第二話 アラクネさんとエキナカフェ 後編
レジから離れると隅の方のコピー機やATMが置かれている場所で、パンを袋から取り出すアラクネ。
「こっちでは店内で食べるのが当たり前なのでしょうか。これはイートインスペースを設置してもらえないか掛け合うべきですね」
他店舗にはイートインスペースがあるのだが、この店舗にはそれがない。
異世界の住民に店の味を知ってもらうためにも必要だと冴木は判断した。
恐る恐るパンの包みを開けたアラクネは、袋に鼻を近づける。
「あっ、これはチョコの香りかしら。この透明な袋が匂いを完璧に遮断していたのね」
ひとしきり感心した後に、パンに噛り付く。
「あむっ。うそっ、パンが凄く柔らかくて、それだけでも十分美味しいなんて。えっ、断面が白い⁉ このパンかなり上質な小麦を使っているわ」
まずは『エクレア風チョコロール』を小さく一口だけかじって目を見張っている。
想像を超えていたようで落ち着くために深呼吸をするアラクネ。
「店長、アラクネさんはどうして白いパンに驚いているんですか?」
「材料が小麦だと白くなるのですが、ライ麦で作られたパンは白くありません。別名黒パンと呼ばれているそうですよ。ライ麦の入ったパンは小麦よりも固く独特の風味がするので好みが分かれるようですが」
「ここでは小麦ではパンを作ってないってことですか?」
「使い分けているのかもしれませんね。小麦のパンが高級だったとのいうのは、こちらも昔はそうでしたからね」
小声で訊ねてきた空森に冴木も声を潜めて返す。
「まだよ。まだ問題の部分を味わってないわ」
意を決して大口を開けると、チョコのかかった部分に噛みつく。
「あまーぃぃ。はぅぅ。やっぱり本物のチョコを使っているのね。それも砂糖をふんだんに使っているから、チョコの苦みよりも甘みが際立っているわ。なんて贅沢なのっ!」
ただのパンにこの地方では滅多にお目にかかれない、高級食材であるチョコや砂糖をつかった商品に、アラクネの目は驚き真ん丸になっている。
「上にはチョコがかかっているというのに、中には動物の乳の味がするクリームまで入っているなんて、嘘でしょ……。手間もそうだけど材料費をどれだけ使っているの……。」
普通の客と違いしっかりと考察をしながら味わっている。
「これだけふわふわのパン生地にするには、かなりこねないとダメよね」
ちらっと冴木と空森に目をやるアラクネ。
動向を見守っていた二人と目が合う。冴木は微笑んで会釈。空森は慌てて頭を下げる。
「あの二人は人間で細身だから力なさそうだけど、これだけ多くのパンを二人で作って接客は無理があるわ。パンを作っているのは別の人なのかも。店の奥にいるのかしら」
食料品以外の雑貨は他から仕入れているという発想はあったが、この異世界において加工された料理を運んで別の店で売ることは滅多にない。
「悔しいぐらいに美味しい。んんっ、口が止まらない」
一気に『エクレア風チョコロール』を食べきり、目つきが険しくなるが頬は若干にやけている。
「ちょっと一息入れないと」
カフェラテの入ったコップを手に取り、アラクネは眉間を寄せる。
「このコップ陶器でも木でもないわよね? 凄く軽いけど材質はなんなのかしら……」
パンの透明な袋と紙コップがなんであるのか、彼女の知識では理解できなかった。
カフェラテを一口飲むと、ほっと息を吐く。
「ちょっとした苦みがあるけど、動物の乳で緩和されているわね。甘い物を食べた後にこの飲み物は凶悪だわぁ。うちも取り入れようかしら」
少し頬が赤くなるアラクネ。
「ちょっと飲んだだけなのに、からだがポカポカするわぁ」
次に『チョコバナナクレープ』に取り掛かるようだ。
「うわっ、生地が薄い。これってパンじゃないわよね」
生地を小さく千切ってしげしげと見つめてから、口に含む。
「卵とこれもたぶん小麦よね。うんうん、生地は薄くて味が薄いわ。でも、問題は中身よ。こっちもチョコが入っているそうだけど、チョコを安く仕入れてくれる、お抱えの商人でもいるのかしら」
異世界の人間にとって日本の流通は想像しがたく、どんな優秀な商人がいるのだろうと想像を膨らませているアラクネ。
さっきのパンの衝撃が抜け切れていないアラクネは、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
「やっぱりね! ああもう、何て贅沢な味なの」
かじった後の断面を覗き込みながら咀嚼を続けている。
「薄い生地の中にチョコとクリーム。両方とも今まで口にしたことのない上質の味わい。クリームにもむらがなくて、こんなの初めてよ。チョコとクリームだけでも満足できる品なのに、中にどんっと入っているこの果物はなんなの⁉」
噛み切った跡の切断面を覗き込む。
「生地の黄色とチョコの黒とクリームの白。その中心にいるのは黄色がかったバナナとかいう白い謎の果物。匂いは殆どしないみたいだけど」
驚きながらも、もう一度心を落ち着かせるためにカフェラテを口にする。
「程よい苦みのおかげで口の中の甘さが一回リセットされて、また甘いのが欲しくなる……。蜘蛛の巣に捉えられた獲物のように、私は食の連鎖から逃げられないというの⁉」
