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「聞く相手、私で、良かったの?」
そういう世界を知ってる人の方が、良かったのかもしれないな、と思う。
「ええ。坂田さんで正解だったと思ってます」
正解、かな?
「だって、高2の時から、ずっと心にためておいたことでしょ? 私よりもっといいアドバイスくれる人いると思うよ?」
「いえ。今日、坂田さんにこの話ができて良かったです」
確信に満ちたように、上原君は言い切る。
「私、怒ってるだけじゃない」
そう、私は腹が立って、怒ってるだけ。自分で言うのもなんだけど、私は怒りっぽいと言うわけではない。でも、上原君から聞かされた話は、感情的になるには十分な話だった。
「どんなアドバイスされるより、嬉しかったです」
「今から音大目指すとか?」
私の言葉に、上原君は首を横に振る。
「僕は、音楽の先生を目指してみようと思います。バイオリンを続けるための言い訳みたいに教育学部に進学しましたけど、今日、坂田さんの話を聞いて、先生になりたいと思えるようになりました」
私、何か言ったっけ?
「私、そんな先生になりたいと思えるようなこと、言った?」
「僕の先生を反面教師にしろって言われた気はします」
そうだったっけ? 怒ったせいで、記憶が飛んでるかも。
「あ、話に夢中になりすぎたせいで、ご飯進んでないね。食べよっか」
テーブルの上の食べ物は、すっかり冷えてしまった。
「坂田さんって、良いですよね」
「何が?」
「考え方が。僕、坂田さんの考え方、好きです」
うーん。そんなこと言われたの、初めてかも。
「そんなこと言うの、上原君ぐらいだよ」
「それならそれでいいですよ」
上原君が笑う。
私は肩をすくめて、そう言えば、と思い出す。
「CDなんだけど、どうしたらいい? 貸してくれるのは嬉しいしありがたいんだけど、返すタイミングがないかもよ?」
「連絡先交換すれば、良いんじゃないですか?」
「そう言われれば、そうだね。何で今まで、そうしなかったんだろ」
私の言葉に、上原君は微笑むだけだ。
「じゃあ、連絡先交換しましょう?」
上原君がスマホを取り出す。私も慌ててスマホを取り出した。
私の電話帳に、上原君の名前が増えた。
「坂田さんの下の名前、“あまね”って、こんな漢字書くんですね」
上原君の指摘に、私は苦笑する。
「名前負けしてると思うよ」
「どうしてですか? 良い名前じゃないですか」
「そうかな?」
「僕は好きですよ。天音さんって、呼んでもいいですか?」
一瞬だけ考えて、私は頷いた。
「いいよ」
「僕だけ呼ぶのも何なので、天音さんも、僕の下の名前で呼んでください」
私はスマホの画面に視線を走らせる。
「えっと、これトモって読むの?」
「そうです」
「智君……ってなんか言いづらいね」
「そうですか? なら、智だけでいいですよ。僕の方が年下ですし」
「じゃあ、智……って呼ぶね」
呼ぶとき、ちょっと気恥ずかしい気分になった。
慣れれば、大丈夫になるのかな。
***
「こんなに遅くなってすいません」
「いや。別にいいよ。今日は用事があるわけじゃないし」
なんだかんだと話してたら、1時を過ぎたので、流石に解散することにした。
「この公園の横通るのって、怖くないですか?」
ファミレスの横には、木がうっそうと生い茂る大きな公園があって、私の家に向かうには、その横を通ることになる。バイト先から帰るときも、同じ道を通るんだけど。
「そうだね、いつもは道路渡って、向う側通るようにしてる」
「そう言えば、いつもこの公園の手前で渡りますよね? やっぱり、怖いんですか?」
上原君の質問に、少し詰まる。
「この公園で嫌って言うか、変な思い出あって」
「変?」
「ベンチで寝てたら、私の周りを二人の人がグルグル回りだして」
「へ?」
「変でしょう?」
「いや、ベンチで寝てるのもどうかと思いますけど、何だったんですか?」
「結局、一人が去った後に、もう一人の方が声かけてきて」
「はい」
頷く上原君の横顔は曇っている。
「ビデオとられてましたよ、気を付けてくださいって、言われて」
「はぁ?」
「でしょう? 物好きな人がいるもんだな、と思って。まあ、それは気持ち悪かったよね」
撮ってた人をしっかり見たわけでもないから、どこか他人事みたいにはなる。
「違います。天音さん、どうしてそんなに無防備なんですか」
「そうかな。昼間だったし。それまでは良くここの公園にのんびりしに来てたけど、何もなかったよ?」
上原君が大きくため息をついた。ため息つくようなことかな?
