12
卒業式は、滞りなく行われた。
私は振袖と袴を着て参列した。
自分の着物を着るのとは別に、貴子の振袖を着つけるのも手伝った。だって、そうしないと、朝5時に美容室って言われたと貴子に泣きつかれたから。どうやら、その日は美容室がとても忙しいらしく、朝5時が美容室の仕事始めのようだ。貴子に相談されたのが初めてだったから、2つ返事で請け負った。
他の友達からも打診があったけど、こればっかりは人数ができないので、早い者勝ち、ということにさせてもらった。
髪型は美容室に頼んだ。これは、光のつてで、髪と袴だけやってくれるところに頼んでおいた。
身支度が整って、会場に入って、卒業式。
その後は、一旦学部に戻って卒業証書をもらう。で、その後は着物からドレスに着替えて、謝恩会。それが今日1日の流れだ。
卒業生と在校生が会う時間は、卒業式と、学部に戻るまでの時間が主だ。
私も智とその時間に会う約束をしている。
ただ、会場の体育館がある公園が広いのと、卒業生と在校生が入り混じってるせいで人が多すぎて、なかなか約束の場所にたどり着かない。智からの指定でその場所になったんだけど、時間、大丈夫かな。
そう思った瞬間、電話が鳴る。智だ。
「もしもし。ごめん。人が多すぎて、まだたどり着けないんだけど」
『天音さん、今、どこですか?』
こちらのざわめきとは違って、智のいる場所は比較的静かなようだ。
「えっと、実は、会場から離れられてない。ようやく外に出られたところ」
いつもより、声を張り上げる。
『そうなんですね。今日は着物なんでしたよね?』
「そう。それもあって、身動きがしづらい」
一瞬、間がある。
『天音さん、この後って、どれくらい時間ありますか?』
「学部にはすぐに戻るようには言われたけど、この騒ぎじゃ、まだ時間はあるんじゃないかな」
『それじゃ、あんまり時間は取れないですよね。僕、そっちに行きます。10分ぐらいで行けると思いますから』
あそこからなら、確かに10分かも。でも、この人ごみじゃ、10分じゃ無理かもな。
「わかった。学部に近い公園出口の方に向かってれば、いいかな? 体育館から一番近い出口」
『……それで、お願いします』
「じゃあ、ごめんね。よろしく」
電話を切って、気合を入れる。これ、どれくらいで出口に着くんだろう。結局、ほとんどの学部の人が体育館から一番近い出口に向かって歩くので、牛歩だと思う。
智と会うから、と思って、学部の友達とも離れ離れになってしまったから、一人、頑張って出口に向かうしかない。
「坂田さん、一人?」
私が牛歩の歩みで、気持ちだけ焦らせながら歩いていると、声を掛けられた。
同じゼミの永峰君だ。周りをキョロキョロ見てみるけど、永峰君一人の様だ。永峰君はいつも誰かと一緒にいるイメージがあるので、一人でいるのは珍しいな、と思う。逆に言うと、いつも誰かと居る人だから、ほとんど話すことはなかった。私が話し相手にならなくても大丈夫な人、という位置づけだ。苦手なので話をしないで済むならそれが一番楽。
「今から人と会う約束があるから」
できたら、会話がこれで終わらせられるといいんだけど。周りも同じように出口に向かっている人でひしめいていて、同じ方向に向かう永峰君が、どこかに行くようなことはないだろうな。
「彼氏?」
永峰君の言葉に、考える。これで彼氏って答えたら、永峰君、何も話しかけてこなくなるかな? すぐそばに智がいれば、話を合わせてもらえるだろうけど。私一人だしな。
……この道のりを一緒に歩く限りは、話しかけられるよねぇ。無駄な努力はやめよう。彼氏と仮定して根掘り葉掘り聞かれても、何も答えられないし。
「ううん。バイト先の後輩」
「その割には、考えたね?」
「そうかな?」
どうやったら、永峰君に話しかけられずに済むか考えてたから、と言えれば一番楽なのかもな。でも、そんなことしてたら、私、社会人としてどうなの? って思ったから、あのバイトしたんだよねぇ。でも、あんまり変わってないかも。
「坂田さんとこんな風に話すのって、初めてだね」
「そうだね」
流石に、会話はできる限りしないように避けてましたから、とは言えない。
「坂田さんは女子に囲まれてるイメージだよね。後輩とかにも慕われてるよね」
……永峰君も、女子に囲まれてるイメージだけどね。永峰君と一緒にいるのは大抵女子だ。私からすると、男子とそんなにしゃべれる人たちは、尊敬すら覚える。
「そうかもね」
ああ、早く、出口に着いてほしい。
「坂田さんて、男性、苦手でしょ?」
あ。
「どうして? って顔してるね。見てれば分かるよ」
ほとんど話したこともない人に気付かれてるって、私の社会人スキルってどうなの? 4月から大丈夫かな。
「前はゼミの時、涌井によく話しかけられてたでしょ? その時に見てたから」
ああ、涌井君は、確かによく話しかけて来てたんだよね。いつぐらいからかは忘れたけど、気付いたら話しかけられるの減ってたな。何でだろう?
