飛び起きて喚いてたって変わらない、午前一時に夜しかない町
シャッター街にも電波はある。
だから夜中に起きて、寝ぼけたまま佐城に「好きだよ」とメッセージを送ろうとすることもできるし、変換を間違って「隙だよ」と命を狙うバーチャル忍者になることもできるし、ついでに言うなら同時に「死にます」という佐城からのメッセージを受け取ることもできる。
俺は身体を持っているので、咄嗟にコートを着て自転車に飛び乗ることもできるし、記憶があるから佐城がいるのがどうせあの川の上の橋のところだろうと当たりをつけることもできるし、あと愛とか勇気とか希望とか青春とか、そういうのを信じてたりするので冬の深夜の人殺しみたいな風にも負けず全力疾走することができる。
佐城光はそこにいた。
いつもの、そういう形で生まれて来たんじゃないかって錯覚するくらいに似合う制服姿じゃなくて、犬の散歩にでも出てきたみたいな、飯食った直後に映画が見たくなってレンタル屋に来たみたいな、そんなジャージ姿でそこにいた。
佐城は俺に気が付くと、振り向いた。
「死にます」そして笑った。
俺はチャリのペダルをこの世で一番真面目なハムスターみたいに漕ぎ回してる間、記憶のバケツを引っ繰り返してドラマの台詞を継ぎ接ぎしながらこの世で一番かっこいい第一声を考えてたんだけど、うっかり佐城の笑顔に引っかかってしまったのでこういうことを言った。「好きです」
「知ってる」佐城はさらに笑う。「殺されちゃいそう」隙だらけの顔で、俺は好きだらけになった。
今すぐ理性を失ったゴールデンレトリーバーみたいに佐城を抱きしめたくなったけれど残念ながらそれはできそうにもなくて、なぜなら欄干の上に土踏まずを引っかけて立っている佐城は今にも川底にドボンと落ちて千年後の地層で見つかる一番美しい化石になってしまいそうだったからだ。
虫けらばかりが囁く夜にあって、死にかけのエイリアンの走馬灯に出てくるような緑がかった街灯に照らされる佐城は、神様の理想を押し付けられて育った天使みたいに綺麗だった。
「じゃ、そういうことで」佐城は言って、片足を宙に浮かした。
「ちょっと待ってくれ!」俺は言った。佐城は待ってくれた。佐城は優しい。佐城が好きだ。
どうして死のうとするんだ、というのが俺の聞きたいことだった。しかしそれをそのまま口にすることはできなかった。だって考えてみろよ。「月が綺麗ですね」って告白されて「年収いくらですか?」って返す風情のなさを。「死にます」に「どうして?」と返すのも同じだ。俺はダサいと思われたくない。実情がたとえどれだけダサかろうとダサいと思われたくない。
だから俺はこう言った。「俺のこと好き?」
佐城はこう言った。「別に」
俺はこう言った。「俺も死にます」
佐城はこう言った。「えぇ~……、いらねえ~……」
というわけで俺も欄干の上に立った。たった一メートルくらいしか変わらないはずなのに、随分高みに近付いた気がしたけれど、よくよく考えたら身長が二メートル七〇センチになったら見える景色は全然違うはずで、鳥が空を飛ぶようになった理由がわかり始めた。
「こういうことをされるとさ」佐城は言った。「すごい最悪。なんかギャグみたいじゃん」
「死はギャグ」俺は言った。「人生もギャグ」
「じゃあギャグみたいに死ね」佐城は言って、俺の尻を叩いた。俺は驚き、それからドキドキし、あと普通に嬉しくなってちょっと泣いてしまった。
「何事にも理由はある」俺は言った。
「そんなことないよ」佐城は言った。「そうじゃないこともある」
「じゃあこれは?」俺は訊いた。
「ないよ」佐城は答えた。
若者は希望なき未来と理由なき毎日を生きているという。
そういうことだろうと思った。
「そういうことか?」俺は言った。
「そうやって」佐城は言った。「簡単にわかったような気になられるの、死ぬほど腹立つね」
「死ぬけど」佐城は言った。
さて、このとき俺は考えていた。佐城が死のうとするのを止める方法についてだ。なぜ止めようとするかというと、俺は幸せになりたいからであって、そうすると佐城を好きなままでいるというのが一番自然な流れであって、仮にここで死なれてしまうと俺は失われたものに強い思慕を抱えたまま生きていく羽目になってしまい、幸せになれそうにもないからである。眠くなってきた。頭が痛かった。
「人は死にます」佐城が言った。頭が痛かった。
「太陽も死にます」佐城が言った。頭が痛かった。
「地球は死にます」佐城が言った。頭が痛かった。
「世界はいつか終わります」佐城が言った。頭が痛かった。
「さびしくなったら死にましょう」佐城が言った。
