取り返す、彼を
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
なあ、お前は「やり直し」って本当にできると思っているか?
俺はできないと思っている。仮に同じ状態に戻せたとしても、それまでにかかった時間は戻らない。髪や皮膚もこそぎ落とされ、生え変わって、同じように見える別人へと、実質は変化しているはずなんだ。
それまでに接した人、読んだ本、観ていた映画や番組で、頭の中では新しい扉を開いているかも知れない。以前、何ともなかったある言葉を投げかけたら、突然、がみがみと怒られたりする。その些細な言動ひとつで、今まで重ねてきたものが、すっかり崩れてしまうことだって……。
う〜ん、やっぱ納得いかねえ。壊れるのが一瞬だったら、直るのだって一瞬じゃなきゃおかしいだろ?
ガラスを壊す時なんか、ひとりでどこを叩いたって砕け散るのに、いざ直そうとしたら破片は拾い集めて、つなぎ合わせる必要がある。人手だっているかも知れない。
やり直し。それはどうして、壊す以上の力と時間を求めさせる?
罰なのか? それとも、「だからこそ、作り、育むことは重要なのだ」と、もれなく俺たち全員に対して、神様が届ける訓示なのか?
そのやり直しについて、ダチから不思議な話をひとつ聞かせてもらった。興味があるかい?
ダチの地元は、大きい河が横切って東西を分断している地形だ。昔は舟による渡し守が盛んだったようだが、100年の間に架橋の技術が著しく向上。数キロおきに自動車の専用道も含めた、何本もの橋が架けられて、舟の数はめっきり少なくなってしまう。
そんな中でも、変わらずに川べりに立ち尽くす、ひとりの老女の話が、ダチの地元では有名になっていたとのことだ。
彼女は曜日や昼夜を問わず、春から歳の暮れの間に、ひょっこりと現れる。河口近くに姿を見せる時もあれば、水源に近い、緑深き山中で見かけることもあったという。
服装は黒一色で、ほぼ喪服。ひざ下まで隠れるワンピースと、ヴェールのついたトーク帽は、やや日本人離れした雰囲気を漂わせている。腰は半ばまで曲がり、やはり黒いステッキをついて、うつむき気味に、川面を見つめて動かないんだそうだ。
しかし、それ以上に不気味なのは、彼女の存在は舟が少なくなり出した100年前から、断続的に目撃されていること。ダチの爺さんも、若い頃に同じような格好の老女を見かけたことがあるらしい。
秋の夕暮れ時、とんぼの群れに囲まれるようにして、彼女はたたずんでいた。飛びかうとんぼたちを、彼女はきょろきょろと首を巡らせながら、見つめていたという。
その顔はいちど丸めて広げ直したティッシュのように、くしゃくしゃでしわばかり。目の位置すら、しわの中にうずもれていたとのこと。
ダチの親父さんも何度か見かけ、ダチ自身も話に聞く老女を遠目に目撃したことが数回。
知った人じゃない。近寄ったり、声をかけたりするいわれはない。
容姿に関してもたまたま偶然が重なっただけの偶然。そう考えるべきだろうが、どうしても心の底では、同一の人物ではないかという疑念が晴れなかったようだ。
しかし、それも地元を離れるまでの間。大学に入って一人暮らしを始めるようになると、楽しさと忙しさに追われて、じょじょにその老婆のことも、記憶の中で色を失っていく。
「無理に実家に帰って来なくていい」という親の言葉にも甘えて、ダチは大学にいる間はもちろん、卒業後、就職してからも、久しく戻ることはなかった。
叔母がなくなったという連絡を受けて、ダチが実家に戻って来た時には、あの老婆を最後に目にしてから、十年近い歳月が経っていた。
久しく訪れていなかった川原には、グラウンドができ、パターゴルフ場ができ、サイクリングコースを確保するためのセメントが敷かれ……一部では、かつてのみずみずしい息吹がすっかり失われ、人々の憩いの時が提供されていた。
それを補ってか。人の手が入れられていない箇所は、いつぞやよりも更に増して、草たちは大いにその背丈を伸ばしていた。
野放図、というとやや雰囲気にそぐわないが、ピンと背を伸ばして立っている者もいれば、川面に向けて擦り付けんばかりに、その頭を垂れる者。
何年も共にいる知己であるかのように、お互いが持つ葉を複雑に絡め合う者。
そして、高さで周りに後れを取ろうと、腐ることなく背筋を伸ばし続けている者……それぞれの生き様が、恥じることなく現れていた。
