11
智が送り狼になるわけもなく、私は無事に送り届けられた。
2月末に、バイトをやめた。
新しい生活が、少しずつ近づいてきている。
3月2日。
智に誘われた発表会に行く。場所は同じところなので、前回よりは緊張しない。
「天音さん!」
智は入り口で待っている。暇なわけ、ないよね?
今日はなぜか、開演より早い時間を指定されていた。だから、早めに来たんだけど、智は準備の真っ最中じゃないのかな、と思うんだよねぇ。
「お招きありがとうございます、だけど。準備は終わったの?」
「大丈夫です」
なら、いいのかな?
入り口にある受付はまだ準備中だったけど、やっぱり智がパンフレットを受け取って、私に渡してくれる。前回以上に女子の視線が鋭いんですけど。
「天音さん、会場に入る前に、こっちに来てもらっていいですか?」
智に、会場とは違う部屋に案内される。小さな、防音室のようだ。部屋には『練習室』と書いてある。
「大丈夫? 部外者入れても?」
「大丈夫じゃないですか? この時間にこの部屋は借りるように言ってありますし」
良いのかな?
「まあ、座ってください」
智に促されて、部屋に置いてあった椅子に座る。
「天音さんだけに聞いてほしかったので」
智が、バイオリンを準備して、構える。
おお。こんなの、初めて。ワクワクする。
智が奏で始めた旋律は、『愛の喜び』だった。
私は何も考えずに、無心になって智の演奏を聴く。
終わった時には、拍手も忘れて、降ろされる手の先を見ていた。
「どうでしたか?」
智の声に我に返る。
いろんな感情があふれてくる。一つずつ取り出して、智に感想を伝える。
「良かった。すごく心に響くものがあった。智の弾くこの曲、すごく好き」
言い終わると、涙があふれてきた。何で泣いているのかは、自分でもわからない。智が泣く私を見て、ひどく慌てる。
「泣かないで下さい」
智がハンカチを私に貸してくれた後、私をなだめるように、背中をなでてくれる。子どもじゃないんだけどな。
「今の、僕の気持ちを込めて演奏したんです」
背中をなでてくれながら、智がそう話す。感謝の気持ちかな?
「天音さん……」
名前を呼ばれて、顔をあげる、智が言葉を続けようとした時、ドアが勢い良く開く。
「上原君。練習終わったなら、準備に戻ってくれない? 人手が足りてるわけではないんだよ?」
智の同級生なのか、言葉遣いは同年代に対するものだ。どうやら、準備はまだ終わってなかったらしい。
「……わかりました。すぐ行きますから」
指摘されたことがばつが悪いのか、智の声は堅い。私も突然ドアが開いたことにびっくりして、涙は止まっていた。
「ごめん、智。わざわざ時間作ってくれたんだね」
「そうですよ。上原君、準備で忙しいのに、邪魔されてかわいそう」
女の子が私の言葉にかぶせる。
「僕が来てくれるように頼んだので、天音さんが責められる筋合いはありません。それに、この時間は先生にも、先輩にも許可は取ってあります。僕の受持ちの所の準備も終わらせてたはずです。邪魔をしたというのであれば、それはご自分のことですよね?」
その女の子の言葉に、私よりも早く智が反応した。智の言葉が冷たい。こんな声、出すことあるんだ。智が私の表情を見て、あ、と何かに気付いた顔をする。
「行きますから、そこ閉めてくれませんか」
智の声が幾分和らぐ。
「でも……」
「下里さん、あなた、上原君の邪魔する暇あるの? あなたの担当の所、準備が進んでなかったわよ」
部屋に入ってきた下里さんの言葉を止めたのは、4年のバイオリンの人だった。
「立花先輩」
智もほっとしたような声を出す。そうそう、立花さんだ。
下里さんと呼ばれた女の子は、踵を返して去っていく。
「私も邪魔してごめんね。下里さんがこっちに向かったの見えたから、まさかと思って来てみたら、やっぱりね」
立花さんは私を見ながら、肩をすくめる。
何が、やっぱり、なんだろう?
「いえ。先輩。助かりました」
智の声が、いつものような声に戻っている。
「で?」
立花さんは、面白がるような表情で、智と私の顔を見る。
「何ですか?」
私の言葉に、立花さんが、智だけを見る。どうしたんだろう?
