1-2.働かねェ学びもねェやる気もそれほど残ってねェ
「ニート、ですか」
「そうだ」
「それはどういう職業なのですか?」
「自宅警備だ」
「自宅警備」
「そうだ。俺がいる限り、この家での悪事は許さん」
なるほど、と。ミランダはしきりに頷いた。
「人間界のことはそれなりに調べてきたつもりでしたが、ニートという職業についてはなにも知りませんでした。もしや、悪魔が平和に暮らす秘訣は、その職業にあるのでは?」
「うむ、仮に悪魔が全てニートになったとしたら、それはそれで平和だろう。少なくとも戦争している状態よりかは幾分マシになる」
「おお……!」
ミランダは表情に喜色を滲ませた。それからなにするでもなく、じぃっと俺を見詰めている。気恥ずかしくなる。
「なんで俺を見てるんだ」
「観察です」
「やめてくれ」
「はい」
すっと体の向きを変え、今度は宙を見ている。それはそれで落ち着かない。破廉恥な格好をしているのも相俟って、こちらとしても無視し辛い。そも本棚やゲーム機やらパソコンやらで、狭苦しい部屋なのだ。
「お前ずっとここに居るつもりか」
「駄目ですか?」
「そりゃあ、な。魔界に戻ってくれると助かる」
ミランダの目に、じわりと涙が浮かんだ。目を瞬かせると、白く若々しい頬を涙が伝った。牽制を受けたように、俺はなんとなくたじろいでしまった。
「どうしてもお側に置いていただけないのですか?」
「ああ、すまないが」
「そう、ですか。……ではせめて一晩、ここに居させてくださいませんか?」
「一晩?」
「はい、一晩」
なにがミランダをここまでさせるのか。正直、俺の心は疑心でいっぱいだった。だが確たる証拠もなにもない以上、下手に無下にもできない。疑わしきは罰せずだ。
「わかった、一晩だけな」
そう言うと、ミランダは花咲くような笑顔を見せて、跳び付いてきた。細い腰が、俺の腕の中にすっぽり収まる。柔らかいものが柔らかく形を変えるのを、胸板で感じた。さらに良い匂いがする。俺は素早く腰を引かねばならなかった。
「ありがとうございます。ここに居る間はなんでも申し付けてください。なんでも致します。なんでも」
「わかった、取り敢えず離れてくれ」
腕を俺の首に回したまま、ミランダは体を離した。それからゆっくりと、腕を。ふと時計を見ると、かれこれ一時間ほど経っていた。ネトゲしよ。
「じゃ俺はパソコンいじってるから、お前は適当にくつろいでいてくれ」
「わっかりました」
布団の上に横になる。パソコンを起動した。横目でミランダを見ると、壁にある本棚に向かっていた。
「好きに読んでいいぞ」
「ありがとうございます!」
そうして、数時間が経った。下の階から「ただいまー」という声が聞こえてきた。体を起こした。
「しまったカーチャンだ。なにも考えてなかった」
「カー・チャン? 何者ですか?」
「お袋だよ。母親だ」
「なんと、隆志さまに肉親がおられたのですね」
「当たり前だろ、俺は人間なんだ」
「では早速ご挨拶に……」
ミランダは躊躇なく部屋を出ようとした。引き止めようと、慌てて手首を掴んだ。ミランダは抵抗なく俺に引き倒されて、俺の上に倒れ込んだ。
「あっ」
ミランダの顔が目の前にある。唇が触れ合いそうな距離だ。俺が体を反転させて、ミランダの上になった。するとミランダは両の手を目元に置いて、無防備な姿を見せた。白く滑らかな腋が露出され、盛り上がっていた二つの丘は重力により扁平でなだらかな丘に形を変えた。
「どうぞ、お好きに」
恥じらいを含んだ声でミランダが言った。俺はミランダの手をどかして、額をぴしゃりと手で打った。
「馬鹿なこと言ってる場合か。お前、絶対カーチャンに会うなよ」
「何故です?」
「そりゃそうだろ、なんて説明するんだ。悪魔なんて言ってもカーチャンは絶対に信じないからな。どこぞの女を連れ込んだんだって、軽い修羅場になっちまうぞ」
「それでは私はどうすれば?」
「ここで大人しくしてろ。取り敢えず俺が下に行ってくるから。飯が済むまで戻らないと思ってくれていい」
立ち上がり、部屋を出る直前、ミランダを見た。ミランダは不安げな、どこか哀し気な目をしていた。なにか俺が悪いことをしているような気分になってしまう。
「パソコンも好きに使っていいから」
「……あ、ありがとうございます」
俺は下の階に下りた。
「おかえり」
リビングにカーチャンがいた。丁度エプロンを身に着けている後ろ姿だ。夕飯の仕度をするのだろう。
「ただいま、隆志。誰かと話してたの?」
「あ、ああ。ネットゲームだよ」
「そう。……程々にね」
カーチャンは髪を括ると、そのまま振り向かずに台所に立った。それから、静かな時間が流れた。
食卓に並んだのは炒飯だった。カーチャンの炒飯はしょっぱい。米がパラパラで、噛めば噛むほど味が出るようなのは嬉しいが、長く舌に触れるのが憚られる程度にはしょっぱい。それを見越してか、食卓にはしっかり水差しとグラスが用意されている。炒飯を口に運ぶ。焼豚の風味が広がる。しょっぱさが舌を焼く。噛むと、程良い食感と一緒に、米の旨みが楽しい。そしてしょっぱさに耐えかねて、水に手を伸ばす。口を洗うように水を味わうと、しょっぱさが丁度良くなった。なんとなく喉が渇くような気がして、ごくごくと水を飲む。その一連の流れを繰り返すうち、あっという間に食べきってしまった。
「ごちそうさま」
「んー」
