【第四章】それぞれの決意
中央国軍第二部隊が北東地域の防衛を為し遂げ、
第一部隊が女騎士を前に敗退したと同時刻。
中央国アルメリアの城内には、とある人探しの客人が訪れていた。
その客人の前には玉座に座したまま話を聞くリオンの姿。
だが、その表情はどこか浮かない顔をしており、少し申し訳なさそうにしていた。
客人は一通り話し終えればリオンの返答を待つ。
話を聞いて、自身の知る限りの情報と知識を巡らせてそれに思い当たる事柄を
探すものの、全くと言ってもいいほどに心当たりがなかった。
短くも深い沈黙の中、ひとつ大きく頷いてからリオンが沈黙を破る。
「…なるほど…。だが、残念ながらそのような者がここを訪れた事はないな。
力になれなくてすまない…。」
リオンがしっかりとした口調で、それでも心から本当に申し訳ないと言えば、
客人はただ「そうですか」と小さく息をつきながら肩を落とした。
白のシャツと黒の燕尾服、その首元に白いマントを一巻きしては背へ下ろす、
綺麗な身成りをしている。
部分的に白のメッシュが混ざる、漆黒を思わせる黒髪をオールバックにした、
黒に近い紫の瞳を持つ色白の背が高い男性。
歳は三十代半ばくらいに見える紳士だ。一見しても旅人などではなく、
どこかの城の使用人ではないかと思うくらい整った姿をしている。
リオンもさすがに、彼が入ってきた時から一般人ではない予感はしていた。
彼自身が貴族か、はたまた貴族に仕える使用人か。
なんとなくだがそんな雰囲気を感じさせる。
それより、身分うんぬんよりも、人探しをしているというのに
「知らない」の一言で帰すのはあまりに薄情な気がしてしまう。
丁寧なお辞儀をしてその場から退室しようとする男を見て、
リオンはすかさず声をかけた。
「ちょっと待ってはくれないだろうか。
この戦乱の中、行方不明者がいるのはさすがに放っておけない。
俺で良ければ力を貸そうか?」
穏やかだか強い意思を宿した声言葉に、
明らかに男はほっとしたような表情で微笑んだ。
帰りかけた身を返し、再びリオンの方へ向き直ると、
その柔らかい物腰で一礼すれば言葉を紡ぐ。
「ありがとうございます。実はもう行く宛てもなくて…。
もしここでも情報がないのであれば、潔く諦めようと思っていたのです…。」
どこか寂しそうな微笑みのまま、落ち着いた低音の声でそう言った。
本当は諦めるなんてことはできないだろう。いや、諦めたくなどないだろう。
しかし、宛てが消えるほど探して迷っているとなれば、
余計放って帰すなどできない。それがこの、リオン・マーティンスという男だ。
そして、この客人の男にとっても、強力な協力者なのは揺るぎのない事実。
どこか辺境の国より、中央に座す国が探してくれるとなれば全方位に目が行く。
それにこの国は中立国の為、各方の情報が常に送られてくる。
何か手掛かりでも掴めるのでは?と、小さいながら期待してもおかしくはなかった。
正直、この申し出に感謝した。
その感謝の現れか、男は丁寧に頭を下げたまま、なかなか顔を上げない。
そんな男にリオンは居た堪れなくなり、
玉座から立ち上がれば少し困惑しながらも数歩歩み寄る。
「その、面を上げてくれ。こういうのは、慣れてないんだ…。」
照れ屋ではない(若干シャイだ)が、明らかに自分より歳上で、
身分も並みではなさそうな身成りの男にさえ、
王族としての威厳で物を述べなくてはならない事に、不慣れで、不器用なのだ。
王子が客人に握手を求め、不器用な言葉、
不安定な笑顔に客人の男は一瞬眺めたまま固まった。
それでもすぐにクスクスと笑い出す。
品のある、静かで嫌味の全くない綺麗な笑い方。
それを目の当たりにし、自分に向けられた柔らかい笑みに無意識に焦ってしまい、
つい王子らしくないありのままの焦った声が漏れた。
