1-1.トンカツはなんて美味しいんでしょう!素晴らしい人間界。
夢を見ていた。炎の海を練り歩く夢だ。軍団を引き連れて、立ちはだかる敵を悉く討ち果たした。昔の夢、俺の前世の夢。まったく馬鹿らしいが。
今日は早起きだった。カーテンを開けると、日はきっと真上にあった。カーテンを閉めた。さあ、顔を洗おうか、それとも歯を磨こうか?
部屋を出て、一階に下りた。カーチャンはいなかった。パートに行ったのだろう。テーブルにはトンカツとキャベツの千切り、トマトの盛り付けられた皿があった。洗面所に行って、顔を洗う。飯を食ったら、ネトゲでもしようか。
リビングに戻ると、見知らぬ女がトンカツを貪っていた。
「誰だお前」
「ほんにひは、あらふひはひらんふぁほほうひ……」
「食いながら喋るな」
女は、口に入っていたものをごっくんと飲み込んだ。口の端についた食べかすをぺろりと舐め取る。小悪魔チックで端正な顔立ちだった。衣装は白黒のモノトーンで、メイド服に似ている。スカートの丈は太股が露出しているほど短く、ついそちらに目が行ってしまう。ガーターストッキングが脚を膝上まで覆っていた。女は俺の前で姿勢を正すと、脚を交差させ、スカートの裾をつまんでお辞儀した。数瞬の間、白いレースの下着が丸見えになった。
「ご機嫌麗しゅう存じます、間央隆志さま。私は第三魔界から来ました、ミランダと申します」
「……はあ」
にこにことして上機嫌な様子の、このミランダとかいう女。怪しいとか危ない奴だとか思うよりも先に、嫌な予感がした。第三魔界という薄ら寒くなるような痛い単語に、覚えがあったからだ。
「魔界の近況はご存知でしょうか?」
「いや、知らん」
「それでは、僭越ながらご説明させていただきますね」
「いや、要らん」
俺は台所に行って、味噌汁に火をかけた。炊飯器にはしっかりと保温の設定がされている。ご飯を茶碗に盛り、味噌汁を椀に注ぐ。二つをテーブルに並べて気が付いた。
「トンカツぜんぶ食ったのか!?」
「トン、カツ? ああ、あの豚肉のことですね! 美味しゅうございました」
「美味しゅうございましたって、お前……」
ミランダは味を思い出しているのかうっとりとして、舌なめずりをしてみせた。カーチャンのトンカツは冷めていても旨い。表層の衣はカリッとして、歯を突き入れた瞬間、ザクっとした食感が響き渡るようだ。肉に到達すれば、肉汁が溢れてきそうになる。旨みが口の中いっぱいに広がって、ご飯が進む。それを、こいつは、ご飯なしで食っちまったというのか。勿体ない。
「で、用向きはなんだ」
仕方なしに、野菜だけをおかずにする。それはそれとして、このミランダとかいう女を放置しておくわけにもいかない。やっぱり話しだけ聞いて、追い返すことにしよう。ミランダは待ってましたとばかり、俺の正面にまわった。椅子にすとんと座り込むと、瞳を爛々とさせて話し始めた。
「複数ある魔界は、隆志さまの統治を失った後、戦乱の世に突入しました。戦乱は九つの魔界を全て疲弊させ、今、平和を求める声が強く上がっております」
「平和? お前ら悪魔だろ。冗談ならもう少しリアリティを持たせるんだな」
「仰るように、私たちは悪魔ですが、悪魔だからといって争いばかり好むわけではありません。それは隆志さまもご存知のはず」
俺の食事をじっと見ていたミランダが、体を前に傾いだ。口を開けて、舌を突き出した。その上にキャベツの千切りを乗せてやると、体を引っ込めてもしゃもしゃと咀嚼した。
「……ん、おいしい」
「そもそも、なんでそれで俺の所に来る。俺は普通の人間だし、悪魔の求める平和と無関係だろう」
