未来世界の創作活動
ここは、未来の世界。
この世界での創作活動がどうなっているのか?それを見てみよう。
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ある時、オセロやチェスで、人間がコンピューターに敗れるようになった。
時と共に、人間では全く勝てなくなってしまった。
やがて、将棋や囲碁でも同じことが起きるようになっていき、「人がコンピューターに勝利する方が奇跡」とまで言われるようになる。
人間社会は、次々と機械化されていき、人ができる仕事は減っていった。
それは、ある意味で“進歩”であった。人々は長時間の労働から解放され、ゆとりある時間を確保できるようになった。
余った時間でゲームをして遊ぶのもよし。趣味に没頭するのもよし。中には、「後の世に残るようなモノを生み出そう!」と必死になる人々もいた。
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そんな時代、そんな世の中で、コンピューターが次に相手にし始めたのが“創作の世界”であった。
まずは、絵や音楽の仕組みが解析される。過去に作られた膨大な量の作品がデータとしてインプットされていく。それらを組み合わせ、新しい作品が生み出された。
写真を加工して、精密な絵が描かれるようになっていく。デッサンは全く狂っておらず、細部まで描き込まれている。こうして、もはや、人は技術では勝てなくなってしまった。
“名画家”とか“名イラストレーター”と呼ばれる人のタッチが研究され、コンピューターがそのタッチを完全に再現してしまう。しかも技術的には、寸分の狂いがないのである。これで、人間が勝てるはずがない。
抽象画すら、過去のデータの組み合わせで、人間以上に不思議な作品を描けるようになってしまった。
物理的に人間が弾けないような曲でも、コンピューターは簡単に演奏してみせる。
歌声はデータの組み合わせで生み出され、人が出せない音域まで歌い上げるアンドロイドが誕生した。
アニメは、基礎技術が全てデータ化され。ほんのちょっといじるだけで、自分なりに、なめらかな動きをするキャラクターや、リアルな背景や、迫力のある戦闘シーンが作り出せるようになってしまった。
それだけで、人は感動したりはしない。
そこで取り入れられたのが“ゆらぎ”という考え方。
ゆらぎの概念が導入されたことにより、ランダム性をコンピューターに持たせられたのである。これにより、四角四面の角張った作品だけでなく、ある種の人間性を獲得してしまった。
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そうして、ついに物語の世界まで浸食されていく。
過去の名作がデータベース化され、物語は無限の組み合わせを手に入れる。
最初は、人の手を借りなければ、不自然な作品しか生み出せなかったコンピューター。そんなモノに触れても、人々は感動しない。どこか違和感を感じてしまうからだ。
「人間だったら、こんな風には作らないよな~」
「ここ、おかしいだろう。明らかにストーリー的に矛盾があるのに、どうして直さないんだ?」
「いやいや、むしろ、こっちの作品なんて、ストーリーはよくできてるよ。でも、明らかに“作られた”って感じがするんだよね。わざとらしい」
「これなんて、設定的には完璧なんだけど。魅力を感じないよな~」
そのような意見が大多数をしめていた。
そこで、8~9割までをコンピューターが制作し、残りを人間が補完するという方式が取られた。
残り1~2割の部分を人間がバランスを取ることで、読者や視聴者にも自然に受け入れられる形にすることができたのだ。
だが、それも初期~中期の段階の話。
最後のバランスを取る作業だけは人間頼りだったものが、時と共にさらに進化を遂げる。
やがて、コンピューターが単体で、独自の作品を生み出し始めた。その作品に人々は衝撃を受けたり、感動したりするようになっていった。
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今や、自動で無限に物語は生み出されていく。
コンピューターの作り出す物語は、駄作も多かった。けれども、中には類い希なる傑作もあった。
元々、創作の世界とはそういうものなのだ。100に1つ、1000に1つの傑作を生み出せれば、それでいい。残り99作や999作は何の価値もない大駄作で構わない。そういった無数の実験作や、意欲作や、失敗作の積み重ねの上に、歴史に残る最高傑作というのが誕生してきたのだから。
“物量で攻める”というコンピューターのやり方は、ある意味で理にかなっていたのだ。
なにしろ、人間と違って休むことを知らない。24時間365日、常に稼動し続けている。一台が壊れれば、次の1台。それが壊れれば、また次の1台と、代わりはいくらでもいる。
それだけではない。何百台、何千台、何万台というコンピューターが連結し、人間1人が何億年かかっても成し遂げられないような膨大な情報を共有し、処理し、計算し、ありとあらゆるタイプ組み合わせの、ありとあらゆる物語を生み出していった。
人間だと、こうはいかない。
不平を漏らし、やる気をなくし、どうにかこうにか創作活動と向き合うといったしまつ。
やれ「おいしいものが食べたい」だとか、やれ「睡眠が取りたい」だとか、「遊びたい」とか「恋愛がしたい」とか、ブツクサブツクサ文句を垂れながら、どうにかこうにか1つの作品を完成させるのだ。
これでは、到底コンピューターには勝てはしない。
人々は労働から解放され、誰もが創作活動に没頭できるようになった。
けれども、最後に残された“創作”という世界でさえ、人間はコンピューターに勝てなくなってしまったのだ。実に、皮肉な話である。
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ここに1人の作家がいる。
その男に少し話を聞いてみよう。
「小説を書き続けるのは、大変かって?そりゃ、そうさ。そうに決まっている」
男は続ける。
「けどね。だからこそ、やりがいを感じるんだ。過去の名作が全て無価値になってしまった現代だからこそ、できるコトがある。やらねばならぬコトがある!僕は、そう信じて、今日も書き続けているんだよ。コンピューターでは、決して生み出せない最高傑作をね!!」
さらに、男の言葉は続く。
「え?その作品も超えられてしまったらどうするかって?そんなの決まってるじゃないか!さらに、それを上回る傑作を生み出すんだよ!」
どんな世の中になったとしても、このような男は存在するのだ。
それは、ある意味では、非常に愚かな行為だともいえるだろう。決して勝てぬ敵を相手に、無謀とも思える戦いを挑み続ける。
世の中に生きている多くの人はそう思うだろう。
けれども、そこにも意味はあるのだ。
絶対に勝てぬ最強の敵。それを倒してこそ、さらなる人の進歩はあるのだから。
なにより、その無謀とも思える行為そのものに価値がある。それ自体が、既に1つの美しい物語となっているのだから…