」
棘には棘で返すように、アイカは不機嫌そうに言い返す。
セイスは短く「はっ」と鼻で笑うと、それ以上は何も言わず、雑草をかき分ける。
(そっちは話さないのかよ)
胸の内で小さく毒づく。
だが、その動きはあまりにも真剣で、どこか焦りすら滲んでいるようにも見えた。
一人で森へ向かう気は、いつの間にか薄れていた。
代わりに、アイカはその場にしゃがみ込む。
そして、同じように雑草へと手を伸ばした。
緑の隙間をかき分け、土の匂いを掘り返すように。
その行動に、セイスの眉間が深く寄る。
「おい、なんの真似や」
「見て分かんない?探してんじゃん」
手を止めずに答える。
「セイス、何か探してるんでしょ。手伝うって」
その言葉に、セイスはわずかに鼻で笑った。
「なんも聞かずに、何探してるか当てられんのか」
「いや、言ってくれないのに分かるわけないじゃん」
即答だった。
「だから今はテキトーに探してる。セイスが言ってくれたら、もっと早く終わるかもよ」
土を払う指先は止まらない。
その軽さとは裏腹に、そこに居座る意思はやけに重かった。
セイスは一瞬、黙り込む。
本当は追い払いたい。
だが、目の前の少女は、見つかるまでここを動かない。そんな確信めいたものが、空気に滲んでいた。
観念したように、セイスは目を閉じる。
そして、大きく息を吐いた。
「……指輪や」
その一言は、土の中に落ちる小石のように、静かに重く響いた。
「指輪……?」
吐き捨てるように落とされた一言に、アイカの手がぴたりと止まる。まるで時間だけが一瞬、足を取られたみたいに。
「え、セイスって指輪とかつけんだ」
思ったままを口にした、その瞬間――
「俺なわけあるか!依頼に決まっとるやろが!」
怒鳴り声が、至近距離で弾けた。
乾いた音みたいに耳にぶつかって、頭の奥までビリっと響く。
「っ……!」
思わず、アイカは半歩だけ距離を引いた。反射的に瞼を閉じる。
(ちかすぎ……)
心の中で吐き捨てる。
けれどセイスはそんなことお構いなしに、すぐに視線を手元へ戻していた。
「幽刻に、夫からもろた指輪を落としたんやと。ばばあから捜索依頼が来とる」
「あー……依頼か」
腑に落ちたように、アイカは小さく頷く。
「他のあては全部潰した。あとはここだけや」
「え、まさか……ずっと探してたの!?」
驚きが、そのまま声に弾けた。
セイスは手を止めないまま、面倒くさそうに返す。
「ああ?なんか文句でもあんのか」
「文句はないけど……日が出てから探した方がよくない?昨日だってずっと訓練してたし、疲れてないの?」
イナトとの約束もある。
けれどそれだけじゃない。アイカ自身、少なからずセイスの身体を気にしていた。
一晩中、無理に探し続ける必要なんてないはずだ。
少しでも休んでほしい。そんな思いが、言葉の端に滲む。
陽が昇れば、光が地面をさらう。見落としていたものだって、きっと拾い上げられる。
そんな当たり前の理屈を、遠回しに含めたつもりだった。
だが――
セイスの手がふっと止まり、空気が糸を張ったみたいに張り詰めた。
「……お前、大事な奴からもろたもん無くして、平気でおれるか?」
低く落ちた声は、土の奥に沈むみたいに重い。
「……いや、見つかるまで不安になるかも」
アイカは少しだけ視線を落としながら答えた。
胸の奥に、見えない何かを当てられたような感覚が残る。
「なら、その指輪無くしたやつも同じやろ」
短く、言い切る。
それだけで十分だと言うように。
「あ……そっか」
ぽつりと、理解が落ちた。
水面に小石を落としたみたいに、遅れてじわりと広がる。
けれど、その波紋はすぐに言葉にはならず、ただ気まずさだけが足元に残った。
アイカは視線を落とし、再び指輪を探し始める。
土を払う指先が、どこかぎこちない。
その沈黙を振り払うように、ふと昨日から引っかかっていたことを口にした。
「そういえば、セイスはなんで守攻機関に志願したの?」
だがセイスは、気のない調子で返した。
「んなこと聞いて、なんの得があんねん」
「別に得とかじゃないよ。ただ私が気になっただけ」
雑草をかき分けながら、続ける。
「セイスって態度とか悪いのに、なんで守攻機関に入ったんだろうって」
「はっ、言うやんか」
セイスは、低く言い捨てた。
「お前も大概やろ」
「それはそうだけど……まぁ、別に嫌ならいいや」
