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新作長編を描く気持ちはまだ沸き立つことはないのですが、長年書き直したいと思っていたこの作品に手を入れて、公開を始めようと思います。
個人的には男性キャラをようやく愛着持って書けるようになったきっかけの作品なので、楽しんでいただけると幸いです。
「あ! バイオリン!」
焦る叫び声に振り返ると、反対のホームの電車に乗った制服姿の男の子が、閉まったドアを焦ったように叩いていた。
見ると、私が立っているすぐそばのホームのベンチに、たぶんバイオリンが入っているだろうケースが残されている。
私は慌ててケースを持ち上げると、電車に向かって走った。男の子も、私の動向を見守っている。
でも、無常にも、電車は動き出す。男の子は私を見つめている。だから私は必死に電車を追いかけて、そして、ホームから離れてしまった電車に、すぐに諦めた。追いつくわけもないし、そもそも、渡す方法もない。
はずむ息を整えて、電車が去ってしまった方向を見る。
このバイオリン、駅員さんに渡せばいい、かな?
そう思ったとき、思い出す。
これ、夢で見たシーンだ。
……これ、絶対、体験しないだろうと思った夢だったのに。
私は、1年に1回から2回くらいの割合で、予知夢を見る。予知夢と言っても、大抵はどうでもいいこと、なんだけど。
でも、起きる直前に見た夢は、遅かれ早かれ現実になる。この夢は、1年くらい前だったかな。
夢で見たのは、今日と同じで、私がバイオリンを持って、電車を追いかける夢だった。夢ではわかりやすくケースがないバイオリンだったんだけど。
私がバイオリンを習ってるなら、有り得ることかもしれないけど、バイオリンも習っていないし、そもそも、他人のバイオリンを持って電車を追いかける場面、っていうのは現実にはあり得ないと思う。
だから、実現することはないだろうな、と思っていたんだけど。
折角予知夢を見るんだったら、もうちょっと、私の運命を変えそうな内容を見てみたいな、と思うことはある。
何しろ、どうでもいい場面しか再現されないから。
今日はたまたま、ここの近くに用事があって来ただけだったのに。こんなところで、予知夢が実現するとは、ね。
丁度乗る予定だった電車がホームに滑り込んでくる。
この電車に乗らないと、講義に遅刻決定だ。
だけど、このバイオリンを持って行くわけにはいかないだろうし、あの男の子だって取りに戻ってくるだろうし。
まあ、幸い大きい講義室だし、ガミガミ言わない教授だから、遅れて行っても大丈夫だろう。大学に入学したばかりの去年だったらできなかったけど、2年ともなると、変に度胸がついたのかもしれない。
私は苦笑して、駅員さんにバイオリンを渡すべく、改札に向かった。
***
「上原君だったっけ? 今日が初めてでしょう? 大丈夫?」
狭いバックヤードで、男の子の胸に付けたネームプレートを確認しながら、声をかける。
私のバイト先はホテルのバンケットだ。
披露宴とか宴会の会場で、料理を運ぶ係。今は、次の料理を出すべく、バックヤードで待機している状況だ。
大学1年の時から始めてるから、もう4年目に入る。大学生の多いバイトの中では、ベテランになる。だから、新しく入った子には、声をかけるように気を付けている。
「何とか、大丈夫です。みなさんの足を引っ張らないかが、不安なんですけど」
上原君は大学1年だって話だし、まだ5月だから、初めてのバイトが、ここになるのかもしれないと、少し緊張した横顔を見ながら思う。
今日は結婚式ではなくて、立食の宴会だから、仕事の中では楽な方だと私たちは思っているけど、初めての人には、どんな状況でも楽だとは思えないよね。
「もし何かあったら、皆でフォローはするから」
「天音が男の子に話しかけてるって、珍しいね」
後ろから、付き合いが4年目になる貴子が話しかけてくる。私が基本的に話しかけるのは、女の子ばかり。付き合いが長い貴子は、私の行動パターンを良く知っている。
「……うちの兄が、身長私と同じくらいで。だから、親近感がわきやすいのかも」
上原君も私と同じくらいの身長だ。私の身長が高すぎるわけではないとは思うけど、上原君の身長は標準より低めだと思う。兄と同じような目線だから、私でも話しかけやすい、と言うことはあるかもしれない。
「お兄さんの身長同じくらいなんだね。確かに、上原君くらいの身長の男性陣、他にいないもんね」
貴子は納得している。身長が高い男性の同僚たちには、話しかけるのは必要最低限のことだけだ。4年間一緒に働いてる仲間もいるけど、未だに苦手意識が抜けない。
「僕、身長低い方ですからね」
上原君は、そう言いつつも、気にはしてない様子だ。うちの兄は身長が低いことを気にしていて、コンプレックスの塊だったけど。
「料理来たよ」
「はい」
ホテルのスタッフの声で我に返って、仕事に戻る。
***
バイトが終わって、制服を着替えてから外に出ると、自転車置き場で、上原君と遭遇した。
「あ、お疲れ様」
「お疲れ様です」
上原君の表情は疲れ切っている。私も、最初の頃はそうだったな、と懐かしく思う。勿論、全く疲れてないわけじゃないけど、新人だった時よりは、耐性ができたと思う。