「話はまだまだ終わっておりません! 平和を求めた私たちですが、悪魔である私たちに平和の経験などありませんでした。そこでモデルケースを探したのです」
「モデルケース?」
「そうです! 悪魔の悪魔による悪魔のための平和、それを体現している者を探しました」
「それが俺だと?」
「はい!」
ミランダは元気良く頷いた。また舌を出してきたので、今度はトマトを乗せてやった。もぐもぐと頬を膨らませ、それを嚥下すると、幸せそうに身悶えした。
「もう一度いうぞ。俺は普通の人間だ。悪魔じゃない。モデルケースとやらにはならない」
「ふっふっふ、人間の目は誤魔化せても、悪魔の目は誤魔化せませんよ。肉体は確かに人間のご様子。ですがその魂の絶大なオーラ。七界を己のみの力によって支配した、瘴気の魔王アリゲーリ様に相違ありません」
黒歴史ノートを、読み上げられたような気分だ。
「それで、どうするつもりだ」
「はい! しばらく人間界での生活のご様子を拝見させていだだきたく――」
「帰れ」
食事をぱっぱと済ませて食器を片す。俺は部屋に戻るため、階段を上った。後ろからミランダが慌てたように追いかけてくる。
「お待ちください! 私に生活を覗かれるのがお嫌でしたら、隆志さまが魔界を統治なさるという手もございます! 戦乱はまだ続いているのです! 隆志さまのご手腕で魔界に平和を!」
「危ないだろ! 階段で抱き付くな!」
ミランダを引き剥がし、急いで部屋に向かう。扉に手を掛けようと手を伸ばす。しかし一足おそく、伸ばした手が横から掴まれてしまった。掴まれた手を振り解こうとするが、骨が軋みそうな力で握られた。ミランダは俯いている。桃色の唇が、弧を描いた。薄笑いにはどこか狂気的で不穏な翳りがあった。
「方法は三つです、隆志さま。一つは、隆志さまの生活を観察し、それを魔界での生活に取り入れること。二つ目は、隆志さま、いいえ、アリゲーリ様に再び魔界を統治していただくこと。出来るだけ平和的な、この二つのうちどちらかをお選びください」
「どっちも御免被るな。三つ目は?」
「三つ目で、よろしいのですね?」
「いいからさっさと言え」
「では――」
ミランダの、俺を掴んでいない方の手が、鋭い突きを繰り出した。俺も空いている方の手で、それを掴んだ。あと少し遅ければ、心臓を貫かれていたかもしれない。ミランダが顔を上げた。真紅の瞳と縦に細長い瞳孔。舌なめずりをした。ミランダの周囲に、黒い瘴気の霧が発生した。
「心臓をいただきます。貴方さまの心臓を喰らい、その魂の力を我が物とすれば、戦乱を治めることもできましょう」
「できると思ってんのか?」
「できるでしょう、いくら魂の力が強いと言っても、肉体は所詮ただの人間。現に今も……」
ミランダの爪が、俺の皮膚に食い込み始めた。ミランダは蠱惑的な笑みを浮かべた。
「私、力技は得意でないのですが、これなら……」
「あまり舐めないほうが良い」
「え?」
周囲にあった瘴気の霧が、俺の体に集まってきた。元はミランダが帯びていたものだが、俺は瘴気を自在に操って、自分の力にすることができた。なんてったって、前世の二つ名は瘴気の魔王だ。今となっては実にこっぱずかしい話だが。ミランダの顔色が変わる。ミランダは俺から距離を取ろうとするが、今度は俺がミランダの手を離さなかった。
「反省してろ」
ミランダを放り投げた。ミランダは真っ逆さまに、階段から落ちていった。落ちた音は聞こえない。と思ったら、黒い翼を現したミランダが浮かび上がってきた。俺は部屋に入って、鍵を掛けた。ダンダンダンダン、と何度も扉が叩かれる。
「隆志さま隆志さま隆志さま!」
「うるさいぞ」
「お見それしました、お許し下さい! 私が間違ってございました!」