これ以上踏み込んでも、答えてはくれない気がした。アイカは、そっと引いた。
けれど――
「別にお前に話したところで、なんも変わらんわ」
間を置かず、手を休めることもなくセイスは言った。
「ただ古臭い約束、果たしただけや」
乾いた声だった。
セイスの視線は、ふっと足元へ落ちる。
けれどそれは地面を見ているというより、もっと遠く、ここじゃないどこかを見ているようだった。
その横顔に、ほんのわずかに滲む影。
それが何なのか、言葉にはならないまま、アイカは、そっと口を開いた。
「誰と約束したの?」
気づけば、一歩だけ踏み込んでいた。
だが、空気ごと切り捨てるかのように、セイスは意識を引き戻す。
「そんなんどうでもええやろ。さっさと手ぇ動かせ」
吐き捨てると同時に、雑草を乱暴にかき分ける。
「……はーい」
気の抜けた返事。
それ以上は、もう踏み込まない。
アイカは視線を落とし、指輪探しに戻る。
けれど、アイカが目を逸らしたそのあとで、雑草をかき分けるセイスの手は、当たり散らすように荒くなっていた。
◇
そして、指輪を探し続けること、四十分ほどが過ぎた。
「あ、これじゃない?」
不意に、アイカの声が弾む。
指輪は、二人が探していた場所から数歩離れた、伝達板のそばに落ちていた。
ちょうど差し込んできた朝の光が、そこだけを掬い上げるみたいに照らしている。
その中で、小さな金属が静かに光っていた。
アイカはそれを拾い上げると、陽にかざす。
指輪には控えめな模様が刻まれていた。
ところどころに年季は見えるが、それでもなお、大切に扱われてきたことが、指先越しに伝わってくる。
「見つかったー」
ぽつりと息を抜く。
思った以上に時間がかかり、ずっと中腰だったせいか、首の奥がじんわりと重い。
アイカは軽く首に手を当てながら、隣のセイスへ指輪を差し出した。
「これ、どうすればいい?」
セイスは視線だけを落とし、ぶっきらぼうに答える。
「ばばあの家に届ける。もうこの時間なら起きとるやろ」
「分かった!」
返事は素直だった。
その横で、セイスは大きくあくびをひとつこぼす。
今になって、眠気が追いついてきたらしい。
それから二人は、南側にある老婆の家へ向かった。
指輪を差し出すと、老婆は目を見開き、やがて、ぽろぽろと涙をこぼした。
それは亡くなった夫から、求婚のときにもらったものだった。
セイスが一晩中探してくれていたと知ると、何度も、何度も頭を下げて礼を言った。
そのお礼として、朝膳をとっていなかった二人に、ささやかな菓子が手渡される。
鍔のような形をしたそれは、布に包まれ、二つずつ渡された。
二人は本部へ向かう道すがら、それを口にする。
「甘くない」
アイカがぽつりとこぼす。
中には小豆と餡が入っているが、子どもが喜ぶような甘さではない。
どちらかというと、ほんのり塩味が効いた、落ち着いた味だった。
けれど、一仕事終えた身体には、それが妙にしっくりきた。
朝刻の半ばを過ぎたナサ村は、ゆっくりと目を覚まし始めていた。
朝の散歩をする老人たち。
川へ向かう漁師たち。
静かだった村に、人の気配が少しずつ戻ってくる。
そんな中で、二人は黙々と菓子を食べながら、本部へと向かった。
◇
そこで待っていたのは、いつもの穏やかさを失ったイナトの姿だった。
引き戸を開けると、廊下の奥。
踏み場の前に、腕を組んで立っている。
その瞳には、小さな怒りと、拭いきれない心配が滲んでいた。
セイスの姿を捉えると、わずかに眉を寄せる。
「セイス、おかえり。今まで何してたの?」
声は静かだが、柔らかさはなく、いつもの笑みも消えている。
その視線は、隣にいるアイカには一切向けられず、ただまっすぐセイスだけを射抜いていた。
いつもと違うイナトの気配に、セイスは気づいていた。
だが、顔をしかめると視線を逸らし、何も言わない。その沈黙が、余計に空気を重くする。
イナトは一歩、言葉を強めた。
「本部に来て、セイスの部屋まで行ったら、夜からいないってイオリが言うし……一体、休みもせずにどこ行ってたの?」
その声には、抑えた苛立ちと心配が滲んでいる。
返事はない。
セイスは、口を閉ざしたまま。
「……答えてくれないかな?」
視線を落とし、イナトは大きく息を吐く。
そして顔を上げたとき、ようやく、セイスの隣に立つアイカの存在に気づいた。
