2話 くろやぎさんから
パティスリーの南東に位置するプラリネ国には一通の便りが届いていた。
手に取った文面を読み終えた後、プラリネ国の王は深い深いため息をつく。
苦渋に満ちた表情は、目の前に膝を着く愛おしい娘に向けられた。
なぜ呼ばれたのかをいまだ知りえない姫はくるくると表情を変え、王と目が合うとほほ笑む。
「お父さま。わたしに何のご用件でしょうか?」
明るく尋ねる声は、まだ一点の曇りを知らない澄んだものだ。
悔しい悔しいと心の中で唱えながら、王は口を開いた。
「シャルロット、パティスリーのことは知っているだろう」
「お隣さんよね?」
それくらい知っているわ、とシャルロットは頬を膨らませる。
馬鹿にされたとでも思っているのだろうか、彼女の様子に王は顔を綻ばせた。
可愛い娘だ。
一番最後に生まれた姫なだけあって、それはもう可愛がって育てていたのである。
先に生まれた三人の姫たちは美しく着飾りそれぞれ王子、貴族のもとへ嫁いで行ってしまった。
寂しさを埋めてくれたのはこの四番目の姫、シャルロットの可愛らしさだ。
手が掛かっていただけに、寂しさもいくらか和らいでいたのだ。
小さい頃から甘やかしていたためか、少々お転婆すぎることもあり怪我が絶えないこともあるが最近はやっと落ち着いたようだ。
「それを……!!くそ、欲張りなパティスリーの悪魔め!なぜこうも我が国を狙うのだ!!」
地団太を踏みつつ怒りを露わに声を上げる王は、我を忘れかけているようだ。
傍にいた兵士が宥めるも、落ち着くことはない。
「お父さまってばまたその話?」
溜息を吐き、また始まったと言わんばかりにシャルロットは首を竦める。
パティスリーとは昔から仲が悪いのだと昔から聞いている。
シャルロットにしてみれば寝る前のおとぎ話のようであり、耳が腐り落ちてしまうかと思う程度には聞いている。
物心ついた時から「あの国は危険だぞ」と、いまだに踏み込んだことのない隣国はまるで地獄のような言われようだ。
人食いがいるとか野蛮な獣がうろついているとか悪さをすれば公開火炙りの刑で、国はその血を不老不死の薬として飲んで生きているのだとか、さすがのシャルロットもそれは嘘だとわかってはいるがなんとなく恐怖を覚えるイメージが出来上がってしまっている。
だがそれと同時に、王がそこまで言うのだからあの大国には何か物凄いものがあるのだろうと密かに気にはなっていた。
「それより、わたしにご用なのでしょう?お隣さんがなにか関係あるの?」
尋ねられて我に返った王は言葉に詰まる。
じいっと見つめてくる瞳に良心がじわじわと痛むのを感じた。
無垢な瞳はこれから起こること、利用されることなど微塵も思いつかないだろう。
しかし可愛い可愛い娘に酷い一言を放てと、あの国の悪魔は言っているのだ。
いや悪魔などと可愛らしいものではない。もはや魔王だ。
手に握ったパティスリーからの手紙がぐしゃりと音を立てて潰れる。
国を取るか娘を取るか。
大袈裟なのではない、事実手紙がそう告げているのだ。
どう切り出そうかと考えていたがシャルロットが痺れを切らしたように声をかけてくる。
「お父さま、それはわたしに関係のある手紙?」
目線を王の手元に向け、シャルロットは首を傾げる。
「中身はなに?」
「……そのことで、おまえに用があるのだ」
チャンスなのだろうか、タイミングをくれた娘に感謝しつつ、動き辛さを主張する唇を叱咤する。
声を震わせないように慎重に言葉を選ぶ。
「あの国の、第一王子のことは知っているか」
「いいえ。でも、城の者が物語の中の王子様のようだと噂をしていましたわっ」
こっくりと頷いたシャルロットは胸の前で手を組み、夢を見るような仕草をする。
鬼の住むような国でよく目立つ、美しい物語で見るような王子様がいるらしい。
物語の王子様とは金色の髪に青い瞳、白い馬がよく似合うと聞いている。
シャルロットの両親は茶色い髪色で灰青の瞳をを持っており、シャルロット自身も赤茶けた髪色に青い瞳をしている。
知っている者たちの中にも、目を見張るような金色の髪や青い瞳はいないのだ。
「一度見てみたいわ!どんなに素敵なのでしょう!」
「素敵なわけあるか、変人だ!あの国の者は皆!!そんな噂を信じるんじゃない!!」
声高らかに夢見るような瞳をしたシャルロットに王は慌てて言葉を返す。
怒鳴り声半分と言った声音にシャルロットは首を竦めた。
「お父さまったら夢がないわ。つまらないの」
「…とにかく」
シャルロットの非難の声に、王はごほんと一つ咳払いをする。
取り繕うように真剣な仮面を被り直すが、それがいかにも作っていますと言うようでシャルロットは微笑む。
それを気にしないようにして、王は言葉を紡いだ。
「シャルロット、聞きなさい。パティスリーの第一王子が伴侶を探しておる」
「まあ」
「そして我がプラリネ国の姫に、白羽の矢が立ったのだ」
「そうなの?」
首を傾げるシャルロットの目をなるべく見ないようにして、言葉を続けた。
「我が国の姫は皆、貰い手がある。残っている姫はお前一人なのだ、わかるな?」
「わたしが行くの?」
パティスリーに?という言葉に、こくりと頷いた王はそのまま顔を上げることができなかった。
手紙の最後に綴られた言葉に「そちらが姫を差し出さなかった場合、宣戦布告と見なし総攻撃するからね!」とあった。
やたらと明るく綴られた文字に冗談かと思わせるような内容だが、あの国は本気でそういうことをするのだ。
一昔前にプラリネの土地がパティスリーに半分取られた時も、半分しか取れなかったと腹立ちまぎれに城下町を放火して去って行ったと記録に残っている。
めちゃくちゃな国だ。
忌々しさに目頭が熱くなるのを感じながら、王はシャルロットの言葉を待った。
黙ってしまった王にただならぬ空気を感じてシャルロットは息をつめる。
今までパティスリーに興味を示すたびにその興味を切り崩し、他に気を反らせるといったことをしていた王がその国に行けと言っている。
それはつまり、こちらから断れない何かがあるのだろう。
拒否権がないということは、一大事なのだ。
王が今までシャルロットの言葉を断る時は必ず国のためだった。
国の祭事や大事な議会などの際は、いくらシャルロットが可愛いからとはいえ仕事の顔をしていた。
そして今はシャルロットの意見を仰ぐことなどしていない。
それは、きっと国のためだからだ。
一呼吸置いたシャルロットは少しだけ悲しそうな眼をした後、王を見据える。
「わたしが行かないと、大変なの?」
「………ああ」
王は何よりも、上に立つ者として切り捨てなければならないことがある。
いつも駄々をこねていたシャルロットに、母は言い聞かせるように言ったものだ。
王の返事を聞くと同時にシャルロットは立ち上がる。
つられて王が顔を上げると、そこには花が綻ぶような笑顔に満ちた姫の顔があった。
「わかったわ!私、お嫁に行ってくるっ」
小さな姫の旅立ちを、祝福する声は上がらなかった。