「俺がいるじゃん」俺が言った。
「だから何?」佐城が言った。俺は眠たくなって、瞼を閉じた。
「人は死にます」佐城は言った。
「人は死にます」佐城は言った。
「人は死にます」佐城は言った。
「人は死にます」佐城は言った。
「人は死にます」佐城は言った。
「人は死にます」佐城は言った。
「死にましょう」佐城は言った。
目を開けると、閉じていた間に瞼の表面に溜まっていたらしい光が青く瞳を灼いた。
睡眠学習。次に眠くなるまでの間に死んでしまうことが良いことのような気がしたけれど、だけど俺、やっぱり佐城が好きだから、要らんことばかり言っては世界のすべてを肯定したり、泣きながら眠る遠くのたぬきが明日こそ横断歩道を渡れますようにと祈ったり、それから好きです本当に好きです大好きです好きです好きです好きです大好きと、好きでしたという言葉を使わずに愛してるって実感もないまま伝えてみたくなったりしてしまう。星は勝手だから何百年も前の古文書みたいな黴臭い光しか伝えてこないくせに、俺と佐城の間にある空気が何もかも風化させてしまうことついて大仰に悲しんで見せたりする。
「なあ」俺は言った。
「佐城さ、ちょっと頭がおかしくなってんだよ」俺は言った。
「こんなシャッター街に住んでるからさ、そういう錯覚をしてるだけなんだって」俺は言った。
「つまり俺が言いたいのはさ、世の中そんなとこばっかじゃないってことなんだけど」俺は言った。
「それはそうだね」佐城は言った。
「考えてみろよ! どうせみんな死んじまうし未来は暗い、なんてさ、ブロードウェイで思ったりするか?」俺は言った。ブロードウェイが何かはよく知らない。
「パチ屋のネオンの下でも思うよ」佐城は言った。「パチ屋とブロードウェイは全然違う」俺は言った。何が違うかは全然知らない。
「ブロードウェイに行こうぜ!」俺は言った。
「そうしたらたぶん全部良くなる。これはマジ」俺は言った。
「マジ?」佐城は言った。「マジマジ」俺は言った。「んなわけねえだろカス」佐城は言った。俺は泣いた。失禁もしそうになった。
そんな状態で俺は言った。「じゃあ精神科に行こう」
そんなことを言われて佐城は言った。「嫌」重ねてこう言った。「私、風邪ひいても病院とか絶対行かない」
俺は言った。「病院は楽しいぞ」重ねてこう言った。「観覧車とかある」
佐城は言った。「観覧車嫌い」
俺は言った。「嘘、マジ?」
佐城は言った。「嘘。好きでも嫌いでもない」
佐城は言った。「でも嘘は嫌い。嘘つきも嫌い」
佐城は言った。「あんたも嫌い」
俺は言った。「でも俺は佐城のこと死ぬほど好きだよ」
佐城は言った。「だから何?」佐城は言った。「だったら死んでみてよ」
俺は死ぬことにした。
足を出そうとした瞬間に、佐城が俺の背中を引っ張って、橋の上に転がした。佐城は言った。「あんた嫌い」佐城は綺麗だった。
橋の上に寝転んで、見上げた佐城は綺麗だった。
背負った月光は、この時のために作られた些細なアクセサリーみたいで、佐城は綺麗だった。
今にも見えない翼で俺のこと祝福してくれそうなくらいに軽やかな姿は夜空の白霜の誘惑に身を躍らせて消えてしまいそうなくらいで、佐城は綺麗だった。
世界平和を祈る小さなアルミを枕元に置いたときにみる夢の果てで見つけた電車に纏わりついた蔦に咲く花の代わりに見つけた青空の一つの黒く穢れた斑みたいに、佐城は綺麗だった。
好きで、佐城は綺麗だった。
「人は死にます」俺は言った。
「だから何?」俺は言った。
「寂しいです」俺は言った。
「だから何?」俺は言った。
「生きる意味はないです」俺は言った。
「だから何?」俺は言った。
「むなしいです」俺は言った。
「だから何?」俺は言った。
「佐城」俺は言った。「死んで、」俺は言った。「だから何?」
「人はね」佐城は言った。「探しているのです」佐城は言った。「眠る理由を」
「眠る理由を探しているのです」
「眠る」「理由を」「探して」「いるの」「です」
「眠る」「理由」「を」「探し」「て」「いる」「の」「です」
「ね」「む」「る」「り」「ゆ」「う」「を」「さ」「が」「し」「て」「い」「る」「の」「で」「す」
「佐城」俺は言った。
「君は知らないかもしれないが」俺は言った。
「普通に寝ても、眠れることがある」俺は言った。
「だから何?」佐城は言った。
「結果は同じだ」俺は言った。
「だから何?」佐城は言った。
「代わりで同じことができるなら」俺は言った。「死ぬ必要はない」
「代わりで同じことができるなら」佐城は言った。「眠る必要はない」