「まだ、です」
「え?」
智と立花さんの会話が、良く分からない。
「本当に下里さんタイミングが良いというか悪いと言うか……」
立花さんの言葉に、智がすぐに反応する。
「タイミング最悪です」
何が、最悪なんだろう?
「上原君からすればね。じゃあ、私も行くわ」
部屋から出ようとした立花さんに、智が言葉を続ける。
「でも、もう僕も準備に戻らないといけないとは思うんで」
「いいでしょ。一人ぐらいいなくたって。ばれないばれない」
「先輩。良くそんなこと言いますね。男手がないって前回の演奏会でこき使ったの、先輩じゃないですか」
「……そうだけど」
立花さんが私を見る。
「私は良いんです。むしろ準備の邪魔してるのは本意じゃありませんし」
「上原君も天音さんも、まじめすぎるわね」
立花さんがため息をつく。
「でも、もうちょっとぐらいなら、大丈夫でしょ」
立花さんが続けた言葉に、智が私を見る。
「いや。完全にタイミング外しました。今は無理です」
「何が?」
智の言葉の中身が、全く理解できない。でも、誰も私の疑問には答えをくれない。
何がタイミング外したんでしょうか?
「こだわるわね。そんなこと言ってたら、できなくなるわよ」
立花さんの言葉に、智が詰まる。
「まあ、いいわ。じゃあ、私は行くわね」
「あ、立花先輩!」
部屋を出てドアを閉めかけた立花さんを、智が呼び止める。
「また何かあったらいけないんで、天音さんと一緒にいて貰っていいですか?」
また? 何か? 何かがあるの? またって、何?
「了解。ホールの前にはいるから」
「お願いします」
立花さんが完全にドアを閉めた。
「ねえ、話がさっぱり見えなかったんだけど」
「天音さんは気にしなくても大丈夫な話です」
「えぇ。全部無関係そうには聞こえなかったけど?」
「僕、準備があるので、行きますね」
バイオリンのケースを持って、智がドアを開ける。
「あ、逃げた」
私の言葉に、智が笑う。
「逃げません。後でまた」
うーん。準備があるのは本当だろうし、今回はこれぐらいで許してあげようかな。
「じゃあ、後でね」
私は智が開けてくれたドアから出て、智の後について、ホールへ向かう。
ホールに行くまでの道で前回も感じた鋭い視線は、まだまだ残っている。やっぱり、智は狙われてるんだな。
ホールの前まで行くと、立花さんがいて、私たちに手を振ってくれる。
「じゃあ、天音さん。楽しんでいってくださいね」
智はそう言って、去っていく。
「聞くより見る方が、面白いわね」
立ち去った智の後姿を見ながら、立花さんが呟く。
「何がですか?」
「こっちの話」
立花さんはそれだけ言うと、私をホールの中に促す。さっきはこの校舎の前に来ていた人もほとんどいなかったけど、この時間になると、ホールを半分埋めるくらいには来ている。
「天音さんは、クラシック聞くの?」
席に座って、私がプログラムを開くと、立花さんが聞いてくる。
「私は授業以外で聞いたことなかったです。智……上原君がCD貸してくれてたんで、ちょっとは聞くようになりましたけど」
「ああ、CDね」
立花さんはその話を知ってるのか、納得したように頷く。
「智……上原君は、その話を?」
「天音さんはいつもの呼び方でいいわ。上原君に時々相談されてたから」
智は考えて貸してくれてたんだな。
「それで、上原君のCDを貸した効果のほどはどうだったのかしら? クラシックに興味は持てたの?」
「昔に比べたら、興味はわきましたよ。智のセレクトしてくれた曲、結構好きなのが多くて」
「そうなんだ。好きになった曲とか、あった?」
立花さんの言葉に、すぐには曲の名前が思い出せなくてプログラムを見てみる。
「あ。『愛の喜び』とか好きですよ。智、今日やるんですね」
「さっき、聞いたんでしょ?」
ああ、練習室にいたから知ってるんだな。
「はい」
「どうだった?」
「そうですね。心に響いてくる、っていうか。とってもあたたかな気持ちになると言うか。CDで聞いてたのも好きでしたけど、智の演奏はまた別の……何かがあるって言うか。智の演奏したこの曲は、もっと好きになりました」
私が言い終わるのを、立花さんはぽかん、とみている。
「どうか、しました?」
私の言葉に、立花さんが我に返る。
「いやぁ。上原君、すごいな、と思って」
