2-1.あらしのひるに
いつ目を覚ましたのだったか、記憶も意識も曖昧だ。部屋の薄暗さは心地良い。それは閉じたカーテンによるものだけではない。絶え間なく降りしきる雨の音、鳴り響く雷鳴。太陽の光が厚い雲に遮られているのだろう。
ゴロゴロゴロ、と遠くで神鳴る騒ぎ。雷が鳴るのに合わせて、もぞ、と俺のすぐ横でなにか動いた。俺が腕を動かすと、なにやら安心する温い人肌の感触。寝返りを打とうとすると、腕になにか乗っていて動けない。
「……ミランダ?」
腕を枕にしたミランダは、怯えた目付きで俺を見た。甘えているようにも見えて、不覚にも妙な緊張を覚えてしまう。それと同時に、このままずっと横になっていたいという気にもなる。
「おはようございます、隆志さま。現在の時刻は14時44分です」
ミランダ時計が告げる時刻は、俺のいつも通りの起床時間だった。俺はなにか喋ろうとした。その瞬間に視界が白く染まる。
「ひゃいっ!」
というミランダの悲鳴は轟音に掻き消え、胸に顔を埋められた俺は反射的に腕を畳んでしまった。ミランダを抱き締める格好になる。ミランダの服は肩を大きく露出しているので、素肌を直に触っている。さらさらした髪が口元に触れ、女の子の良い匂いがする。あったかくてやわっこいミランダの体に対する興奮を、成り行きが分からない現在の状況への動揺で封じ込めた。
「ちょっと待てミランダ。どうしてこんなことになっている?」
「すみません、それは――」
「夜這いです」
エーリアルが念話で囁いた。ミランダが雷が怖いだの風が強いだの語っている間中、エーリアルが念話を被せてくる。夜這いです夜這いです夜這いです夜這いです……。
「おいうるさいぞ!」
「えっ」
「いやお前じゃない」
起き上がってミランダを剥がす。部屋の隅に座り込むエーリアルはすまし顔だ。剣のくせして不遜な奴。いや剣だからこそか……?
「すみません隆志さま、ただどうしても……」
閃光と共に乾いた音が、空気を叩き付ける。ミランダはがばりと頭を伏せた。ミランダの怯えようは流石に常軌を逸しているが、確かに落雷が多い。
俺は思い立った。雨合羽を羽織る。それを見て、ミランダが声を掛けてきた。
「お出掛けですか?」
「家にいるのに合羽を使うか?」
「ですが……」
ミランダは窓を見た。窓に打ち付ける雨、散りぬる木の葉、雷鳴、土砂降りの雨音、曇天……。ミランダの顔はいかにも不安そうだ。
「こんな日に出掛けるのが乙なんだ」
「思い出します。第4だったか第5魔界での戦争は、こんな暴風雨でした」
そう会話に割り込んで、エーリアルが俺の隣に立った。どこから用意したのか、子供用の黄色いポンチョに頭を通し、ギュッと黄色い長靴を履いた。どちらも新品のようだ。エーリアルは俺の腕を掴むと、片足を上げて、足首を回した。履き心地を確かめる見た目は、普通の子供とそう差異はなかった。鋼色の髪と、紫に発光している体は別にして。
「それどっから持って来たんだ」
「こんなこともあろうかと、阿婆擦れに用意させました。なんでも言うことを聞くと言っているのに、アリゲーリが一向に命令を下さないので、エーリアルが代わりに阿婆擦れを使っています」
俺は苦笑いした。ミランダを見ると、どこか申し訳なさそうに笑った。瞬間、またしても白光が部屋を照らし、空気を張るような音が鳴った。短い悲鳴がそれに続く。頭を押さえて震えるミランダは、まるで童女だった。
「そんなに怖いのか?」
「はぁ、そのう……」
「じゃあ外に出れないな。留守番を頼むぞ」
「因みにどちらまで?」
「ちょっと食事をしに――」
「御供いたします」
しっかりした足取りで、ミランダが俺の眼前に立った。意気込みを感じさせる微笑み。輝かせた目に先程までの怯えはない。
「いやでも、雷が怖いんだろう?」
「悪魔が襲ってくることもお考えください。万が一のこともあります。おひとりで外をうろつくのは危険です」
「俺としてはお前と一緒にいるほうがちょっと違う意味で危険……」
「え?」
「こっちの話だ気にするな。それに今まで一人でいても悪魔なんて襲ってこなかった。今更だろう」