もう、知られてるなら、取り繕う気もない。永峰君との付き合いは、卒業したら持つこともないだろう。私は、相槌を打つのを辞めた。
それに気づいているのかいないのか、永峰君はまた口を開く。
「涌井が坂田さん彼氏いるとか言ってたけど、本当?」
彼氏? ああ、もしかしたら涌井君、智のこと誤解したんだ。永峰君は、苦手なのにいるはずないでしょってことか。いないですけど。それが何か?
でも、答える気はありません。
「さっきも、会う約束してるの彼氏じゃないって言ってたもんね。じゃあ、彼氏はいないんだ」
永峰君は一人でしゃべっている。聞いてる意味もなさそうだあな。早く、永峰君から離れたい。
私は背伸びをして歩く集団の前の方を見た。出口まで、あと、少しってところかな。
そうだ、今日の天気、崩れるかもって言ってたんだけど、大丈夫かな。私は空を見上げる。今のところ、雲は多めだけど雨雲は見えない。このまま持ってくれるといいんだけどな。
「坂田さん、聞いてる?」
永峰君に肩に手を置かれる。
「離してもらっていい?」
自分でもびっくりするぐらいの冷たい声が出る。
「ごめん、ごめん。男性苦手なのに、触られるとか嫌だよね?」
分かってるなら、しなきゃいいのに。
「でもさ、そんな坂田さんを慣らしていくのも、楽しそうかな、って思うんだよね」
永峰君の日本語が意味不明です。私は返事をする気も起きないので、ただ、列が流れていくのを見つめる。
「試しに、俺と付き合ってみない?」
耳元で、永峰君の声が聞こえる。背筋が冷たくなる。やだやだやだやだ!
出口が近づいて、人と人の間に余裕ができたので、私はできる限り永峰君から離れる。
「ちょっと、坂田さん」
永峰君は、さっき嫌だよね、と言ったばっかりなのに、私が逃げるのを止めるように、私の腕を掴む。その力が強くて、私は振り払えない。
気持ちがどうしようもなくなって、叫びそうになったとき、
「天音さん、大丈夫?」
聞き慣れた声が反対側からして、私の体は、智に抱えられるように支えられた。
それだけで、ひとまず気持ちが落ち着く。
「あんた、誰?」
反対側から聞こえる永峰君の声は、もう聴きたくない。
「天音が嫌がってる。離せ」
聞いたことのない智の言葉の剣幕に驚きつつも、その剣幕で永峰君が手を離してくれたことにほっとする。
「何だよ。彼氏いるんだ。つまんないの」
永峰君の声は、明らかに私への興味を失っていた。
***
私は智に体を支えられたまま、出口の脇にあったベンチに座った。私の顔色がひどく悪かったみたいで、先に座っていた人たちが譲ってくれた。
「天音さん、大丈夫ですか?」
「ごめん、ありがとう。助かった」
「あれ、知ってる人なんですか?」
ああ、永峰君のことか。
「同じゼミの人」
「じゃあ、学部に戻っても、謝恩会でも、会っちゃうんですか?」
……そうなるな。
「友達たちに言っとけば、接触しないようにはできると思うよ。あの人とまともに話したの、今日が初めてだったくらいだし。いつもは女の子の取り巻き連れてる人だから」
あれがまともに話したと言えるのかは疑問だけど。
「何、言われたんですか? 天音さんの反応、いつもの反応と違ってましたけど」
「付き合ってみない、って言われた」
それだけなのに、私の体は、また震えた。
「嫌、だったんですね?」
私はこくりと頷く。
「謝恩会とか、大丈夫ですか?」
智はますます心配になったみたいだ。
「もう、私には興味はなくなったみたいだから、大丈夫だよ」
永峰君の最後の言葉は、本当に興味がなさそうだった。
「心配です」
智は私の顔を覗き込む。
「顔色も悪いし。着いて行けるなら、学部の中も、謝恩会もついていきたいくらいです」
智のあまりの過保護ぶりに、つい笑いが漏れる。
「天音さん、笑いごとじゃないですよ」
「だって。過保護すぎじゃない?」
智は片手で私の体を支えたまま、私の手にためらったように触れる。
「僕が触るの、大丈夫ですか?」
今更?
「今更じゃない?」
「だって、さっき、あんなに嫌がってたから」
「智は大丈夫だって」
私の言葉に、智はため息をつきながら、私の手をぎゅっと握る。
「天音さんに何かあったら、本当に嫌なので。何かあったら、迷わずに電話してください」
「ありがとう。大丈夫だと思うけどね。ところで、智は私に用事があったんじゃなかった?」
わざわざ時間を作るように言われたのは、何のため?