「何がですか?」
「私たちって、いくら上手に弾いてもね、人の心に響かせることができないと、意味はないと思うのよ。上原君はそれができたんだな、と思って」
ああ、そうなんだ。上手なだけでは、何も響かないのか。
「何だ、心配して損した」
立花さんが、ポツリとつぶやく。
「何か、智、立花さんに心配されるようなことあったんですか?」
「……まあ、入学したころは、この子大丈夫かな、って思うような演奏してたから。この1年で、すごく変わったな、と思う」
そうなんだな。入学したころは、先生の言葉がとげになったままだったから、不安な気持ちが演奏に出てたのかもな。
立花さんと話をしていると、あっという間に開演の時間になった。
***
発表会が進むにつれて、智が最近貸してくれてたCDの意味が理解できた。この発表会で演奏される曲が入ったCDを貸してくれてたんだ。おかげで、聞いてても、つまんないな、と完全には思うことはなかった。好きじゃない感じの曲は、やっぱり好きじゃないんだけど。
曲を聞くにも、予習ってありなんだな。
智、先生に向いてるかもね。クラシックに興味がなかった私に、これだけ演奏を聴かせられるようになったんだから。
智の演奏の順番になる。智が舞台から誰かを探しているのが分かる。どうしたんだろう?
智と目が合うと、智が安心したような顔をする。何だろう?
智がバイオリンを構えて、一呼吸おいて、演奏を開始する。
会場全体が、智の演奏に飲み込まれたみたいだった。それまでの演奏が、お世辞にも完成度が高いとは言い難かったから、上手さが際立っている、というか。
智の演奏は、拍手の勢いが増した気がする。
あと一曲で終わりか。でも、時間が。
演奏の時間が押したみたいで、予定の終了時刻は超えている。まだ楽譜の台を並べたり、楽器を設置したりして、時間もかかりそうだし。
「すいません、立花さん。私、用事があるので、先に帰ります」
「え?」
立花さんが慌てる。
「上原君に何か言われてる?」
「あとで、と言われましたけど、ちょっと今日は難しそうです」
用事が何時に終わるのか、私も良く分からない。
「用事って、どうにもならない?」
「ごめんなさい。ちょっとそれは無理です。約束はこっちが先だったので、その用事も時間ずらしてもらったので」
「そうなのか」
「あの、智に、発表会の演奏も良かったって伝えておいてもらえますか? 電話は後でするつもりですけど」
もう、智にCDは借りてないし、この後の日で会う約束をしている日もない。下手したら、ゴールデンウィークまで会うことはないかもな。
立花さんにお辞儀して、私は席を立つ。
校舎の外に出ると、寒さを急激に感じる。あのホールの中、人がひしめいてたから、暖かかったもんな。
「天音さん!」
私の腕が、掴まれる。
あ、デジャブ。前の発表会の時も、同じようなことあったよね。
「智、ごめんね。この後用事があって」
振り返ると、智の息が切れてる。慌ててきたのが分かる。
「どうして、私が先に帰るの気付いたの?」
もう、智は舞台には立ってなかったのに。
「舞台そでの入り口にある窓から、校舎の玄関が見えるんです」
ああ、それで気付いたんだ。
「あ、舞台に立っての演奏も、すごく良かった。お客さんの反応も良かったよね」
「ありがとうございます」
そう言った後、智が言葉を続ける。
「天音さん、卒業式までの間に、どこか会える日ってありませんか?」
卒業式までに……。
「……それは、結構難しいかも。予定が詰まってて。ほら、私卒業式の次の日には東京帰っちゃうでしょ? だから、色んな人との約束が、その期間に詰まっちゃったんだよね。旅行もあるし」
皆こっちに残るわけじゃないから、いまこっちにいる皆で過ごす時間は残り少ない。
「卒業式の日は?」
「終わったら、謝恩会があるから。その後は、友達の家で騒ぐことになってる」
私の言葉に、智がため息をつく。
「卒業式の日、会場にお祝いに行きます」
「わざわざいいよ」
「いえ。行きます」
これは、ひかないだろうな。ありがたく、気持ちを受け取るか。
「気を遣わせてごめんね。それじゃあ、卒業式の日に」
「はい」
智も、まだ会は終わってないから、慌てて、校舎に戻っていく。
私も、自分の用事を思い出して踵を返す。