「それは今まで魔王アリゲーリの魂が人間界に在ると誰も気付いていなかったからです! 一部に例外もいたようですが……。ともかく、今や隆志さまの存在は第3魔界すべてに知られています。いずれは他の魔界にも知られるでしょう。いつなんときどんな悪魔がやって来るか知れません!」
「そんなに知れ渡っているのか?」
「はい」
「そうか……」
「アリゲーリの魂が人間の肉に抱かれているのです。鴨が葱を背負ってやってくるという、人間の諺そのままです。ですからアリゲーリは、エーリアルを片時も手放してはいけません」
エーリアルがじっと俺を見詰めている。手を握ってきた。俺はその手を引き剥がした。
「アリゲーリ?」
「お前は留守番だ」
「な、なぜっ! アリゲーリの気に障りましたか?」
「お前はミランダを貶めようとし過ぎだ、反省してろっ!」
「それはアリゲーリがこの阿婆擦れに気を許し過ぎだからです!」
「だからその阿婆擦れって言うのを止めろ。昔から口汚いんだよお前は」
「そんなこと言ったってそんなの今更です! そもそもどうして留守番が罰になるんです!」
「お前が付いてきたがっているからだ」
「エーリアルはそんなこと微塵も思っていません! むしろ家に居たいくらいです。エーリアルはインドア派です」
「嘘吐け! 脳筋の一歩手前みたいなもんだろ!」
「脳筋なんて言葉は知りません。エーリアルは家に居たい。ああ、家に居たい」
「じゃあ家に居ていいよ。行くぞミランダ」
「ああーっ! ずるい! エーリアルが家に居たがってるなら居させないのが罰でしょうが!」
「いいよいいよ、家に居ていいよ。罰はまた今度にするから。じゃあな」
「やーあーっ! 一緒に行くー! せっかく合羽も用意したのにぃ!」
「お前は剣だろが!」
駄々をこねるエーリアルを押し込め、俺とミランダは部屋を出た。……駄々をこねる剣ってなんだ。
「あの、良かったんでしょうか?」
ミランダが困惑気味の笑顔で言った。扉の向こうからは「アリゲーリぃ……」と悲しくも恨めし気な声が聞こえてくる。俺の心にもちくりとした罪悪感が芽生えた。
「前世の記憶だと、こんな奴じゃなかったんだけどな。もっと余裕たっぷりで、子供っぽいところは確かにあったけど、呑気と図太さで上を行くものはいなかった」
「……きっと隆志さまが人間だから、心配になってしまうんですよ」
「そうかなあ」
「エーリアルちゃんは良い子です。許してあげてください」
「いや、それとこれとは話が別だ。ミランダが気にしなければ良いという問題じゃない。他者を貶めようという心根に問題がある。特に人を蔑んで呼ぶような卑しい行為は我慢ならない」
「左様ですか……」
「さて、だいぶ時間を使ってしまった。風雨が止まないうちに行こう」
「ふつう止んでから行くんじゃありませんか?」
「だからこういう天気が乙なんだって」
そうして俺とミランダは家を出た。吹き荒れる風と、篠突くような雨。時折に雷鳴。ミランダは俺の背中に抱き付いて歩いていた。雨具もなしに。なぜ用意しなかったと問うと、「忘れてました」と答えた。濡れて歩くから構わないと言う。俺はというと、合羽の中が蒸して汗を掻いていた。そして合羽越しに背中から感じるミランダの……。腹に回っている綺麗な手をつい掴みたくなる。仕舞いには合羽が鬱陶しくなってきた。まどろっこしいというか、生殺しというか。二人羽織とか邪な考えがむらむらと沸き起こってくる。いや、決して助平な考えではなくて、あくまでもびしょ濡れのミランダをそのままにしておけなくて……などと、心の中で言い訳をする。ついに堪えが利かなくなった。俺は合羽を脱いだ。
「隆志さま?」
「着てろ!」
絶えない雨音は、お互いの声を遠くした。直接まぶたを打つような雨が煙り遮る視界の中で、俺たちは叫びながら会話した。
「え、しかしそれでは隆志さまが……」
「いいから着てろ!」
「私は悪魔ですから風邪なども引きませんし、やはり隆志さまが着ていたほうが良いです」
「俺だってそうそう風邪は引かん。着ろ!」
