2-2.第三の女
「なぜ来た、とはご挨拶だな。端女の分際で」
キャリバン、とミランダに呼ばれた女はそう言った。かくんと首を捻って、下からミランダを睨み上げている。柄が悪い。顔立ちこそ活発な大人の女性のそれだが、キャリバンの頬には、魚のような鱗が付いている。頬の鱗はそのまま首筋に連なっているようだ。それ以上は見えないが、おそらく体の至る所に魚鱗を伴ってるのだろう。装飾ではなく本物だ。そういう悪魔なのだ。
「貴女のような鼻つまみ者に言われたくありません、それで何の用ですか」
「お前さんがしくじったって聞いたから押っ取り刀で馳せ参じたのよ。そこの魔王様に会いにな」
キャリバンはじっとりと俺を見た。ざんばらな灰色の髪が目元に垂れて、鬱陶な印象をもたらす。一方で口角の柔らかく上がった様や、ぎらぎらとして不気味な眼光がそれと釣り合わない。なんだか気持ち悪かった。
「その件については、無事に隆志さまのお側で仕えることができると、改めてアユスルオキナ様に報告したはずですが」
「あぁあ、聞いてねえなぁ、それ。しくじたって聞いてすぐに飛んできたんでよ」
「それはくたびれ損でしたね。今はこうして問題ありませんから、魔界に帰ってください」
「そう言うなよ」
キャリバンは音もなく椅子から立った。俺に向かって足を踏み出す。それを遮ろうとミランダが動いた。何気なく振り出されたキャリバンの腕。ミランダがそれを掴み取る。キャリバンの目が妖しくミランダを捉えた。
キャリバンが腕を外側に旋回させる。ミランダは自分が掴んだ腕に振り回されるようにして、背中から床に倒れてしまった。「うっ」ミランダから短い苦悶が漏れる。
ミランダに寄ろうとした俺に、キャリバンがぶつかってきた。キャリバンを睨んでいたのは無意識だった。キャリバンは眼光をそのままに、目をとろんとさせた。こてん、と頭を俺の肩に乗せてくる。俺は強引に前へ出ようとしたが、キャリバンはびくともしない。
「いいなぁ、これ……」
キャリバンは呟いて、俺の肩に手を置いた。手の甲にも鱗が及んでいた。俺はその鱗に爪を立てた。
「剥がされたくなかったら退けろ」
「ん? 粋がるねえ魔王様」
「おい、どうかしたのか?」
こっちの様子がおかしいことに気付いた此方田が、店の奥から出てきた。ミランダは既に立ち上がっている。俺はキャリバンから手を離した。
「いや、なんでもない。ごちそうさん、旨かった」
「おう、また来いよな」
「行くぞ、ミランダ」
俺はキャリバンから体を離した。背を向けて店を出る。ミランダは駆け足気味に続いた。店の外はまだ土砂降りだ。ミランダに渡そうと、合羽を差し出す。そこにキャリバンがしゃしゃり出てきた。
「ミランダ、お前さん仮にも魔王の雨具を使うのかい?」
急に背後に立ったキャリバンに驚いて、ミランダが後退る。険しい目でキャリバンを見る。それから後ろめたそうな目で、俺の差し出した合羽を見た。
「私は、た、隆志さまのご厚意を、拒みたくないと……」
「それで魔王は雨曝しか、大したご身分だぜ、あんた」
反駁せんと口を開くミランダだったが、返す言葉がないようだった。途端に俺が申し訳ない気持ちになる。俺の合羽を借りるのを、元々ミランダは辞退しているのだ。
「聞くな、ミランダ。お前に合羽を使わせたのは俺の勝手だ」
「気まで遣わせるとは、大した手腕お見それしましたっと」
キャリバンが余計な言葉を繋げてくる。ミランダの顔色は晴れない。心なしか雨の勢いが強くなってきた。軒下にいても、雨の飛沫が体をしっとりと濡らしていく。次第に体が冷えてきた。冷たくなってしまったミランダの腕を掴んで、俺は雨の中に出た。
「隆志さま」
「あんな奴に付き合う必要はない」
苛立ち混じりに言う。激しい雨音が誤魔化してくれればいい。雨と関係なく足早になる。不意に、雨の音が変化した。一部だが、雨を妨げるものが現れたような。俺の眼前に、巨大な錨が落下した。間近の落雷に似た轟音。衝撃が空気と地面を伝わり雨が飛び散る。すっと血の気が引くのと同時に、殺意が体を染め上げた。
「行くなよ」
キャリバンが声を上げた。雨の中に踏み込んでくる。俺はミランダを後ろに押し退けて、キャリバンと対峙した。
「喧嘩でもするつもりか?」
「あ? 魔王様が俺と喧嘩するって?」
イヒヒヒヒ、と引き攣ったようにキャリバンが笑う。その眼光はいっそう鋭く強くなっている。俺はエーリアルをすぐに振るえるよう手を開いた。
「笑気の魔王だか正気の魔王だか知んねえが、人間の分際で図に乗り過ぎだぜ、魔王様様様よ。旨そうな肉に埋まっていて、その肉に埋まることのない、魂の芳しさ……こちとら涎が止まらねえんだよ。あんまり前に出てくると食っちまうぜ?」