「ある」俺は言った。
「俺が、佐城を好きだ」俺は言った。
「だから何?」佐城は言った。
「ダメか?」俺は言った。
「何が?」佐城は言った。
「それだけじゃ、ダメか?」
俺は言った。
「ダメに決まってんじゃん」
佐城は言った。俺は傷ついた。
「冬の川は寒い」俺は言った。「それだけじゃ、ダメか?」
「ダメに決まってんじゃん」佐城は言った。
「夜の川は暗い」俺は言った。「それだけじゃ、ダメか?」
「ダメに決まってんじゃん」佐城は言った。
「佐城は俺に、メッセージをくれた」俺は言った。「それだけじゃ、ダメだったんじゃないか?」
「へたくそ」佐城は言った。「もっとちゃんと説得しろ」
「好きだ」俺は言った。
「ばーか」佐城は言った。
俺は佐城が好きだった。
それだけでよかった。
「それだけでいいんだ」俺は言った。「佐城が好きだ」
「それだけの人生で」佐城が言った。「何か意味ある?」
「意味はない」俺は言った。「でも」
「生きることにも意味がないなら」俺は言った。「そのくらいの人生でいいんじゃないか」
「いいんじゃないか」俺は言った。
「どうでも」俺は言った。
「なんでも」俺は言った。
「俺は佐城が好きだ」俺は言った。
「それだけだ」俺は言った。
「それだけじゃダメか?」俺は言った。
「ダメです」佐城は言った。
「ダメですダメですダメです」佐城は言った。
「ダメです」佐城は言った。
「ダメです」佐城は言った。片足を宙に躍らせた。その場でくるりと回ったその軌跡は、最初に宇宙を作ったコンパスみたいに綺麗だった。佐城自身は、神様の手首みたいに綺麗だった。
「ダメなんだけど」佐城は言った。「何か言うことないの?」
「キスならできる」俺は言った。
「してみろ」佐城は言った。屈んだ。瞼を閉じた。唇は海を集めた宝石みたいに輝いた。月の裏側の青い朝霧みたいな魔力に囚われて唇を近付けている途中で俺は気付いた。「あ」俺は言った。「俺に殺させようとしてるな」
佐城は瞳を開いた。「へたくそ」地球で一番枯れかけている花みたいな顔で笑った。「キスできたかもしれないのに」
「いいよ」俺は言った。「佐城が存在してる方がうれしい」
「今のもっかい言え」佐城は言った。「もっかい」
「いいよ」俺は言った。「佐城が存在してる方がうれしい」
「今のもっかい言え」佐城は言った。「もっかい」
「いいよ」俺は言った。「佐城が存在してる方がうれしい」
「ばーか」佐城は言った。「ばか」
俺は言った。「だから何?」
佐城は言った。「嬉しいっしょ」
俺は言った。「うん」
「何か言うことないの?」佐城は言った。「キスもできないばかは」
「ある」俺は言った。「明日の朝に言う用のやつ」
「ふーん」佐城は言った。「それ良いやつ?」
「ああ」俺は言った。「最高かも」
「嘘つきは嫌い」佐城は言った。「嫌い」
「でも嫌いだからって」俺は言った。「好きじゃないとは限らない」俺は言った。「俺は佐城が好きだよ」
佐城は飛んだ。
それで、橋の上に降り立った。居場所を失った彗星みたいに落ちて来た。
「ああそう」佐城は言った。「もういいや」佐城は言った。「大人しくしててね」
佐城は俺の身体に寄り添った。夜で、冬で、とても寒かったから、厚着の先にも佐城の温もりがあるのがはっきりとわかって、これから先文明が何百個、何千個滅びたとしても、必ず次の人類も神様の家から火を盗んでくるだろうと確信できた。
これから何度も訪れる夜に思いを馳せても、俺は佐城が好きだった。
これから何度も訪れる世界に思いを馳せても、俺は佐城が好きだった。
好きすぎて不安になるくらいに好きで好きで仕方がなくて、夜と世界と心が空っぽでも泣いてしまうくらいに寂しくてもそれでも生きてしまうくらいに佐城が好きだった。本当は、生きることに好きは関係なかった。
人がいた。
俺だった。
佐城だった。
命がいた。
俺だった。
佐城だった。
存在があった。
俺だった。
佐城だった。
すべてのものに「嘘?」「だから何?」「それだけじゃダメか?」「死にます」と語り掛ける永遠でもない何かは、果てしないからという言い訳も嫌いだった。
瞼を閉じた。
シャッター街にも電波はある。
身体と記憶があって、愛とか勇気とか希望とか青春とかそういうのを信じてる。
信じてる。
眠る。
起きる。
何かがある。
何かがあったときに、口にする言葉を考えている。
「おはよう」と「好きだ」の順番を考えている。
佐城。
俺は言う。
好きだ。
俺は言った。
ずっと言うのかもしれないと考えながら。
「おはよう」と「好きだ」の順番を考えている。