ダチは川原に降りると、あえて草原を掻き分けて、川べりへと臨む。
その日の姿は、叔母に別れを告げた時そのままの喪服。念珠こそ上着のポケットの中に入れていたが、頭の上から足の先に至るまで、香の匂い立ち込める、とむらいの空気をまとっている。
「――あなた、やり直しはできると思う?」
不意に背後から、声を掛けられた。年老いた、女性のもの。
あの喪服の老婆だった。杖をつく身でありながら、あえてダチがたどって来た草の原を掻き分け、音を立てながら近づいてくるんだ。
祖父から聞いた通りに、いやもしくはそれ以上に、老婆の顔には深いしわで満ちていた。そのひとつひとつに、ダチは切り株の年輪のような、年月の重さを感じたそうだ。
近づいてくる老婆。親の言うことをうのみにしていた、幼き頃ならばいざ知らず、多かれ少なかれ、世間の恐ろしさに肌を擦られて来た今、この程度で怖がるゆとりなど、持ち合わせていない。
「――できないと思います」
老婆が隣に並ぶのを待って、ダチは答えた。
「今日、叔母を送りました。彼女は今や骨となり、墓の下に眠っています。本当にやり直しが聞くのであれば、こうしている今にでも、叔母の生きていた時へと時間が戻り、すべてはなかったことになるでしょう。それを望む人は、あまりにも多かったのですから」
参列した人たちの顔を思い浮かべながら、ダチは川面を見やる。
トンボたちが、何匹か視界を横切り始めた。
「そうね。やり直しというのは、やる以前の前に戻る必要がある。起こってしまった後じゃ、それはやり直しじゃない。「取り返し」になるわ。奪われた事実は消えない。だから、私は今もこうしてここにいるの」
老婆は、服が汚れるのも構わず、むき出しの湿った地面の上に、尻を下ろしながら続ける。
「私ね、昔は彼に夢中だった。ひとめぼれという奴かしら。恋せよ乙女、なんて言葉は後になって知ったけど、あの時の私はがっつかざるを得なかったの。いや、周りのみんなも同じだった。食べる間も惜しんで、相手を探していたわ。相手にしてもらえる時間は限られている。そのこと、考えるより先に感じていたから」
ふふっ、としわの深さと複雑さを増しながら、老女は笑った。
「星の数ほどいる相手。その中から、私は彼だけを見つめ続けて……蹴落とされたわ。ものの見事に。もう、この身が尽きること。それは何より深く分かっていた。けれどね、私には彼しかいないの。だから身勝手でも思ったわ。『いつか、すべてをやり直して、彼と一緒になれますように』って」
「それほど大切ならば、どうしてすぐに死んで、可能性に賭けなかったのですか」と、ダチは答えず、じっと耳を傾けていた。トンボの数は、じょじょに増え続けていく。
「そして、もう数えきれない時間が過ぎていったわ。どこかにいるであろう彼を思いながら。けれども、私は感じ始めたの。さっきも言った通り、これは『やり直し』じゃなく、『取り返し』なんだって。奪われたと、そう感じたものを、この手に引き寄せる。それができれば、失われた時間さえも取り戻せるんじゃないかって。でも……」
トンボは増え続ける。もう空に渡された、じゅうたんのごとき密度だった。
その飛びかう一匹一匹を、思わずつぶさに眺めるようになって、初めてダチは気がついたんだ。
こいつらは、トンボじゃない。前の羽に対して、後ろの羽が小さい。
カゲロウだ。カゲロウたちが一斉に空を飛び、埋め尽くしている。
「長すぎたわ。待ち続けた、この時間が。あの時の彼も生まれ変わって、私も生まれ変わって……そう、遠くなるような」
惚けるような口調で語る彼女の目の前を、カゲロウが一匹横切ったとたん、彼女は「あっ」と声を上げた。
「見つけたわ。彼よ。きっと彼。本当に取り返せるなら……今」
ふと、ダチが老婆の方を振り向いた時には、もう。喪服とステッキがそこに転がっていただけ。けれども、その服の襟元から、一匹のカゲロウが這い出してきたんだ。
そのカゲロウは、先ほど通りかかったカゲロウを追いかけて、飛んで行ってしまったとのことだ。
カゲロウの命は、たいてい数時間しかもたないという。
もしもあの言葉が本当ならば、どれほどの生涯分の時間を、彼女は「老婆」として過ごしてきたのだろうか。
人間の姿として過ごしたこの時間こそ、彼女が次の「やり直し」へと備える、苦行の時間だったのかも、とダチは話していたよ。