1-3.子供は寝てろ!
「ん」
ぬらついて温かいものが、俺の耳を這いずった。
「うわ!」
堪えきれなくなって、ついに声を上げてしまった。ミランダの潤んだ目と視線が交わる。ミランダの閉じた唇から、白銀の糸がねっとりと、俺の耳に向けて垂れていた。
「お前なに考えてんっ、だ、ぁ……」
ミランダはやはり裸身だった。一瞬間だけ忘れていた予想を、ミランダを視界に入れたことで思い出してしまった。茫然とする俺の手を掴んで、ミランダは胸の膨らみに押し当てた。豊かな乳房が手指の形に従って、水のように抵抗少なく歪む。それと同時に、ミランダの唇が俺の口を塞いだ。容赦なく捻じ込まれる舌に、俺はどう抵抗したら良いのか分からない。必死にミランダを押し退けた。弾かれるようにミランダが尻餅を搗いた。向かい合う。お互いに息は荒い。
「どうか抱いてください、隆志さま」
抱き締めるのをせがむように、ミランダが腕を広げた。真円を思わせる綺麗な胸が、惜しげもなく露わにされる。俺はとにかく理性を働かせて、布団のシーツを引っ張り、ミランダに投げつけた。
「そんなことしなくていいから」
「隆志さま、どうかお願いします」
「本当はそんなことしたくないんだろ」
「そんなことありません。私の意思です」
「さっきの会話を聞いた」
「……会話」
「魔界の誰かと話をしていただろう。聞いたし見た。こんなことしたくないのは、誰でもわかる。あれだけ口惜しそうにして、しかも瘴気まで溢れさせていたらな」
ミランダは俯いて、押し黙った。そしてすっくと立ち上がると、脱ぎ捨てた衣服を拾い、着始めた。俺は安堵する。なんとか思い直してくれたらしい。
「隆志さま」
「なんだ」
服を着終えたミランダの瞳が、真紅に染まっていた。人食い虎に出くわしたかのように、身を竦めずにいられない戦慄を感じた。跳び起きた俺は、しかし遅かった。本棚に衝突して、バラバラと本が落ちる。
「衝撃波です。悪魔相手では猫だましくらいにしかなりませんが、人の身である貴方にはどうでしょう」
歩み寄ったミランダは、本棚に背を預ける俺の顎を、その白蝋のような指で持ち上げた。紅の瞳が、妖しい光を帯びている。特に意味もなく互いに見つめ合う。
ミランダが口を開いた。
「とても短い付き合いでしたが、嫌いではありませんでした。もっと違う会い方を……いえ、貴方が私を受け入れてさえくれれば」
ミランダが手を離して、その離した手を構えた。心臓に突き刺すつもりなのだろう。
「さようならです、隆志さま――!」
「エーリアル!」
ミランダが突きを放つ。それに合わせて、俺は叫んだ。呼んだ。かつての相棒の名を。
金属音が響いた。ミランダが驚愕して、後ろに跳ね跳び、壁に背を当てた。俺は笑っていた。俺とミランダの間に出現したもの。呑気そうな姿に、頼り甲斐のある、余裕綽々な姿に。
「おー、おお、おお。ようやっとお呼びです? アリゲーリ」
首を真後ろに倒して、俺を見上げる少女。気の抜けて眠たそうでだらしのない面構え。冷艶な鋼色の髪は癖っ毛で、あちこちがぴょんぴょんと跳ねている。全身は淡く紫に光っていた。それはこの少女が人間でないことの証左。エーリアル。瘴気の魔王アリゲーリが用いた殲滅の剣。
「まさか、人間の身でありながら、魔具を召喚したと!? いくら魔王の魂を持つとはいえ、そのようなことは不可能のはずです。一体どうやって……」
ミランダは疑問を口にした。口にせずにはいられなかったのだろう。俺もカーチャンがいきなり悪魔を召喚しだしたら、質問せずにはいられない自信がある。
「俺が呼んだというより、こいつが――」
「アリゲーリ、エーリアルをまた使えます。嬉しいですか?」
「ああ、嬉しいよ、嬉しいから黙っててな」
「呼び出したのではない、とすると。その剣が勝手に出てきたと?」
賢いミランダは、会話を遮られながらも答えを出してくれた。俺は返事をして首肯した。
「馬鹿な、ならばどうしてこんな都合の良いタイミングで現れるのです! 予め準備をしていたのですか。それとも、その剣がずっと貴方を見張っていたとでも!?」
ばつが悪くなって、俺は頬を掻いた。エーリアルは大口を開けて俺を見詰めており、察したミランダは険しい顔を引き攣らせた。
「それはともかく、どうするミランダ。まだやるか?」
ミランダは顔を引き締めた。空間を歪めてどこかへ通じる穴を開けた。そこから鞭を取り出だした。空間を操る魔術は、高等魔術だ。ミランダの実力は相当なものと見るべきだろう。
「エーリアル、準備しろ」
「ういー」
エーリアルはかくんと首を元に戻して、ミランダに目を向けた。ミランダは鞭を構えた。いつでも打ち込めるだろう。しかしここは閉所。俺がエーリアルを振れば、逃げ場はない。ミランダが無傷で俺を倒すには、エーリアルの一撃を避けなければならない。そのために、先に俺がエーリアルを振るうのを、ミランダは待っている。避けることに全神経を集中させれば、あるいは致命傷を免れるかもしれないからだ。それに加え、鞭という武器は巻き付くという特性上、上手くすれば棒状の武器を取り上げることもできる。今エーリアルを失えば、俺の敗北は必至だ。そのために俺も迂闊に動けない。
