1:自転車に乗って
自転車に乗って、祖母の家に行く。
今日は中学の卒業式だった。祖母は顔を出してくれたけど、残念ながら、母は仕事で式には来られなかった。
寂しくなんかない。私にはおばあちゃんがいるもの。
悲しくなんかない。私にはおばあちゃんがいるもの。
涙なんて流れてない。私にはおばあちゃんがいるもの。
自分にそう言い聞かせながら、自転車のペダルを漕いだ。
母が時々、私のことを不思議なものを見るようにしていることは気がついていた。
父が亡くなった後、女手一つで育ててくれたけど、どこか距離を感じていた。
皆には見えない景色が見える。光や風と会話をする私は、母にとって不思議なものだったようだ。
自分ではどうしようもなくて、どうしようもできなくて、私は自転車のペダルを漕ぐことしかできなかった。
桜のトンネルを自転車で勢いよく走り抜けたら、
なんだか違う世界に行けそうで、今とは違う、楽しいことが待ってる気がする。
少し汗ばんだ額に、前髪が張り付く。
二つに分けた真っ黒な三つ編みを背中に垂らしながら、全力で足に力を入れる。
高校生になったら、少しは大人になったら、母と分かり合えるかもしれない。
風はまだ少し冷たいけど、すこしの希望を持って祖母の元へ急いだ。
「おばあちゃん! 手伝いにきたよ!」
「あら、美加ちゃんありがとね」
後輪を横滑りさせながら勢いよく敷地に飛び込んで、祖母を呼ぶ。
自転車の音に驚くこともなく、祖母がビニールハウスから顔を覗かせた。
「今日は卒業式に来てくれてありがとう」
「いいんだよ。美加ちゃんはお友達と出かけなくていいのかい?」
「うん大丈夫。さよならして来た。ねえ、このお花は明日の準備?」
「そうだよ、道の駅に出荷する花だよ。
今から束ねると元気が無くなっちゃうからね」
「じゃあ明日は早起きだね!私も手伝う!」
「あら助かるね。じゃあお願いするね」
私の訪問を嫌な顔一つせず、いつも温かく迎えてくれるおばあちゃん。
この場所は私の安らぎの場所だ。
作業の手を止めた祖母の足元で、花が赤や黄色のいろんな光に輝いていた。優しく花を揺らす風もキラキラしていた。
「ねぇおばあちゃん。この花は何色なの?」
「赤のチューリップだよ」
「へぇそうなんだ」
返事をした私に、祖母は優しい瞳を向けていた。
「美加ちゃんは、沢山の色に見えるんでしょう?」
赤とピンク、いろんな色。
みんなとは違う、それ以外の色が見えることに気がついたのは、いつだったのだろう。
風に色がついていることを母に伝えたのは、いつだったのだろう。
小さな頃は、キラキラの色が話しかけてくれることが、嬉しくて楽しくて母に報告していた。
草木や風や花と会話することを不思議には感じなかった。
みんなとは違うことにも気がつかなかった。
にこやかに聞いてくれていた母の瞳に、理解できない者を見る視線を感じたのはいつの頃だったのだろう。
見えない何かと会話する娘と、ほんの少し距離をおく母。
理解してもらえない寂しさを感じながら、私は近所に住む祖母の家に入り浸るようになった。
物心ついた頃から父はいない。私が生まれてすぐに病気で亡くなったと、母から聞いた。
幼子を抱えて途方にくれた母に手を差し伸べてくれたのは、父の母。
花農家を営みながら、少しの野菜を育てていた私の祖母だった。
母は、近くに住む祖母に私を預け、突然消えた父を忘れるように、がむしゃらに仕事に打ち込んだ。
私はほとんどの時間を祖母の側で過ごし、母との関係は希薄だった。
だけど悲しくはなかった。
自然の言葉がわかる自分自身が、この世界と違う存在なんだと、なんとなく理解していたのかもしれない。
ココは自分の世界じゃないと、なんとなく気がついていたのかもしれない。
いつかは誰かが理解してくれると、なんとなく期待していたのかもしれない。
いつかちゃんとわかりあえる誰かと巡り会えると感じていたのかもしれない。
ーーーーーーー
翌日は快晴だった。
早朝から出荷準備を行い、祖母は軽トラで、私は愛車の自転車でそれぞれ道の駅に向かった。
少し冷たい朝の空気が心地よかった。
それは突然のことだった。
自転車に乗っていたはずなのに、前が見えない。
周りに何もない。身体中が痛い。
痛い痛い痛い。
身体中がバラバラになる。身体の全てが引っ張られている。
目の前が真っ暗になって、チカチカまばゆい虹色の雷が全身を貫いて、指一本動かせない状態になっている。
突然激痛に襲われた私は混乱していた。
待って待って待って。
私さっきまで川土手で自転車に乗ってたのに。道の駅に行こうとしてたのに。
おばあちゃんの手伝いの為に頑張って早起きしたのに。
もしかして転んだ? 田んぼに落ちた? 車にひかれたの!?
どうなったの? どうして痛いの? 私は死んだの?
どんなに身体を動かそうとしても動かない。
私の自転車がない。地面を感じられない。意味がわからない。
前も後ろも左も右も、何も見えない。見えないけど、何かにひっぱられるように私の
意識も薄れつつあった。
ぼんやりする意識の中、虹色の雷の点滅が遠くに見えた気がした。
白いマント、黄色いマント、黒いマントの集団の、三つの映像が一瞬見えたような気がした。
どの集団も、右手を伸ばし大きく口を開けて「まて!」な感じで、なんだか笑えた。
実際は笑う余裕はないので心の中でだけど。
その後、どのくらいの時間が過ぎたのか、うつ伏せで倒れていることに気がついて、小指の先がほんの少し動かせるようになった時、小さな小さな囁きが聞こえた。
『タイヘンたいへんー』
『アマミコがシンジャウよー』
『タスケテたすけてミンナたすけてー』
子供の頃から聞こえていた、風の声や光の声が入り乱れて騒いでいる。
身体中痛くて何も見えないけど、ほんの少し安心した。気のせいかもしれないぐらい全身が痛いけど。
『たすけるタスケルー』
『あまみこタスケルー』
タスケル嬉しいけどまじ痛いから、なんでもいいからタスケテーと、心の中で叫びながら痛みに耐えていたら、さっきまでは細胞を引っ張られる感じで痛かったのに突然痛みが遠のいた。
今は身体が透明な空気になったみたいで、ふわふわしてる。
なんとなくキラキラした温かいモノが身体中を包み込んでいるような気がするし、マシュマロをギューと潰すような感覚で身体中を押しつぶされている気もする。
無理やりワンサイズ小さいTシャツを着たみたいで、なんだか微妙に苦しいけれど。
でも一生懸命さは伝わってきたので、誰だかわからないけど、とりあえず感謝した。
だけど、私の意識はそこでプツリと切れた。
その日、私は道の駅にたどり着くことはできなかった。