「なっ、なんだよ!?」
普通、一国の王子がこんな口調をかけてきたら、
謝ってしまうか呆然としてしまうだろうが、
客人の男は穏やかなままに柔らかい笑顔でリオンと握手を交わす。
「いえ、大変失礼致しました。
ふと…王子様と私の探し人が重なり見えてしまって…。
どうかお許し下さいませ。」
物凄く丁寧な言葉で謝られ、リオンは無性に恥ずかしくなってしまった。
空いた左手で顔を覆い隠すようにしてため息を落とし、なんとか握手を終える。
すると男は至って自然なまま、まるで手馴れたように スッ と跪き、
右手を胸に添え、頭を垂れては言葉を並べた。
「遅くなりました。私の名は、アーバントと申します。
お手を煩わせてしまいますが、どうかよろしくお願い致します。」
再び丁寧な言葉が並んだのを聞けば、
アーバントという男の人となりがわかった気がした。
この丁寧な言葉や物腰は、
自分が王族だからとその場限りで向けられるソレじゃない。
元から身に付いているような、性質そのもののように感じ取れる。
王族の前だからと飾っているわけじゃないとわかった時、
リオンは言い様のない気楽さが心に生まれてきていた。
「こちらこそよろしく頼むよ。俺はリオン・マーティンスだ。」
至って自然なままの笑みを浮かべて軽く一礼するリオン。
その力みのない穏やかな笑顔を見れば、
アーバントはどこか安心したように微笑んだ。
博愛者か、求道者か…。どことなく、大きな余裕と落ち着きさえ感じさせる。
そんな事を思いながらアーバントの身成りを眺め、
やはり浮かんでくる疑問を素直にぶつけてみた。
「本当に突然なんだが、アーバントはどこかの使用人だったりするのか?」
リオンのその質問にただ「あぁ」と小さく笑った。
おそらく聞かれると、何となく気付いていたのだろう。
そりゃそうだ。こんな服装をしているのだから…。
すると、少し乱れていた漆黒のオールバックを軽く撫でて正した。
「ええ。どこ…とは答えられませんが、
とある城でお――…、……お嬢様の執事をさせていただいております。」
…何故あんな微妙な所で言葉が詰まったのかはわからないが、
考えても全く検討もつかない為 無視することにする。
しかし女性、お嬢様の執事ということに十分納得がいった。
異性であり、色々繊細だろう姫に仕えているから、
ここまで完璧な動作、仕草なのだと。
正直、男性で同性のリオンからしても、ここまで出来る執事なら自慢だろうな、
とか、主の姫にも好かれるだろうな。なんて思ってしまう。
そして、素直にそれをぼそりと呟いた。
「アーバントのような執事なら、姫も幸せだろうな。」
「ハハハ…。まあ、その姫を探しているのですが、ね…。」
「そう…、……えっ!?」
「…………え?」
リオンは幸せ話をしたつもりだったが、
アーバントのまさかの返答に短く大きく叫ぶ。困り気味だが笑って言った言葉…
―――「まあ、その姫を探しているのですがね」。
…………………。
アーバントが仕えている〝お嬢様〟、その本人が行方不明だということだった。
「どうしてそんなことに!?」
最近のリオンは良く叫ぶ。そんな気がする、ここ最近。
だが、どこの人かわからないとはいえ、
姫が行方不明というのはあまりに重大過ぎる。
一国の姫、一お嬢様が行方不明など国の大事件だろう。
驚かれても仕方ないのだが、アーバントはその「どうして」という質問に
初めて苦笑いを浮かべる。言うべきか言わぬべきかを考えるよりも、
発する言葉の選択に多少の時間を費やしてしまったように。
それでも、ゆっくりと言葉を並べていく。
「…だいぶ昔の話なのですが、私の国でとある事件が起きたのです。
同じ国内での侵略戦争、反乱が…。
その時の火の手がお嬢様の身に伸びた際、
咄嗟に私は庇ったのです。
ですが、次に目を覚ましたのは見知らぬ場所…。