時間と静寂だけが過ぎていく。お互いに睨み合ったまま、動きはない。或いはここで、相討ち覚悟でミランダが特攻してきたらどうか? 生憎だがその場合、ミランダは確実に死ぬ。エーリアルの一撃は強力無比だ。いかに高位悪魔とはいえ、戦闘向きではないであろうミランダに耐えうるものではない。俺も即死のリスクを負っている以上、咄嗟の手加減はできないのだ。
刻々と時間は過ぎる。緊張感の中、このまま日の出を迎えてしまうのではないかという気さえしてくる。集中力が途切れたコンマ一秒の刹那、闇の静寂が切り裂かれた。
「エーリアル!」
長剣という本来の姿に戻ったエーリアルを、横薙ぎに切り払った。鞭を伸ばして刃を受け、致命傷を防いでいるミランダ。しかし当然そんなもので、防ぎきれるわけがない。吹き飛んだミランダは窓を割って下に落ちていった。
「加減できたか?」
「切れ味は最小限にしておきました。振ったのはアリゲーリ」
俺はミランダを追い掛けようとして、足元の影に刺さった針に気付いた。千枚通しのような長い針だ。集中力の切れたあの一瞬に、打ち込まれてしまったのだろう。俺も些か平和ボケしていた。
「しまった、右脚だな」
針の刺さった個所は、右脚の影だった。俺の右脚に、ずきりと熱い痛みが生まれる。影を攻撃することによって、影の持ち主に影響を与える術だ。もし心臓や目、そのほか致命傷に繋がる部分がやられていたと思うと、ぞっとする。
「追いかけるの止めます?」
「いや、追う」
俺はミランダを追って、窓を飛び降りた。降りた先にはミランダが。振るわれる鞭を避ける。破裂音と共に、地面が裂けた。軽くエーリアルを振り上げる。ミランダの脾腹から胸の下まで、斬り裂いてしまった。
「ぐうっ!?」
傷を押さえて、ミランダが後退る。
「おいエーリアル! 切れ味は最小限にしたんじゃなかったのか!」
「あの女に対してはこれが最小限です。アリゲーリを誘惑する身の程知らずにはまだ軽い」
融通が利くんだか利かないんだかよう分からん剣だ。ミランダをよく見ると、いま斬ってしまった傷の他にも、先程の横薙ぎで出来たらしい横向きの傷もあった。エーリアル、こいつ……。
「ミランダ、もう止めよう。せっかく綺麗な肌なのに、血塗れで痛々しい。俺としても心苦しい」
ミランダは苦々しい表情をした。黒い翼を現して、宙へ舞い上がった。投げやりな笑みに、桃色の唇を吊り上げた。
「哀れに思うなら、貴方の手で殺してください。瘴気の魔王と戦い果てるならば、それに優る名誉もなし」
「アリゲーリ、望み通りヤッてやりましょう。あの女エーリアルを舐めてんです。空中なら攻撃が届かないと思ってやがります」
「頼むから静かにしててな」
そんな会話をしていると、ミランダがゆっくりと手を上げた。瘴気が手に集まっていく。
「この距離でも、瘴気を奪えますか?」
俺は渋い顔をした。確かに、あれほど距離があっては瘴気を操ることはできない。人間の体の限界だ。
「この付近を丸ごと吹き飛ばすほどの威力を出せば、いくら瘴気を力にできると言っても間に合いませんよね。人間の肉体ですから」
ミランダの言う通りだ。力への変換が間に合わず、変換しきれなかった魔術の力は辺りを破壊するだろう。俺の肉体は無論、家で眠るカーチャンや近所の住人も危ない。その会話のうちにも、ミランダに集まる瘴気は膨大になっていく。
「エーリアル、あれを撃つぞ。但しミランダを殺すな。そして傷付けるな」
「生ぬるい」
「エーリアル!」
「はぁい」
エーリアルの刀身が黒く染まり、紫色の光を帯びた。いつでも突きを繰り出せるよう、構える。切っ先をミランダに向け、エーリアルを肩の上まで持ち上げ、片足を引く。右脚が痛む。全力で撃つことはできなさそうだが、手加減するのに都合が良い。
「うふふ、アリゲーリの横顔……」
「ほんとに頼むから黙っててくれ」
こちらの構えを見てミランダは、自嘲するように微笑んだ。紅い瞳が儚げで、哀しげだった。
「遠慮しないでください。跡形もなく消し去ってください。それが私の望みです」
ミランダは瘴気の集まった手をこちらに向けた。瘴気が爆発的に膨れ上がる。ちかちかと鋭く瞬いた後、ミランダの姿が隠れる程の直径を持った、真紅のビームが放たれた。
エーリアルの準備は済んでいた。それを全霊で突き出していた。一切合切を喰らい滅する、黒龍と譬えられるそれ。黒紫のエネルギーと、真紅のビームがぶつかり合う。周囲に光線が飛び散る。絶えず落雷しているような光景。辺りは昼間のように明るくなっていた。
拮抗していた力が、徐々に均衡を崩し始めた。俺の黒龍が、ミランダのビームを押し始めた。
「エーリアル、うっかりしましたとか、許さないからな」
舌打ちを微かに聞いた。それと同時に、エーリアルの出力が上がる。見る見るうちに、黒龍が真紅のビームを呑み込んでいく。そして遂に、バチンッという弾け飛ぶような音が響き、黒龍が全て呑み込んだ。光の束が収束していき、消えてなくなる。周辺の暗闇が舞い戻ってきた。
「ミランダは?」
「大気圏外まで吹っ飛ばしてやりたかった」
どうやら遠くに吹き飛んでしまったらしい。右脚を引き摺る。それらしい方向を目指して、俺は歩き出した。
「ところで近所の人、誰も起きてこないのな」
「いま何時だと思ってんです?」