「それ、いつの話なんですか?」
「大学の、3年に上がる頃かな」
「もうしないでくださいね」
「流石にしてないよ」
流石に、キモチワルイ、とは思ったし、そのせいで、夜横を通るのが難しくなったし。
「今更ですけど、向うの道にわたります?」
「いいよ。もう公園過ぎるし。今日は智がいたから、大丈夫だし」
智の返事はなかった。聞こえなかった、かな?
「智がいてくれたから、平気だったよ」
「そうですか?」
「うん」
間違いなくて、私は力強く頷く。
「それなら、良かったです」
智が笑った。
「私の方こそ、いつも帰り一緒になると送ってくれてありがとう」
「それは、僕がしたくてやってることですから」
智は、間違いなくいい子だ。
「卒論書き始めると、帰りは遅くなるんですか?」
「さあ、どうだろう? でも、歴代の先輩見てると、遅くまで残ってる人いるよね」
「もうこれから暗くなるのは早くなりますし、遅くなるようだったら、僕送ります」
「いやいやいや。もう4年も通ってる道だから大丈夫だって」
「でも、天音さんの話聞いてたら、心配になります」
「たぶん私は家でやると思うから。指導の時とかで遅くなることはあるかもしれないけど、それも夕方くらいまでのことだし」
たぶん、智が心配するようなことはない。
「でも……」
智が言い終わらないうちに、家に着く。
「大丈夫だから。もし、本当に遅くなる時があったら連絡するから。それでいいでしょ?」
「はい」
智がようやく頷く。
「土日以外は基本バイトしてないんで、いつでも呼んでください」
「わかったよ。じゃあ、智も気を付けて帰ってね。CDは聞き終わったら連絡する」
「はい。じゃあ、今日はありがとうございました」
智が一度進んだ後振り返って、私がまだいるのを見て、手を振ってくれる。
手を振り返しながら、何だか懐かれたもんだな、と思う。
女子の後輩にはよく懐かれるけど、男子の後輩に懐かれるのは初めてだから。……そもそも男子と話さないからか。
でも、遅くなったとしても、智には連絡しないと思う。だって、何もないと思うから。それに、それだけのことで呼び出すって、私にはできそうにない。
***
「トモって呼んでるの?」
貴子が、手に智から借りたCDを持ったまま、珍しいものを見るように、私を見る。
「呼んでるよ。向うには天音さんって呼ばれてるし」
貴子の目が見開く。
「あんたたち、付き合ってるの?」
貴子の言葉に、私は首をひねる。
「何で、下の名前で呼び合ってるだけで、そんな話になるの?」
「だって……。上原君は、いつ来るの?」
「そのうち来るんじゃない? 学食にいるって返事したら、了解って返ってきたから」
智がどうしたって言うんだろう? 私は首を傾げる。
今日は夕方学食に来たら、たまたま貴子に会った。
貴子は文学部で、校舎が同じだから前は時々会うことがあったけど、今は授業もゼミだけで、校舎でもほとんど会わない。
貴子はここで彼氏と待ち合わせをしてると言っていた。彼氏も4年で、確か理学部だったかな。
この学食は構内の真ん中にあって、いろんな学部から来るのに都合がいい。
だから、私もCDの受け渡しに利用していた。
「あ、彼がきた。上原君に話聞くのはまた今度にするわ」
貴子はCDをテーブルに戻すと去って行った。智に何を聞くんだろ。
「坂田さん」
ぼんやりしてると、入れ替わるように、同じゼミの涌井君が話しかけてくる。同じゼミになってからよく話しかけられるけど、苦手意識は消えないままだ。
「どうしたの? 指導終わった?」
一時間ほど前、ゼミの教授に指導してもらってるのを見たばっかりだ。
「指導は終わったよ。直しが多くて、大変」
涌井くんは私の横の席に座る。
「坂田さんはどれくらい進んだの?」
「まだまだかな。教授、用語の使い方に細かいから、私も直しが多い」
自然にため息が出る。今が10月の初めとは言え、これ本当に12月に終われるんだろうか。
「ほんと、あの教授、細かすぎだって。ところで、坂田さんはどうしてここにいるの?」
「人を待ってるところ」
「へぇ」
一応人待ちだと告げたけど、涌井君は席を立ちそうにない。これは一応、涌井君にも話を振らないといけないんだろうな……。
「涌井君は?」
「俺は早いけど、ご飯食べに来た。家で作る気力もないし……」
「天音さん、お待たせしました」
涌井君の話を遮るように、智がやってくる。私は密かに息をついた。
「ううん。そんなに待ってないよ」
私が答えるのと、涌井君が智を見て固まるのは同時だった。イケメンが私に話しかけてきたから?