「そうかよそりゃ悪かったな。だったらどうして引き止めた」
「え? えへ、うへへへ、そりゃあ、当然――」
「エーリアル!」
歩を詰めたキャリバンに対し、俺はエーリアルを呼んだ。が、本来であれば時空を切り裂いて現れるはずのエーリアルが来ない。キャリバンの掌が、俺の目前に迫る。
「待ちなさい!」
その手を、ミランダが止めた。ミランダの瞳は紅い。キャリバンは先程のように、ミランダを軽く投げ飛ばすことができずにいる。
「この手はなんですか」
「固いこと言ってくれるなよ。ちょっとくらい味見させてくれ。お前さんだって本当は狙ってんだろ?」
「黙りなさい!」
ミランダはキャリバンから手を離し直後、衝撃波を当てた。後方に吹き飛び、雨に滑りながらもキャリバンは着地する。すぐさま態勢を直し手を振りかざすと、その手に錨が握られていた。俺は背後を見た。地面に突き刺さっていた錨が消えている。キャリバンも時空を操り、武器の出し入れが自在らしい。
「隆志さまは下がっていてください。キャリバンには私が灸を据えます」
「だがしかし」
「エーリアルちゃんが来ない以上はそうしてください」
「……なんであいつ来ないんだ」
「きっと隆志さまの言い付けを守っているんですよ」
言われ、罰のことを思い出す。あいつはそんなに律儀じゃないと思うが。しかし呼び出して来ないなど、初めてのことだ。
「あぁ、それじゃあ、お前さんを八つ裂きにしたら魔王様を食っていいんだな?」
「その物言い、必ず後悔させます」
ミランダとキャリバンはやる気満々だ。俺もそうだったので強く注意できない。住宅街では目立つから止めておきたいのだが……。周囲を見渡す。民家は雨戸を閉め切っている。風雨は強く会話も大声でないと成り立たない。雷は頻繁に落ち、太鼓のような爆音を鳴り渡らせている。この天気に出掛ける馬鹿は俺くらいだ。なら、問題ないか。
ミランダを見る。ミランダは鞭を取り出さず、無手で勝負を挑むらしい。もっとも、錨などという馬鹿げた武器が相手では致しかたないかもしれない。重さで強引に押し切られてしまう。
ミランダが動いた。雨が爆ぜる。風を斬るような敏捷さで、キャリバンに向かって駆けていく。
キャリバンは団扇のように錨を薙いだ。目線が頭上に行く。頭は下に、つま先は上に、華麗に跳んだミランダがキャリバンの真上を捉えていた。
翳した手から真紅のビームを三回に分けて連射する。高温のためか被弾したキャリバンを中心に白く湯気が舞った。
着地したミランダはすかさず追撃に出る。湯気の煙幕から錨が飛び出す。スライディングして躱した。煙が晴れる。
ミランダが跳ね起きて手刀を振るう。それを腕で受けるキャリバン。鈍色のコートが焦げて崩れている。後ろ姿だが、粗末な腰巻きとさらしとも呼べない布切れを巻いただけのびしょ濡れたほぼ半裸なのが分かる。
キャリバンがミランダを蹴り上げた。再びキャリバンの頭上に舞い上がるミランダ。掴んだキャリバンの腕を軸に、振り子運動して蹴りを入れる。キャリバンを蹴り飛ばし、自身は器用に着地した。
「あぁ、痛ぇ。なんか変だな?」
「今さら後悔しても遅いというやつです」
むくり、とキャリバンが起き上がる。ミランダより二回り、いや三回りほど大きい乳房に目が行く。しかし俺の眉間には皺が寄ったままだ。当然だ。俺はあいつに対して怒っているのだ。俺はキャリバンの顔に目を向けた。キャリバンが、ずれて下がった布切れもといさらしをたくし上げる。ふにゅんとたわわなおっぱい。俺はキャリバンの顔に目を向けた。
ところで、おっぱいに鱗はないようだ。
「お澄ましちゃんが。お前さんしっかり味見してんじゃねえか」
「な、なにをっ」
キャリバンの言葉に、ミランダがたじろいだ。ミランダの耳が赤い。キャリバンはいよいよ確信したかのように笑った。
「前より力が格段に上がってるぜ。分かってんだろ。活きの良い魂をちょっとだけぺろりしたお陰だって」
「黙りなさい!」
「俺もそのちょっとだけぺろりってのをしたいんだよ。良いだろ?」
「黙れったら黙れ!」
キャリバンが、やれやれといった風情で肩を落とす。ミランダは憤っているが、どこか照れているようでもある。思い当たる節はあるけども、この反応をどう捉えて良いのやら。
踏み鳴らすように、キャリバンが錨を持ち上げて落とした。ガオン、と重々しい音が空気を揺らす。ミランダの表情も真剣なものに切り替わる。
「本気だすから」
キャリバンはそう告げた。