「帰れ」
「人間の姿になっても、流石は魔王アリゲーリ様! その御力は高位悪魔である私ですら赤子の手を捻るも同然、お見事です、感服です。……お尻の穴でもなんでも舐めますからお許し下さぁい!」
「やめろ」
まさに手のひら返し。尚も扉を叩き続けるミランダ。その気になればこの程度の扉をぶち破るなんてわけないだろうが、それをしないのは、一応、これ以上の敵対をするつもりはないという意思表示なのだろう。それに応じるつもりはないが。このまま諦めて帰ってもらおう。
……そう考えてかれこれ一時間ほど経ったのだが、ミランダはまだ扉を叩き続けている。一時も休まずに叩いていてうるさいので、流石に参ってきた。窓からでも抜け出そう。
カーテンを開けると、浮遊したミランダが窓越しに笑いかけてきた。カーテンを閉めた。扉はまだ叩かれている。扉に近付いてみた。
「おい、ミランダ?」
返事はない。鍵を開けて、扉を開けてみた。
「隆志さま!」
扉を開けた瞬間、雪崩れ込むようにミランダが部屋に侵入した。俺に跳び付いて、そのまま倒れ込んでしまう。
「申し訳ございません私が愚かでございました二度と叛意を向けるような真似は致しません足舐めますね!」
「止せやめろ!」
暴走気味のミランダを押さえつけ、慌ててカーテンを開く。そこには誰もいなかった。
「どうかしたのですか?」
「お前さっき、窓の外にいなかったか?」
「いいえ、ずっと扉を叩いていたではありませんか」
「……そうか、そうだな」
振り返ると、居住まいを正したミランダがじっと俺を見ていた。微笑みを絶やさず、少女的な顔。それでいて視界に入るだけで心臓が跳ね上がりそうな婀娜っぽさ。悪魔の容姿や能力は、その悪魔の魔力で決まる。その力の片鱗しか見せていないが、このミランダという悪魔、相当な食わせ物かもしれない。
「で、どうするんだ。力づくは諦めたんだろうな」
「誓って。隆志さまに仇なすようなことは致しません。誓いの証に私の純潔を捧げましょうか?」
「悪魔のくせに純潔――? あ、いや、それはどうでもいい。これからどうする。魔界に帰るのか」
そう訊くと、ミランダは頬を赤く染めた。そして恭しく頭を下げた。
「どうか末永くお側に」
言っている意味がわからず、気付けば茫然としていた。頭を上げたミランダと目が合う。ミランダは恥ずかし気に目を逸らした。
「ここにいるつもりか」
「ここ、と言うよりは、隆志さまのお側に」
「魔界の平和はどうする」
「定期的に連絡を取るように致しましょう。なんにせよ、隆志さまがご心配なさるようなことはないかと」
「なんで急にそんなこと言い出したんだ」
「急ではありません。元々そういう話をしておりました。まあ、期間が少し長くなりましたが」
「いや待ていや待て、なんでこんなことになってる?」
確かに、悪魔にはより強い者に付き従うという習性がある。それが働いたという可能性も考えられるが、それにしたって大した交戦はしていない。物分かりが良すぎる、なんなんだ、こいつ。始めからこうするつもりだったのか? 俺が頭を抱えていると、ミランダが声を上げた。
「ところで隆志さま。今日は月曜日です」
「それがどうした」
「もう14時を回っております」
「だからなんだ」
「私の調べによれば、人間はこの時間、労働に勤しんでいるはず。隆志さまは人間として、労働なさらないのですか?」
「ああ、なんだ、そのことか……」
人間として労働云々とか言われると、まるで俺が人間じゃないみたいだが、そういうつもりで言っているのではないだろう。要するに、仕事は大丈夫ですか? と聞いているのだ。俺は頷いた。
「毎日が日曜日です」