「天音さん、知り合い?」
固まった涌井君を見て、智が尋ねてくる。
「同じゼミの涌井君」
私の言葉に、ようやく涌井君の動きが戻る。
「じゃあ、俺行くわ。またゼミで」
涌井君はそそくさと席を立つ。隣からいなくなったことにほっとする。
「天音さん、さっきの人も苦手?」
智の指摘に、私はバツが悪い気分で頷く。
「そうだね」
「隣に座ってもいいですか?」
どうして聞くんだろう?
「勿論、どうぞ」
いつも、普通に隣に座ってるのに。
「あ、そうだ。天音さん、あの曲気に入ったって言ってたでしょ。これあげます」
「え?」
智がバッグから取り出したのは、クライスラーのCDだった。『愛の喜び』と言う曲が気に入ったと話したのは、先々週の話だったっけ? 結婚式にバイトで入るとき、時々というかほとんど毎回聞く曲で、好きだな、とは思ってたんだけど、作曲者と曲名を知ったのは、ついこの間だった。
「いいよ。もらういわれがないし」
「今更ですけど、バイオリンを拾ってもらったことと、僕の悩みを聞いてもらったことへのお礼です」
「いいよ、そんなの。そういうつもりでやったわけじゃないし」
「僕の感謝の気持ち、受け取ってもらいたいんですけど」
「でも、いつもCD借りてるのに悪いし」
「でも、天音さん、お礼にってお菓子作ってくれるじゃないですか。だから、その分は気にしないでください。それにこれも、高いものじゃないし」
私は困って、智の顔を見つめる。
「それに、僕これ、2枚持ってることになるんで、必要ないですから。天音さんが要らないって言うんだったら、捨てるしかないです」
「……ありがとう。ありがたく、いただきます」
私が受け取ると、智がニコリと笑った。
バッグにCDを入れて、バッグの中の袋を取り出す。
「これ、借りてたCDと、お菓子。いつもありがとう」
私の趣味は、お菓子作りだ。最近は勉強の気分転換に作ったりする。前はバイト先の女子に配ってたんだけど、今はバイトにも行ってないから、あんまり配る先がなくて、同じアパートの子たちに配るか、自分で消費するのが常だった。CD借りたお礼に、と一度持ってきたら、殊の外、智が喜んでくれたので、それからは毎回お礼に着けることにしている。
いつものように、智は嬉しそうにお菓子を受け取ってくれる。甘いもの好きなんだな。嬉しそうにしてくれるだけで、作り甲斐がある。
「今回のはどうでしたか?」
「ちょっと今までのとは違う感じだったね? 嫌いではないけど、ってところかな」
「ちょっと天音さんの好みじゃなかったですか」
智はお菓子とCDをバッグの中に入れると、また別のCDを取り出す。
「今回のも、ちょっと今までのと違うかもしれません。音楽の授業で聞いたことあるかも、ってところですかね」
「そうなんだね。ありがとう。聞いてみるよ」
私は受け取ったCDをバッグに入れると、立ち上がる。
「じゃあ、出よっか」
智も頷いて立ち上がる。
私たちはCDの受け渡しのためだけにここで会う。だから、話が終われば解散になる。2Fの学食の階段を降りて、入り口までは一緒に歩く。
「じゃあ、また」
「はい。また感想聞かせてください」
まだ5時で、まだ明るさも残ってるから、智は送ります、とは言いださない。私たちは手を振って、それぞれの家の方向へ別れる。
……これは、付き合ってるって言わないと思う。