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教授の指導が終わったのは、7時だった。
外は既に星が瞬いていた。
今日も教授の指導はみっちりだった。でも、勉強にはなるから文句も言えないけど。
智にCDを借りた後、教授の指導を受けるためにゼミに向かった。涌井君が先に指導を受けていたので、アポイントだけ取って、智にCDを返すことにしたからだ。
あまり遅い時間にCDを智に返すと、送って行きます、と余計な気を遣わせてしまうので、そういう隙間になる時間で明るい時間に、智にはCDを返すようにしている。
とりあえず疲れた。
溜息をつくと、自転車置き場へ向かう。
いつものように自転車を取り出そうとして、人の気配があることに気付く。
自転車置き場は、真っ暗なわけではないけど、人通りも少ないし、薄暗くはある。でも、今日みたいなその場にいないのに、人の気配だけを感じることはない。
妙な気配に、私は眉を寄せて振り向いた。物陰から、ゆらっと人が出てくる。
嫌な予感がする。
男の人、だ。
私がその人の顔を見た瞬間、その人は、着ていたトレンチコートを勢いよく左右に開く。
私は声にならない声を出しながら、何とかその場を走って離れる。
校舎の入り口はすぐだ。倒れ込むように校舎に入る。さっきの場所とは違って、明るい。ざわめきがある。それだけで、ほっとする。
自転車置き場への出入り口に座り込んでいる私を、不思議そうに見て通り過ぎる人はいるけど、自転車置き場へ出る人はいない。
私は息を整えて、これからどうするかを考える。
歩いて帰って、あんな人にもう会わないという保証はない。
誰かが自転車置き場に行ってくれれば、一緒に自転車置き場に行けるのに。たぶん、この時間だと、自転車置き場に行く人はいないだろう。うちの学部は夜間があって、夜間の授業を受けに来た人の授業が今始まろうとしているところだからだ。
一人で行って、またあの人に遭遇したら、しばらく立ち直れそうにないし。
あと一時間半、待つ? ……そんなことするんだったら、早く帰って卒論の直しをしたいかも。
大きく息を吐く。
でも、他に方法はないし。
私は今やっている授業が終わるまで待つことにして、紙ベースで卒論の直しをしていくことにした。
黒いペンしか見当たらなくて黒いペンで直しを入れてたけど、やっぱり見にくくて赤ペンを探すためにカバンをあさる。カバンをあさりながら、智から貰ったCDと借りたCDが目に入る。
智に連絡したら……一瞬過って、首を振る。
こんなところで頼ってちゃいけない。毎回頼まなくちゃいけなくなるし。
でも、もうきっとこんな時間に教授の指導は受けないだろう。
1回だけなら、迷惑も1回だけかけるだけだし、いいかな?
自分に言い訳をしながら、智へ電話を掛けることにした。もし出なかったら、その時はあと1時間ちょっと待つつもりだ。
7コール目で諦めようとしたときに、コールが途切れた。
『もしもし。天音さん、どうしたんですか?』
慌てたような声。でも、知っている声に、ホッと息をつく。
「今、大丈夫?」
『はい』
「お願いがあるんだけど、ちょっと家まで送って行ってもらいたくて。経済学部の校舎まで来てもらえる?」
一瞬、間が空く。
『どうしたんですか? 今日はあの後帰ったんじゃないんですか?』
「いや、教授の指導受けてたら、こんな時間になったんだけど……」
言いづらくて、言葉がしりすぼみになる。
『行きます。待っててください。でも、この時間って校舎に入れるんですか?』
勢いの良い智の返事に、怒られなかったことにちょっと安堵する。
「経済学部は夜間があるから。今の時間も普通に開いてる」
『そうなんですね。じゃあ、行きます』
私がお礼を言う前に電話が切れる。私はようやく、大きく息をつく。
智が来るまでにどれくらいかかるかわからないけど、経済学部の正面玄関に移動しておこう。
立ち上がろうとすると、立ち上がれないことに気づく。
腰が抜けてる。
……智が来るまでに、移動できるかな。
***
『天音さん。経済学部の校舎には来たんですけど、どこにいるんですか?』
智から電話がかかってくる。もう着いちゃったか。
「えっと、正面玄関にいるのかな?」
『たぶん、ですけど。入った正面に、掲示板があって、休講のお知らせとかが貼ってあります』
その掲示板は、正面玄関のに間違いない。
「入って右に曲がって、まっすぐ来てくれる?」
『右、ですか?』
「そう、右。そのまま突き当りまで来てくれればいいから」
『わかりました』
智の電話が切れる。さて、来る間に、立ち上がれるだろうか。
「天音さん、何やってるんですか?」
走って来るとは、予想外だった。
「走るな危険、だよ?」
「いや、気が急いちゃって」
そうなんだ。ありがたいけど。
「走ってきてくれて、ありがとう。でも、走っちゃだめだよ」
「すいません。で、天音さんは、何をやってるんですか?」
体勢が立て直せたら、言わずにおこうと思ったんだけど。変に心配はかけたくなかったし。
でも、言わないわけにはいかないよね。
「腰が抜けちゃって」
「え? 何かあったんですか?」
そうだよね、聞きたくなるよね?