「あ」
智が、足元に置いていた紙袋から、小さな花束を取り出す。
「きれい。ありがとう」
「明日帰っちゃうから、やめとこうかな、って思ったんですけど、やっぱり他に思いつかなくて」
「ううん。ありがとう。明日持って帰る。このサイズなら、荷物にならないし」
中心にある3本のピンクのバラの花はまだ蕾で、持って帰ってから咲きそうだ。
「本当は、大きな花束にしたかったんですけど。このサイズにして正解でしたね」
智がほっとしたように、笑う。
「そうだ。智には悪いんだけど、そろそろ学部に向かわないといけないと思うんだよね」
智が頷く。
「学部まで、送らせてください。友達たちと合流できたら、僕も安心できますし」
「じゃあ、お願いします」
今の私には、それを断る気力もない。
智は先に立ち上がると、私に手を差し出す。私はその手を握って、立ち上がる。
握られた手はそのままで、私たちは歩き出した。
「先に、友達に連絡とるね?」
私は繋がれた手を離して、学部の友達にLINEを送ろうとして、説明を打ち込むのが面倒になって電話をかける。友達に永峰君との経緯を話していると、智の表情が硬くなった。ごめんね、心配かけて。
「じゃあ、学部に着いたら、また連絡するね?」
私が電話を切って、バッグに戻すと、智がまた私の手をつなぐ。
「友達は、何て言ってました?」
「永峰君、あんまりいい噂がないみたいで、がっちりガードするって言ってもらった。私たちの仲のいい子はだれも永峰君と接触がなかったから、今まで問題はなかったんだけどね、って友達は言ってた」
智は安心したのかどうなのか、ため息を一つつく。
「僕が、同じ学部で4年生だったら、良かったのに」
「どうして?」
「……そしたら、学部へも謝恩会へも、一緒に行けるじゃないですか」
「心配し過ぎだって。じゃあ、謝恩会終わったら、LINEするから。それで、いい?」
「それで、お願いします」
ようやく智が頷いてくれた。
「でも、智が教育学部で良かったな、と私は思うよ?」
「どうしてですか?」
「智のおかげで、私は自分の知らない世界を知ることができたから。智が同じ学部で、バイオリンもしてなかったら、クラシックの世界って、きっと知りもしない世界だったと思うよ。だから、智がバイオリンをしていて、教育学部だったのは、私にとっては大事なことだよ」
私の言葉に、智が頷いている。納得できたかな?
「でも、同じ学年だったら、と思います」
こだわるな。
「学部違ったら、謝恩会には出られないでしょ?」
「そうですけど。天音さんと一緒に4年間過ごしてみたかったな、ってことです。」
そんなに、私と過ごすの楽しいのかな。でも。
「学部違ったら、難しいんじゃない?」
「でも、バイト先の人とは仲がいいじゃないですか」
ああ、そう言うことか。
「4年前なら、私、智には声かけてないと思うけどね。4年目に入って、バイトに慣れてたから、智に声かける余裕もあったわけだし」
「あ。そうですよね」
智が、私の言葉に納得する。バイトの新人同士で仲良くなるってことはあるかもしれないけど、私が、男子と仲良くなることはほぼないと思う。……智の存在が無ければ、絶対ないと言い切れるところなんだけど。
「それに、忘れてない? 私たちが仲良くなったきっかけって、智がバイオリンを置き忘れてたからだよね? そうなると、4年前の時点では、智と仲良くなるきっかけって、全くなかったような気がする」
「でも、その2年前に、それが起こってたとしたら……」
智の言葉に、笑ってしまう。智、肝心なこと忘れてる。
「私、東京にいるから、こっちでバイオリンは拾えない」
「あ、そうだ」
ようやくご納得いただけたようだ。
経済学部の校舎の前に、私の友達が数人待っていてくれて、智の姿を見て驚いていた。
イケメンだからかな?
近寄ってきた友達たちに智を紹介すると、誰かが、あ、と声をあげたけど、丁度見てなかったので、誰が声をあげたか分からない。友達たちを見ても、皆何もなかったような顔してるし。
何だろう? でも、その疑問は智が私の友達に話しかけるのに遮られた。
「ごめんね。ありがとう。じゃあね」
私が手を振ると、智がぺこりとお辞儀をして去っていく。私も、友達たちに囲まれるようにして校舎の中へ入った。
その夜、謝恩会が無事に終わってから、智にLINEした。
『無事に終わって良かったです。明日、気を付けて帰ってくださいね』
智の返事に、自然に笑みが浮かぶ。そのままスマホを置くと、私はテーブルのグラスを持った。
これから、友達と飲み明かす予定。