「あれ、アイカも一緒?まだ集合時間より早いよね」
ほんの少しだけ、いつもの柔らかさが戻る。
不思議そうに首を傾げるイナトに、アイカはぴくりと肩を揺らした。
だが――
「帰ってきたら、外で無くした指輪探してほしいっちゅう依頼受けた。それ終わって、今戻ったとこや」
セイスが口を開き、ぶっきらぼうに短く返す。
「こいつは途中で会ったから、手伝わしただけや」
突き放すような言い方だった。
その空気を少しでも和らげるように、アイカが続ける。
「私は一人で特訓しようと思って早く出ただけだよ。途中でセイスと会って……私が勝手に手伝ったの」
イナトは二人の言葉を聞き終えると、静かにセイスへ視線を向けた。
「……請書には、そんな依頼一切書かれてなかったけど?」
「忘れとった」
間髪入れずに返す。あまりにも軽い。
その一言で、空気がさらに張る。
イナトの視線が、わずかに鋭くなる。
「セイス。君は今、怪我人でもあるんだよ」
言葉を選びながらも、その声には芯があった。
「本当はハナネみたいに療養させるべきなのに、セイスが絶対納得しないから、“無理をしない”って条件で隊長も許可したんだ」
一歩、詰める。
「その約束を守れないなら、隊長に指示をもらって療養に専念してもらう」
セイスの眉が動く。
「……もうあんな傷、とっくに治っとるわ。周りが勝手に騒いどるだけやろ」
吐き捨てるように返す。
だがイナトは引かない。
「そうやって、周りの心配を無視して一人で動くところ。それがセイスの悪い癖だよ」
静かに、しかしはっきりと告げる。
「少しは、周りが心配してることも分かって」
一瞬の沈黙。
セイスは、ぐしゃりと髪をかき上げた。
「チッ……心配なんぞ、されんでもええわ。余計なお世話や」
「余計なお世話って。あのさ——」
二人の言葉が、さらに熱を帯びかけた、そのときだった。
ガラリ――
背後の引き戸が、遠慮のない音を立てて開く。
アイカが、音に弾かれるように振り返る。
つられて、イナトとセイスも言い合いを止め、視線を向けた。
そこに立っていたのはユサだった。眉間に皺を寄せ、三人を見据えている。
先ほどまで熱を帯びていた空気が、すっと一段冷えた。
「そこまでにしろ。二人とも」
低く、短い声。
「言い合いが過ぎる」
言葉は少ないが、その一言で空気ごと押さえつけられるようだった。
イナトとセイスは、ほぼ同時に背筋を伸ばした。
ユサはゆっくりと視線を流す。
まず、顔を歪めたままのセイスへ。
次に、まだ感情の残るイナトへ。
「イナト。お前がセイスを心配する気持ちは分かる」
一度、間を置く。
「だが、肩入れしすぎだ。少し落ち着け」
「……はい。申し訳ありません」
イナトは小さく息を呑み、すぐに頭を下げた。
その動きに、わずかな迷いが混じた。心配が過ぎていたことを、自分でも分かっていたのかもしれない。
視線を落とす。
ユサは頷きもせず、次にセイスを見る。
「セイス」
「……」
セイスの下瞼が、かすかに引きつる。
「お前には療養を優先するよう、俺からも言ったはずだ」
一歩、言葉を強める。
「それが守れないなら、癒庵に送り込むぞ」
静かだが、有無を言わせない声音だった。
セイスは視線を逸らす。
舌打ちを飲み込むみたいに、口元が歪む。
「……以後、気いつけます」
返事はした。
だがそこに、反省の色はほとんどない。
形だけの言葉が、床に転がるみたいに落ちた。
ユサの一声で、イナトとセイスの言い合いは中断された。
セイスは集合時間までの間、湯浴みをしに湯処へ向かい、イナトは「少し頭を冷やす」とだけ言い残し、対応の間へと引っ込んだ。
「うわー……」
二人のやり取りを見ていたアイカは、小さく声を漏らす。
無理をせず身体を休めてほしいイナトと、自分の傷程度で休む気はないセイス。
どちらの言い分も分かるからこそ、どちらにも肩入れしきれない。
胸の中に、収まりの悪いものだけが残る。
こんなやり取りのあとで、一人特訓に行く気にもなれなかった。
それに、今から向かっても大して時間は取れない。
結局アイカは、集合時間まで大部屋で過ごすことにした。
◇
「じゃあ、気をつけてね」
朝刻の始まり。
五人は、昨日よりも早く見回りに出ることことになっていた。
アイカとレイサは、それぞれの組の先輩である、セイスとイオリと共に本部を出る。
村では、すでに人の気配が動き始めていた。