「自転車置き場で、痴漢さんに会いまして。裸を見せられました」
「いつですか?」
「えっと、電話を掛ける、20分ほど前だったかな?」
智の表情が、怒ったような表情になる。……あれ、何か怒るようなポイントあった?
「どうしてすぐ、僕に電話してくれなかったんですか?」
智は正義感が強いんだな。
「自力でどうにかできないか、考えてたから、かな?」
「……もしかして、今までも、この時間に帰ったりしてましたか?」
……智の勘が鋭くて困る。私は、とりあえず嘘をつくことにした。智が心配してくれてるっていうことは分かるけど、怒られたくはない。
「いや。今日だけだよ」
たぶん、大丈夫。ばれない、よね?
「天音さん、嘘ついてるのバレバレですよ」
「どうして、嘘だってわかるの?」
「やっぱり」
どうやらカマを掛けられたらしい。
「2回くらい、だよ?」
恐る恐る、嘘をもう一つ重ねてみる。
「今までも何回か、この時間に帰ってたんですね」
強い智の言葉に、正直に頷いてしまう。ああ、嘘つけない。
智は返事の代わりに、大きなため息をついて、私の腰を支えて立ち上がらせてくれる。
「ありがとう」
異性と体を密着させるのは初めてで、少し恥ずかしい。もう大丈夫だよ、と言いたいところだけど、今の今ではきちんと立ってられないだろう。
「どっか、座るところってありますか?」
「この講義室の向うに、休憩所があるよ」
私は一番手前の講義室の奥を指さす。
「あそこまで歩けそうですか?」
私が首をかしげるのと、智が「わかりました」と言うのは、同時だった。
何が、分かりました、
なの? と思う前に、私はいわゆるお姫様だっこをされていた。
「ちょっと、私重いからやめなよ」
「重くないです。でも、大人しくしてくれないと、落としちゃうかもしれません」
そう言われて、暴れるわけにもいかない。落とされるのは、流石に困る。
「天音さん、ずり落ちそうなので、手を僕の首にかけてください」
「えっと、これで、いい?」
落ちそうなのは困るので、智の言う通りに首に手を回す。
「ええ。それで大丈夫そうです」
思った以上にスタスタと、智は進んでいく。体が密着していて、恥ずかしい。
休憩所に着くと、ベンチに降ろされる。はぁ、良かった。私を座らせると、智は隣に座る。
「ごめんね。重かったでしょ?」
「重くはないですよ。それよりも、僕は聞きたいことがあるんですけど?」
智の声は、間違いなく怒っている。
「はい。何でしょう?」
おずおずと聞き返すと、智が目を細めた。
「僕は、遅くなるようだったら送りますから、って前に言いましたよね?」
「言ってたね?」
「僕にとって遅くなる時間って、確か、暗くなったらって定義だったと思うんですけど?」
「そうだった、かもね」
嘘はついてないけど、肯定もできません。
「天音さんは、何度もこの時間に帰ってたんですよね?」
「……そうだね」
とてもじゃないけど、目は合わせられない。
「僕は、頼りになりませんか?」
急に、智の声が所在なさげになる。
「そんなことないよ! 今日だって、私、最初に智に連絡しようと思ったくらいだし」
別に智を侮ってるとか、そう言うわけではない。声に必死にその気持ちは込めた。智を見ると、それでも、気落ちしているように見える。
「迷惑、掛けちゃいけないな、と思って」
それは、正直な気持ちだ。
「僕は、迷惑だと思ってません。むしろ、天音さんが頼ってくれないことの方が、嫌です」
本当に、智は正義感の塊だな。
「ごめんね。今まで、こういう風に頼るってことがなかったから、迷惑かけるって思う方が強くて」
女子といる時には、どちらかと言えば頼られる方で。頼られることには慣れてるけど、頼るってことは、ほとんどしたことがない。
バイトでも、困った時には社員さんに頼らないといけないから頼るけど、自分でどうにかできることは、自分でどうにかしてきたし。
「天音さんは、頼る人とかって、今までいなかったんですか?」
「両親とか、兄とかかな? 同性の友達とか後輩には、頼られることはされたけど、頼るってことはほとんどなかったかな」
「それで、頼るってことに抵抗があるんですね?」
智の眉が下がる。
「そうなのかもね。考えたことはなかったけど。」
「僕には頼ってくれていいですから」
年下の相手にそんな風に言われたことが初めてで、つい笑いが漏れる。それに気づいて、智が目を怒らせる。
「天音さん、笑いごとじゃないですよ。現に今日困ったことがあって、僕を頼ることになったでしょう?」
バツが悪くて、笑いをひっこめる。
「そうでした。すいませんでした。助かりました。……これからは頼りにします」
私の最後の言葉に智がほっとする。心配かけちゃったな。
「天音さん、そろそろ立てそうですか?」
智が立ち上がって、私の手を取る。
ゆっくりと立ち上がると、ようやく自力で立てた。
「ありがとう。大丈夫そうだよ」
そう言ったけど、私の手は離されない。何で?
