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マーヴィンが持っていたソーサーとカップがカチャリと音を立てた。
「は‥‥?」
マーヴィンはベアトリスが言っている言葉の意味が上手く理解出来ないのだろうか。
動きを止めたままベアトリスを見つめている。
「婚約破棄致しましょう、と言ったのです」
「‥‥」
突然、ベアトリスから"婚約破棄"と言われたマーヴィンは、状況を把握出来ないのか押し黙ってしまった。
ベアトリスは溜息を吐いた。
多少覚悟はしていたが、やはりマーヴィンの反応はベアトリスが思っていた通り鈍いものだった。
ベアトリスは今のマーヴィンにも分かるように言い直す。
「わたくし、マーヴィン様が大嫌いになりましたの」
「‥‥な」
そしてベアトリスはわざわざマーヴィンが分かりやすいように「大嫌い」だから「婚約破棄」したいと伝え直したのである。
「‥‥」
「‥‥」
いくら待っても何も言わないマーヴィンに痺れを切らしたベアトリスは、問いかけるように口を開いた。
「マーヴィン様がずっと望んでいた事ですから、勿論‥拒否など致しませんよね?」
「‥‥なぜ」
「何故ですって?御自分のだらしない下半身と浅慮な頭に聞いてくださいませ」
「‥‥」
「そのままの意味ですわ」
ベアトリスの嫌味すらも聞こえていないのか、マーヴィンは瞳を揺らしながら「なぜ」「なにを」と繰り返しながら呟いている。
自分が婚約破棄を告げられて納得出来ないのか、はたまた頭がついていかないのか。
マーヴィンが顔を上げたかと思いきや、口から出てきたのは有り得ない言葉だった。
「‥‥そ、そうやって、俺の気を引きたいからと嘘ばかり言って!」
「嘘ですって‥?」
「っ、そうだ!お前がそんな事を俺に言う筈ないだろうが!!」
「‥‥はぁっ!?」
捻くれた解釈を始めたマーヴィンに、ベアトリスは苛立ちを噛み締める。
(今、お前の前で言ってるだろうが‥!!)
マーヴィンに「死ぬほど嫌い」だと言われたベアトリスが「なら婚約破棄しましょう」と言う事で、マーヴィンの気持ちを自分に向けようとしているとでも思ってるのだろうか。
(自分は嫌い嫌い言ってる癖に、いざ相手に拒否されたら狼狽えるなんて笑っちゃうわ)
どうやらマーヴィンはベアトリスの言葉を"気を引くための嘘"として捉える事にしたようだ。
そのまま素直に婚約破棄を受け入れるつもりはないらしい。
「それで?この俺を脅しているつもりか!?卑怯者めッ」
「卑怯だったのはどっちかしら」
「お前に決まってる‥!俺の自由を奪っておいて!!」
サラリと言い放ったマーヴィンにベアトリスは目を剥いた。
マーヴィンはベアトリスと婚約した事で自由が奪われたと思っていたようだ。
ベアトリスが鬱陶しいのもあっただろうが、主な原因は自分が楽しく女遊びが出来なくなった事らしい。
(タチの悪いガキじゃない‥)
マーヴィンは見た目が大人っぽく見えるせいか、性格もそうなのではないかと勝手に脳が勘違いしていたが、中身は子供そのものだ。
そんな理由でベアトリスに辛く当たっていたのかと思うと驚きである。
確かに気持ちが伴わない婚約に不満に思う気持ちも理解しよう。
だからといって、やりたい放題していいのかといえば、それは違う。
それにこの時代の御令嬢の結婚は殆どが家のためである。
初恋とは恐ろしいもので、そんな欠点すらも輝いて見えていたのだ。
それにこの婚約はベアトリスの「どうしてもマーヴィンがいい」という気持ちが無くなってしまえば簡単に破綻してしまう関係である。
公爵家の事情を考慮すれば、不利なのはマーヴィンに変わりはない。
つまり今、婚約破棄して困るのはマーヴィンであってベアトリスではない。
マーヴィンへの気持ちを失った今、目の前にいるのは子供で女癖が悪いただの男である。