主婦たちが朝の支度を始め、仕事へ向かう者たちも家を出ていく。
その中で、イナトは四人を見送っていた。
先ほどまでの張り詰めた空気は消え、いつもの柔らかな表情に戻っている。
だが最後に、セイスの背中へと視線を向けた。
その視線は、弟を見るような、いや、幼い子どもを見るような優しさを含んでいた。
セイスの苛立ちはすでに引いていた。
けれど、一晩中指輪を探していたせいか、どこか足取りが重い。
瞼は落ちかけ、目の下にはうっすらと影が滲んでいる。
「セイス、大丈夫?」
東側の見回りを進みながら、アイカはそっと声をかけた。
あれからどう過ごしていたのかは分からない。
仮眠を取ったのか、食事をしたのか。
だが今のセイスは、誰が見ても無理をしている状態だった。
今にも、糸が切れそうなほど。
それでも――
「ほっとけっ!」
返ってきたのは、いつもの荒い言葉。
しかし、その声は、どこか掠れていた。
鋭さが少し削れたような、弱さの混じった声だ。
(これ、やばそ……)
アイカは眉間に皺を寄せる。
このままでは、本当に倒れるかもしれない。
そう思い、言葉を重ねた。
「ねえセイス、戻って休みなよ。今日はアオイかイナトに教えてもらうからさ」
気を遣ったつもりだった。
だが、今のセイスには、それが逆に刺さる。
「なんなん、お前までっ!」
足を止める。
「ごちゃごちゃ口出してくんなや!」
「そんなんじゃ——」
今度はアイカが口を開きかける。
言い合いの第二幕が、始まりかけた――そのときだった。
「セイス! アイカちゃん! 来てくれ!!」
鋭い叫びが、空気を裂く。
振り向けば、昨日仕事を手伝った樵の一人が、血相を変えて駆けてくる。
「子守り屋で火事が起こってるんだ!」
言いながら、震える指でその方向を指し示す。
「え!?」
アイカの声が跳ねた、その瞬間。
視界の端を、何かが横切る。
セイスの肩だった。
それはすぐに背中になり、走り出している。
「はやっ……!」
もう背中が遠い。
(違う、行かないと)
遅れてアイカも駆け出す。
だが数歩踏み出したところで、セイスが急に足を止め、振り返った。
「お前らは井戸行け! 水持ってこい!」
ピシャリと、命令が飛ぶ。
さっきまでとは別人みたいな声だった。
アイカは反射的に足を止める。
隣で走り出そうとしていた樵も、同時に止まった。
セイスはそれ以上何も言わず、振り返りざまに踵を返すと、アイカたちを置き去りにして、さらに速度を上げて駆けていく。
◇
セイスが数分も走らないうちに、道の先に異変が見え始める。
並ぶ作業小屋の向こう。
その奥に、目印のように煙が立ち上っていた。
最初は細く、頼りない一本の線だったそれは、見る間に広がり、白く濁っていく。
やがて、人影が浮かび上がる。
人影は、いくつも重なり合い、ざわめきが波のように押し寄せてくる。
水を汲んでは、手桶で火へ叩きつける者。
子どもを抱え、必死に遠ざける者。
怒号と叫びが入り混じり、空気はすでに騒然としていた。
だが、人が多すぎるせいか、肝心の火元が、見えない。
セイスは速度を緩めることなく、そのまま人混みへと突っ込んでいく。
荒い足音に気づいた数人が、振り返った。
「おい、守攻機関が来たぞ!」
声が上がる。
それを合図にしたみたいに、周囲の視線が一斉にセイスへ集まった。
人の流れが割れ、道が開く。
「まだ一人、中にいるの!」
人混みをかき分け、前へ出てきた一人の女が叫んだ。
腕の中には、子どもを抱えている。
衣服にも顔にも煤がつき、息も乱れていた。
首には、子守り屋の者であることを示す名札が揺れている。
震える声が、焦げた空気に溶ける。
セイスはその声を拾った。
だが足は止めない。
一直線に、火元へと駆け抜ける。
そして、子守り屋の建物の前に出る。
人垣が割れ、視界が開けた。
その瞬間――
勢いをつけていたセイスの足が、ぴたりと止まる。
白い煙は、鈍く濁り、内側から噴き上がるのは、橙に染まった光。
炎。
揺らめき、うねり、すべてを呑み込もうとするそれは。
かつて、自分から父と母を奪った日の炎と、同じ色をしていた。
神血の英雄伝 第九十五話
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次回も読んでくださると嬉しいです૮꒰ྀི⁔.⸝⸝⸝⸝.⁔꒱ྀིა




