淡く儚く
何ヶ月ぶりに引いたか分からないルージュに、透子は困惑していた。八重歯に色が移っていないだろうかと、何度も手鏡を覗き込む。子育てに追われ、普段はそんなにきっちりメイクをすることもない。伸びっぱなしの髪をギブソンタックにまとめ、小綺麗な格好をしている自分が、なんだか別人に思えていた。
友人の結婚披露パーティーに招待され、小高い丘の上にあるレストランにやって来ていた。ハワイで挙式を挙げた写真がウエルカムボードに可愛らしく飾られているのを、透子は微笑ましく眺めた。
「透子さん」
後ろから呼び止められ、透子は振り返る。
「潤ちゃん」
一瞬誰だか分からなかったが、それが友人の従弟で、かつての教え子だと気が付いた。しばらく見ない間にとても大人びていて、透子はどきりとした。
「久しぶりだね、三年ぶりくらい?」
と、潤が言ったので、そうかもね、と透子は返す。
「高校は楽しい?」
潤は頷いた。友人から近況は時々聞いていたけれど、今日のパーティーに来ることは知らされていなかった。
透子は、やんちゃで手が付けられなかった中学時代の潤を思い出す。口が立ち、教師には偉そうで、いつも調子に乗ってクラスメイトを笑わせていた。背も小さくて、幼かった彼が、心の中に次々と甦ってくる。
「透子さん、全然変わらないね」
透子はあはは、と笑った。
「そんなことないわ。歳を取りました。もう三十すぎてるのよ」
潤は真剣な表情で、変わらないよ、と言った。
パーティーは大盛況に終わり、透子は微笑んで新郎新婦の幸せな顔を見ていた。今が一番彼女たちにとって幸せな時間なのだろうなと、結婚生活五年目の透子は思う。決して自分が不幸せな訳ではないけれど、愛は次第に形を変えていくものなのだ。
雨が降り出していた。「おめでとう」と友人夫婦に何度も告げ、透子は会場を後にした。帰ると、現実が待っている。
出口に、潤が佇んでいた。
「あっちにはいつ帰るの?」
「このまま夜行で」
そっか、と透子は言った。遠方の高校へ進学した潤。きっとまたしばらく会うことはなくなるのだろうなと思うと、透子は少し寂しくなった。
新任教師時代、彼とは何度もぶつかった。けれど、何度も助けられた。潤のお陰で教室に居場所ができ、生徒たちの輪に入り込むことができた。すぐに転勤が決まり、それ以来会うことも殆どなくなった。懐かしさが甦ってくる。
潤の横顔を眺めた。背が透子を追い越していた。変声期を迎え、喉仏が出ている。中学生の頃に比べて、がっちりとした体格。大人になったなと、不思議な感情が透子の心の隅に生まれ出す。
「元気で、頑張ってね」
透子が言うと、潤は「はい」と言って微笑んだ。
出席していた別の友人が話しかけてきたので、透子は潤に手を振り、場所を移動した。雨音が激しくなっていく。
ふと視線を感じ、潤のいた方を見ると、目が合った。潤はすぐにそらす。透子は胸の高鳴りを感じた。
――やだ。私、何を考えてるんだろう。
帰宅すると、夕食の洗い物が乱雑にシンクに放り込まれていた。透子はため息を吐く。そして子供を寝かしつけていてくれた主人にお礼を言って、透子は風呂場に向かった。
髪を解き、服を脱ぎ捨て、脱衣所のドアを閉めた。洗面器にお湯をため、濡れていない手でじっくりとメイクを落としていく。手のひらのオイルに、ルージュも、マスカラも、ファンデーションも溶けていく。洗顔フォームを泡立てて、顔を包み込む。そして、すべて洗い流す。
湯船に浸かると、ため息が漏れた。透子の頭の中に、懐かしい記憶が甦ってくる。
潤が、透子に憧れていたことは知っていた。よくあることだと、ただあしらっていた。恋愛対象になんてなるはずないし、どうにかしたいと潤が思っているはずもなかった。
久しぶりに再会し、大人に近付いた彼は、あの一瞬で透子の心の隙間に入り込んできた。気が付かない振りをしていたけれど、透子の胸の鼓動は速まるばかりで、治まってくれない。潤が頭から離れていかない。
透子はざばざばと湯船の中で顔を洗い、風呂場から脱出した。このままでは、奥底から引き込まれてしまいそうで怖くなる。
もしかしたら。彼も、同じように思っているかもしれないと思うと、体が火照った。頭の中で、潤と唇を重ねてみる。抱きしめられてみる。
駄目だ、と邪念を落とすように、透子は首を横に振った。
パンパン、と両手で顔を軽く叩き、おもむろに歯を磨き始める。
何も変わらない明日が、きっとやって来る。けれど、きっと"恋"とは、こういう感情だったなと、透子は鏡の中の自分を見つめた。