目を見開き、クレープとコーヒーを交互に見ている。
蜘蛛の脚で胸を一度撫で下ろしてから、今度はバナナだけを口にする。
「芋を柔らかくしたような食感だけど、甘みがあってねっとりしている。それが甘いクリームと少し苦いチョコと混然一体となって、ああもう、何よこれ!」
感動を抑えきれず怒ったような口調で食べ進んでいくアラクネ。
「もおおぅ、パンも美味しいし、飲み物も美味しいなんてぇ~、うぃー」
かなり赤ら顔になっていて、上半身が左右に揺れ始める。
パン、カフェラテ、パンの連鎖が止まらず、飲み食いしては八本の脚がバタバタと暴れている。地団駄を踏んでいるようだ。
食べ終わり少し落ち着いてきたようで、興奮の消えた赤ら顔でボーっと天井を見つめている。
「こんなのっ、ひっく。うちのパン屋がぁー。敵うわけないじゃないのぉー、うぃー」
かなり呂律が怪しくなり、上半身が左右に揺れている。
そのまま、一気にコーヒーの中身を煽ると表情が緩んだ。
八本も足があるというの安定性が無くゆらゆらと、おぼつかない足取りで歩いている。
「あ、あの、冴木店長。お客さま変じゃないですか? まるで晩酌後のお父さんみたいなんですけど」
「おかしいですね。アルコールは摂取していない……あっ」
何かを思い出した冴木は左手の平に右拳を打ち付け、小さく何度も頷く。
「一人で納得していないで、教えてくださいよ」
「お客さまは半分蜘蛛ですよね。蜘蛛ってコーヒー、つまりカフェインで酔っぱらうと聞いたことがあります」
テレビで見たカフェイン接種後の蜘蛛が作った、でたらめな形のクモの巣が冴木の頭に浮かんだ。
「そ、そうなんですか⁉」
驚く空森を尻目に、そのまま余韻に浸りながらNewDaysから出ていこうとしたアラクネだったが、出口を前にして座り込んでしまう。
八本の脚が折り畳まれ蜘蛛の腹が床についている。上半身の人間部分はのけ反った状態でぼーっとしている。
「これはいけませんね。空森さんお水と濡れたタオルお願いします」
「は、はい!」
空森はバックヤードに慌てて駆けていき、冴木はアラクネに近づく。
思わず彼女の体を支えるように触れる際に蜘蛛部分に体が当たったが、思ったよりも動揺のない冴木。
「大丈夫ですか、お客様」
「だいひょうぶですよーだ」
人間部分の右手と蜘蛛部分の四本の脚がひらひらと振られる。
「ダメですねこれは」
戻って来た空森から受け取った水を飲ましてから、二人がかりで店の奥に連れて行き休ませることにした。
控室でぐっすりと眠っているアラクネをみて安心した冴木に、すすっと空森が隣に並ぶ。
「さすが冴木店長。アラクネさん相手にも平常心で接するなんて尊敬します!」
「そう、見えましたか?」
ゆっくりと空森に顔を向ける冴木の顔は少し血色が悪いように見えた。
「えっ、もしかして……。背中凄い汗じゃないですか⁉」
やせ我慢をしていた冴木の背中は冷や汗でべっとり濡れている。
「実は……蜘蛛が苦手なのですよ」
「えっ、そうなんですか⁉」
「ええ。昔、父の故郷に泊まった時に手のひらよりも大きな蜘蛛が天井から落ちてきて、顔の上に乗っかったことがありまして、それ以来」
「ひいいいいっ! 想像しただけでダメです!」
冴木のトラウマの一つが蜘蛛だった。
控室で呼吸が穏やかになったアラクネを見つめ、冴木が微笑む。
「気が付かれたら、お水をお願いします」
「はい!」
次の日、いつものように客を捌いているとアラクネが再び入店した。
少し俯き気味で若干頬が赤いのは照れているようだ。
「いらっしゃいませ」
「あ、あのぅ。昨日は大変お世話になりました!」
酔っぱらって醜態を晒したことを覚えているようで、何度も頭を下げて平謝りしている。
「お気になさらないでください。お客様がコーヒーで酔うことを知らずに提供したこちらのミスですので」
冴木が深々と謝罪する。
「そ、そんな。私も知らないことでしたから頭を上げてください。パンも飲み物もとっても美味しかったです。あの、ええとですね。昨日のお詫びと言っては何ですが、うちのパンを」
そう言って手に提げていたかごに掛かっていた布を外すと、焼きたてのパンが入っている。
「いいのですか?」
「はい。昨日のお礼とお詫びの品です」
本来は受け取るわけにはいかないのだが、異世界にそのルールを持ち出すのも野暮だろうと冴木は受け取った。
人のいない時間帯なので店の奥で空森と冴木がパンを口にする。
日頃口にしているパンよりも固く、甘みも殆どない。
「あっ、本当にパンが白くないんですね。でも、これはこれで好きですよ!」
「噛み応えがあっていいですね。ジャムを付けるともっと美味しくいただけそうです」
「やっぱり、パンにはコーヒーですよね! 一息付けたので、午後からもがんばりますよー!」
「どうしたんですか。気合十分なようですが」
「ふふふ。コーヒーで頭スッキリですから! がんばるぞー、おー!」
拳を突き上げてやる気をアピールする空森を優しい目で見つめる冴木。
いつも元気な彼女に助けられている部分も多いので、実は空森を頼りにしている。
空森の方でも今回の一件で苦手な相手に対して、嫌な顔一つせずに我慢して対応した冴木への評価が急上昇した事を彼は知らない。