「ですが――」
「着てくれ!」
「わ、わかりました」
合羽の役割としては手遅れながら、ミランダは合羽を羽織った。俺は頷いてみせて、また歩き出した。雨に打たれて雑念も紛れる。滝行かなにかか。
それにしても寒いしなにか物足りない。合羽を脱いだだけにしては、やけに軽くなった感じがする。ミランダが抱き付くのを止めているのに気が付いた。別に残念じゃないぞ。
はしっと、手がなにかに掴まれた。優しい感触だった。ミランダの手だった。
「行きましょう」
ミランダが言った。俺はミランダの手を引いて、足早に歩いた。途中、雷にいちいち立ち止まるミランダに苦労しながら。
ついに辿り着いた目的地は、居酒屋『かんじょめ』だ。軒先に入って雨から退避を済ませると、ミランダは看板をしげしげと見詰めていた。
「かんじょめって、何語でしょうか」
「さあな、なにかの捩りじゃないのか」
「ここはなんのお店です?」
「居酒屋。酒を飲ませる」
「ええっ!? そ、それって……」
なぜか頬を染めて、恥じらいを帯びた眼差しでちらちらと俺を見るミランダ。こいつの思考回路はどうなっとるんじゃ。
「よく分からないが多分お前の想像とは違う。それと昼は定食屋なんだ、ここ」
「あ、そうでしたか。楽しみです」
舌なめずりするミランダ。楽しみな様子がいやでも分かるくらいうきうきしている。もう食い物しか目に入らないだろう。
「ああ、それもう要らないだろ、脱げ」
「はい、ありがとうございました」
俺に言われ、ミランダは合羽を脱ぎ始める。フードを外すと、丸い頭部がひょっこりと出てくる。濡れそぼつ髪には、きっと緑の黒髪という形容がよく似合う。意識しているのかしていないのか、どこか焦らすような手つきで、それとも指先が悴んでしまったのか、ミランダはゆっくりと合羽のボタンを外しに掛かった。喉元から下に向かって順番に、ボタンを外していく。閉じられていた前立てが、パツンと音を立てて開いた。ミランダの指が胸に達する。合羽越しでもそれと分かってしまう女性特有のシルエット。それを通り過ぎると、下に着ている服が大胆な所為で、鎖骨から谷間まで、楔形に曝け出されている。ミランダの指先が腹部から下腹部へ。前の開いた合羽から、女性性の瑞々しいミランダの体つきが目に付く。ふっくらと柔らかそうな胸と、広めの骨盤。胴回りは健康的に引き締まっている。理想形のようなミランダの体躯。それに対して俺の合羽は少々無骨だった。そのミスマッチが微妙に倒錯的で、なにか疚しいことをしてしまった気分に陥る。ミランダが片方の袖から腕を抜く。あとは早かった。さっと脱いで、簡単に畳んで、両手で持って、俺に合羽を差し出した。
「うん」
俺はそれを受け取りながら、雨に濡れたミランダを見ていた。濡れたモノトーン調の衣服は、ミランダの肌にぴったりと張り付いている。白地の一部は透けていた。
「さあ、早く食べに入りましょう!」
「うん」
放心したように単調な返事を繰り返しながら、俺とミランダは店に入った。そう広い店ではないが、それでも閑古鳥が鳴いているという印象を受けた。とはいえそれは見た目だけで、普段はこんなものではないはずだ。
「いらっしゃい! ……て、なんだテメェか」
挨拶に顔を出したのは、友人の此方田剛だった。この店は此方田の親が経営しているもので、最近はこいつ一人で店に立つことも多い。歳より老けて見えるその顔に、此方田は困ったような笑みを貼り付けた。
「テメェとはご挨拶だな。こんな天気の日に来てやったのに」
「だってどうせツケてくんだろ?」
「まあな」
「なに食ってくんだ?」
「炒飯、あと焼きそば」
「うし、ちょっと待ってな」
そう言って、此方田がタオルを投げ渡してきた。ずぶ濡れの体を拭く。ミランダにも渡した。ミランダも体を拭き始めた。濡れた髪が風呂上がりのように乱れて横顔がやけに可愛かったり、胸の辺りを拭いたときふよふよなのがわかったりと、普通に拭いているだけなのだが妙に艶めかしい。目を逸らした。