「初めてだと色々神経はって疲れるよね。明日もシフト入ってるの?」
明日は大安の日曜日だから、結婚式が多い。
「明日は、一つだけ結婚式に出ることになってます」
「初めてだと、それぐらいがいいかもね」
「えーっと……」
ああ、テンパってて、人の名前覚える余裕はなかったかな。
「坂田です。もう4年目になるから、同じシフトになることがあれば、分からないことあったら、聞いて」
「よろしくおねがいします。」
上原君がぺこりとお辞儀する。
「で、何言いかけたの?」
「あ、坂田さんは明日はシフト入ってるんですか?」
「入ってるよ。8時間。昼から夜までみっちり働きます」
上原君が驚愕の表情になる。私も最初の時は先輩のシフト聞いて驚いたよね。
「大丈夫なんですか?」
「慣れてきたら、大丈夫になるから」
上原君は信じられないと首を振っている。
本当、なんだけどな。
「それじゃ、また明日会ったら、よろしくね」
「はい」
別れの言葉を交わしたけど、自転車に乗って向かう方向は一緒だった。
「こっちなら、大学はH大?」
市内にはほかにも大学あるけど、こっちの方面に住んでるのは、地元の人かH大の人くらいしかいない。
「そうです。坂田さんもなんですか?」
「そうだよ。じゃあ、途中まで一緒に行こっか」
「そうですね」
ペースを合わせて進む。
「学部は?」
共通の話題なんてないから、とりあえず当たり障りのない話題にする。
「教育学部です」
「へえ、先生になるの?」
「先生になりたいって言うより、音楽の専攻したかったんで」
音楽か。全く自分に造詣のない分野だから、新鮮かも。
「何か楽器やってるの?」
「バイオリンです」
バイオリンか。いつかの、バイオリンを持って走った出来事を思い出して、笑いが漏れる。
「どうかしましたか? 僕には似合いそうにありませんか?」
「いや、ごめん。昔、有り得ないことがあってね。それ思い出しちゃって」
「あり得ないこと?」
上原君はすごく不思議そうな声だ。
「駅でホームにバイオリンを置き忘れた人がいてね、それに気づいてバイオリンを持ってホームを走ったことがあって。普通じゃ体験しないでしょ?」
上原君の自転車が止まる。
「どうかした?」
私も自転車を止めて上原君を見る。
「それって、高校生でした?」
「そうだね。たぶん高校生だった。あ、知り合いでそんな話してた人、いた?」
バイオリンやってる世界とかって、狭いのかもね。それに、2年前だったら、上原君も高校生だし、同年代だってこともあって知ってるのかも。
「K駅でした?」
……どうだったかな。一回しか行ったことのない駅だし、2年も前のことだから、良く覚えてない。
「それって、S市にある駅?」
S市に用事があって行った時だったってことは覚えてるんだけど。
「そうです」
上原君が頷く。
「じゃあ、そうかもね。やっぱり、知り合いのことだった?」
「それ、僕です」
「え? そうなの?」
嘘! 確かに男の子だったけど。
上原君が自転車を降りて、ぺこりと頭を下げる。
「あの時はありがとうございました。危うくバイオリンを失うところでした」
「いや、いいよ。頭あげてよ」
上原君が顔をあげる。
「もう、遅い時間だし、帰ろう?」
自転車に乗るように促すと、上原君が自転車に戻って、口を開く。
「坂田さん、まだご飯は食べてないですよね? お礼に何かおごらせてください」
「いや、いいよ」
「でも……」
「バイト代も出てないんだから、軍資金もないでしょう?」
「それは大丈夫です」
バイオリン習ってるくらいだから、良いおうちの子なのかもね。バイトは社会経験のため、かな。
「いいよ。私、そんなの期待してあんなことしたわけじゃないし」
私は自転車を進める。上原君は慌てたようについてきた。
「でも……」
「忘れた本人の手元にバイオリンが戻ったってわかっただけで十分だよ」
実際、あのバイオリンがどうなったのかは、私には知りようがなかったから、それは本当のことだ。
「本当にありがとうございます」
「でも、ホームにバイオリン忘れるなんて、上原君ってうっかりしてるの?」
返事に間がある。事実を認めたくないとか?
「あの時は、ちょっと疲れてて」
「誰だってそう言うことはあるよ。次は忘れないように気を付けてね」
「流石に、気を付けてます」
「それなら安心した。じゃあ、私こっちを右に曲がるから」
交差点で行く方向を伝える。
「あ、僕はまっすぐなんで」
「じゃあ、また。明日同じ式だったらよろしくね」
「はい。よろしくお願いします。坂田さん、気を付けて帰ってください」
聞きなれない言葉に、ああ、一応女の子扱いされてるんだと思う。
「上原君も気を付けて。じゃあね」
私は軽く手を振って右に曲がった。
バイオリンがあの子の手元に戻った事実が分かって、疲れて重かった足が、少し軽くなったような気がした。
翌日は、怒涛の様だった。一つ目の式の時間がすごく押しちゃって、次の式の準備に大わらわ。一つ目が押すと、皆もカリカリしちゃうし、会場は騒然となっていた。
上原君は違う式のグループだったから、二つ目の式の準備の時に、手が空いた要員として連れてこられてたけど、言葉を交わす暇もなかった。