智を見ると、智が頷く。
「天音さん、よろけるといけないんで、手、繋いどきましょう?」
どうやら私の疑問に気づいたらしい。
「大丈夫だよ?」
「今日ほど、天音さんの言葉が信用ならない日はありません」
……言い返せない。
「さ、帰りましょう。もしまだ痴漢がいたとしても、僕がいるから大丈夫です」
「撃退できるの?」
驚いて智を見る。
「いえ。男がいたら出てきませんよ。出てきたらよっぽどの変態です」
なるほど。確かにああいう人は、女性の反応を楽しんでるんだろうし。
「逆に出てきたら、面白いかもね」
「天音さん、面白がるのはいいですけど、侮るのはやめてくださいね。今回は何もなく済みましたけど、襲われることだってあるんですから」
智の厳しい言葉に、気持ちが沈む。
確かに、そう言う可能性もあるんだよね。
「ごめん。智がいてくれるから、安心したって言うのもある」
智が歩きを止めて私を見る。どうしたんだろう?
「だから、僕を頼ってくださいって言ってるんです」
なるほど。これを再確認したかったわけね。
「でも、今後はこの時間にならないようにするし」
「バイト、卒論終わったら復帰する気だったんじゃないんでしたっけ?」
あれは……別でしょ。そう思って智を見ると、目が恐かったので言えなかった。イケメンって、怒るとイケメンが台無しになるわけじゃなくて、恐さが増すんだ。
「勿論、僕だって全部フォローはできないですよ。それに、夜になるまで働くな、なんて、あのバイトしてて言えないです。それでも僕がいる時は頼ってください」
良かった。夜は働かないでって言われたら、約束なんてできないもん。
「わかった。頼ります」
何だか、立場が逆転しちゃったみたい。
***
「ところで、痴漢の顔見たんですか?」
自転車置き場に戻って、私の自転車を取り出そうとしたときに、智が質問してくる。
「……一瞬だけ。でも、特徴とか言われても、全然わからない。それに、思い出したくはない」
私の言葉に、智がはっとする。
「そうですよね。嫌なこと聞いちゃいました。ごめんなさい」
「何で聞いたの?」
「もしかしたら常習犯かもしれないし。被害があったことを学校側に伝えないといけないかなって」
智の言葉に、今度は私がはっとする。
「じゃあ、戻って事務の人には伝えようか?」
取り出した自転車を置くと、智が首を振った。
「天音さん、今日はやめときましょう? ショック受けて、疲れてるんでしょうし。今度来た時でもいいじゃないですか?」
「いいのかな?」
「仕方がないと思います」
「じゃあ、今度来た時に伝える」
私は智の言葉に頷いて、自転車を押しながら、正面玄関に向かう。智の自転車は、急いでいたこともあって、自転車置き場を探すのを諦めて正面玄関の前にあるらしい。
「智は、私が電話した時、どこにいたの?」
ふと、疑問に思って質問する。
「家ですよ?」
「練習中だった? ごめんね。邪魔して」
「だから、そんなこと気にしないでください。今回はむしろ頼ってくれて良かったです」
そう言われても、気にはするよね。
私の間に気付いたのか、智が言葉を続ける。
「だから、僕は、天音さんに頼ってもらって嬉しかったんですから。気にしないでください」
智は……年上の私が頼ってくれたのが、嬉しかったのかな。
正面玄関で智の自転車を探し出すと、私たちは並んでうちに向かう。