席について十数分後、テーブルに炒飯と焼きそばが運ばれてきた。ミランダが炒飯に手を付ける。俺は焼きそばにした。
焼きそばから立ち上るほんのりとした湯気に、青のりの独特な香りが混ざってくる。性格は全く違うが、磯の匂いに通じるものがある。食用になった磯の風味とでも言えばいいだろうか。そして立ち上ってくるのは、青のりの香りばかりではない。ソースの甘辛い味を予感させる匂いもだ。腹が減る。
「いただきます」
油で照りを帯びた麺には、金茶色のソースがよく絡んでいる。そして重なる濃緑の青のり。そして紅生姜が少々と、色味の強い見た目だ。
箸で無造作に摘み上げ、口に運ぶ。口の中が焼きそばでいっぱいになる。青のりの風味が抜ける。油っぽさとソースの塩辛さを、紅生姜の酸味が中和してくれる。残るのはソースの甘い味が絡まった麺の旨み。咀嚼すると感じる玉ねぎとキャベツの食感。そして野菜の優しい甘み。呑み込むと、塩気が後を引いて、食欲を煽ってくれる。一口、また一口と焼きそばを食らう。大盛りの焼きそばは、十分に腹を満たしてくれそうだ。向かいに座るミランダも「おいしいおいしい」と言いながら炒飯を食べている。既に半分以上がない。むせて水を飲んでいる。コップの水を飲み干して、ぷはっ、と吐息を漏らす。一瞬だけ目が合ったが、ミランダはすぐに食事を再開した。
「ごちそうさま」
俺とミランダは同時に食べ終わった。満足気なミランダの顔を見ると、何故か心安らぐ。少しの間、お互いに黙っていた。店の隅にあるテレビからドラマの音楽が流れる。雨音はそれと同じかそれより大きいくらいの音量で、世界が物凄く狭くなってしまったようだ。
「隆志さま」
ミランダが口を開いた。神妙でもないが、特に陽気でもない。大人びた少女のような面差しだ。
「どうした?」
「ありがとうございます。このような素晴らしい場所に、私のようなものをお連れいただき」
「大した場所じゃないだろ」
俺は続けて「それに自分を卑下するのは止めろ」と言おうとして、口を噤んでしまった。ミランダを肯定したいのか否定したいのか分からなかったからだ。
「……よく分かりません。ですが、自分には勿体ないと思えるくらい、良い場所だったのは間違いありません」
「場所、というより料理だろ?」
「仰る通りです。訂正します」
ミランダははにかんだ。俺も微笑み返す。テーブルの上に置いた俺の手とミランダの手が触れ合った。俺は慌てて手を引く。ミランダが美人だからか、変に緊張してしまう。いや、別に容姿は関係ないか。あられもない格好ばかり見ているからだな。する必要もないのに意識してしまうのだ。
「それにしても、もっと人がいても良いと思うのです。これだけおいしいお店なのですから」
「この天気じゃ仕様がない。普段はもっといるよ。そうすればこんな静かな店内じゃなく、わいわいがやがや賑わう所になる」
「今は私たち含め三人だけですからね」
ミランダの何気ない視線は、俺の後ろの奥。店のいちばん隅に向かっていた。そこには鈍色のレインコートを着た人物の背中があった。俺は言葉を失った。
「隆志さま?」
あのレインコート、間違いない、エーリアルを弾き飛ばした人物だ。ということは悪魔だ。先回りしていたのか?
「あいつ、いつからあそこにいた」
「え、あれ? そういえばいつからでしょう」
俺は席を立って、レインコートの人物に近付いた。真後ろに立っても、レインコートの人物に反応はない。
「すみません」
声を掛けると、顔を少しだけ向けた。しかしフードまで被っているので、顔は分からない。鼻の先は見えている。中性的な男か、或いは女か。
「どこかで会いませんでしたか」
「いやあ、ないはずだ」
精強な女の声だった。女は体を捻ってこちらに向いた。見せてきたのは気の強そうな目付き。口元は不敵な笑みを浮かべている。女のフードから髪が零れていた。波打った灰色の髪だ。小麦色の肌との対照は、色の印象をちぐはぐに感じさせる。その見慣れぬ見た目が、異質な感覚を増してしまう。
「隆志さま!」
俺の肩を引っ張り、ミランダが前に出た。身構えている。
「なぜ来たのです、キャリバン!」