カーチャンは寝起きのように荒んだ目付きで、斜め下を見ていた。そこになにがあるというわけではない。宙を見つめているのと同じだ。目は開いているが、目はなにも写していない。炒飯にもほとんど手が付いていなかった。
俺は席を立った。食器を片付けて、二階に戻る。一晩だけという約束だが、そう簡単に事が運ぶとも思えない。ミランダをどうするか、ある程度は考えておかなければ。
部屋に入ると、ミランダが布団に寝そべって、パソコンをいじっていた。ふっくらと丸く、瑞々しい臀部が、黒いガーターに装飾されて、煽情的だった。おまけに、剥き出しになった染み一つない肩口や、ストッキングに包まれ、くねるように重ねられた脚が、蛇が鎌首をもたげたり下したりするように、挑発的に動いていた。
ミランダは俺が入ってきたことに気が付くと、体を横に向けた。肉感的に臀部が突き出され、それまでうつ伏せのために隠れていた胸の膨らみが、気だるげにたるんと揺れつつ、姿を現した。
「Not in Education, Employment or Training」
正直ミランダの媚態に見惚れていた俺は、その唐突な一言で我に返った。
「ニートは略称だったのですね」
「え、あ、ああ、うん。そうだ」
「隆志さまは働いていないのですか?」
「普段は空気中のO2を利用してCO2を生成している。それと自宅警備」
「しかし、それは……」
「文句あんのか」
「いえ、なにも」
その後、ミランダと大した会話はなかった。ぽつりぽつりとミランダが俺に質問して、俺は茶化したり賺したり暈したりしながら質問に答えた。やがて、深夜0時を過ぎた。
「隆志さまはまだ就寝されないのですか」
寝そべる俺の横で正座するミランダが、恐る恐るといった調子で尋ねてきた。
「あと3、4時間は寝ないな」
「そうですか。……あの、お手洗いを借りてもよろしいでしょうか」
「一階にある。もう寝てると思うけど、カーチャンに気付かれないようにな」
「仰せの通りに」
ミランダは部屋を出た。気配が十分に離れたのを確かめて、俺もその後に続いた。これで本当に用を足しに行っただけなら、俺はとんだ変態ということになる。果たして、ミランダはトイレではなく、その隣にある洗面台の前に立っていた。
「……というわけです。隆志さまの説得、及び魂の回収は上手くいきませんでした」
ミランダは俯いて、独り言を喋っているように見える。しかしどうやら、桶に張った水に向けて話をしているらしい。念視や念話をするのに、鏡や水といった、光を反射する物を使うのだ。
「上手くいかなかったで済むと思っているのか」
ミランダのものではない、しわがれて野太い声が聞こえた。魔界にいると思われる、念話の相手だろう。ミランダの上司だろうか。
「せめて、魔王アリゲーリの子を宿して魔界に戻る所存です」
……なんだって?
「成程な。お前には始めから、そういう仕事の方が似合っていたのかもしれん。姉と同じく、卑しく惨めに生きていくのがお似合いだ」
嘲弄する笑い声が高らかに聞こえた。やがて笑い声は小さくなり、聞こえなくなった。念話が終わったのだろう。ミランダは俯いたまま動かない。しかし、拳が強く握り締められていた。有り余る口惜しさが、瘴気に変わって噴出していた。俺はこっそり部屋に戻った。
「なるほどなあ」
部屋に戻って、俺は独りごちる。ミランダのあのころころと変わる態度や、露骨な誘惑に、これで合点がいった。要するに仕事だったわけだ。嫌なことをやらされて、嫌な上司がいて、嫌なことを言われて。働くって大変だな。ならせめてここに居る間くらいは、気を遣わせないようにしてやろう。またパソコンでも使わせてやろうか。そう考えているところに、ミランダが戻ってきた。
「ありがとうございました。人間界は素晴らしいですね。蛇口を捻っただけで水が流れるなんて」
朗らかな笑顔で言うミランダ。健気とは、こういうのを言うのだろうか。
「俺はやっぱりもう寝る」
「え?」
俺は部屋の隅に寝っ転がった。
「布団は譲る。パソコンも好きに使っていいから。じゃ、おやすみ」
ミランダに背を向けて、目を瞑った。俺にできるのはこれくらいだ。自己満足に過ぎないかもしれないが、でも少しくらい助けになれていたら嬉しい。
気分良く目を瞑っていると、全く眠れないことに気が付いた。俺は普段、日が昇り始めてから眠っているのだ。今は深夜。こんな早い時間に眠れるはずなかった。
仕方ないので、ミランダの方に聞き耳を立てることにした。パソコンを上手く使いこなせていないかも知れない。人間界の勉強はしてきたような話をしていたが、魔界にパソコンの実物があったわけではないはずだ。
聞き耳を立てて数分、なんの音も聞こえない。不審がっていると、ついに音が聞こえた。スルスルという、布擦れの音だ。……ん、布擦れ?
パサッ、という、服を打ち捨てたような音も聞こえた。布団の上を歩く音が二歩分、耳に届いた。俺の背中のすぐ側で、誰かが立っている気がする。俺の心臓が強く早く拍動した。
気配に動きがあった。ミランダのおそらく膝が、俺の背中に当たった。柔らかく重量感を感じさせるものが、俺の二の腕を撫でた。柔らかい中にあった、微かに固い小さな感触に、ぞくっと痺れるような感覚がした。うっすらと目を開ける。ミランダの細い腕が、俺の目の前で、床に手を付いていた。
「隆志さま」
甘ったるい吐息と一緒に、甘い声が俺の耳朶を、至近距離で打った――