お嬢様の姿もなく、そのまま今に至るのです…。」
悲惨な事件の話を思い出しながら、慎重に話すアーバント。
その表情は、辛く悲しい出来事と不安のせいか、
苦しさと悲しさの混ざった表情を浮かべていた。
しかし、リオンにはひとつの結論が残酷にも脳内に浮かんでいた。
本当は気の済むまで探せと言いたいが、
先程の〝もう行く宛てがない〟という言葉に言い出せず、
他にかける言葉も見つからない。
そこで、決して代わりにもならない無慈悲に出た言葉は――…。
「…もう、その姫は…」
「いないかもしれません。」
リオンが苦し紛れで絞り出した言葉は最後まで述べられる事もなく、
少しの諦めを感じさせるような、ため息混じりに笑う声が攫い、
不意に完結させた。
あまりにも予想外なくらいに認めてきたアーバントに、
リオンはとても小さく「え…」と零す。
寂しそうだが微笑む…。
まさに半信半疑そのものの痛々しさを見せるが、
それでも諦め切っていないその姿は一人の誠実な執事の姿だった。
主だけを想い、主を探す。
例え主が生きていようと死んでいようとも。
ただ…一目でも会いたいと想い、その姿を追う者の姿…。
「今まで探してきて似た女性は何人もいましたが、どなたも違いました。
それも仕方ないのです…。
私が、大人になった彼女の姿を知らず、
成長した姿がわからず想像で探すから、似た中の本物が掴めないのです…。」
先程の話で〝だいぶ昔の話〟と言っていた時点で、
もしやと思っていたが的中してしまった。
昔に離れ離れになったとなると、探す者も相手も、
お互いに〝その時の姿〟しか知らないこととなる。
つまり〝今の姿〟が全くわからないとの事だ。
…探すのは難しそうだな。とリオンが眉を顰めた時、
ふとアーバントがふわりと笑みを取り戻した。
たとえ、その時で時間が止まってしまっていたとしても、
お嬢様の姿を思い出しては幸せそうに言葉を続けた。
「ですが、いくら似た方を沢山見てきても、
誰一人として、私が声をお掛けした方はおりません。
…わかるのです、違うと。
あの方と本当に似た方など、誰一人といるはずがありません。」
幸せな時間を思い出しているかのように、
目を伏せて静かに語るアーバントの顔は本当に穏やかそのもので、
その姿を見ていたリオンも、つい、つられて笑みが浮かんでしまうほどだった。
「…忘れもしない。薔薇のような紅い髪と、深緑の瞳のあの方を…。」
「!?」
微笑んだ表情が一気に驚愕に変わり固まる。
薔薇色の髪と緑の瞳と聞いて、今ほど頭が冴えたことなどないだろう。
だが、赤髪で緑目の女性など沢山いるのもまた事実。
〝あの騎士〟ではないだろう…と、
リオンは自分勝手ながらもそう解釈する事にした。何故か。
それはとても簡単な事。今の戦争の元凶とも言える東に、
絶対勢力として君臨しているのが〝あの騎士〟だからだ。
攻めるか攻められるかの状況下の中、
再会させる為に向かわせて、人違いで死なれても困る。
かといって、こちらから攻めるわけにもいかないからだった。
「…とにかく今は情報が少ない。だから、ここで待っていてくれないか?」
今はそのお嬢様の目撃情報も、あの騎士の情報も無い。
もしかすると、北方へ向かった軍が何かしら情報を掴んで帰って来るかもしれない。
ただそう祈り、リオンは自軍の帰りを待つ事にした。
「情報が入ればすぐ伝える」。
最後にそう力強く言えば、それを受けてしっかりと頷くアーバント。
心底嬉しそうに、柔らかい安心した笑みを浮かべれば、
「ありがとうございます」と再び深々と頭を下げる。
丁寧な一礼を終え、「失礼します」と今度こそ立ち去ろうとした時、
再びリオンの声に止められてしまう。
呼び止められる事に思い当たる事などなく、
ただ素直に不思議そうな表情で振り返る。
「どこへ行く?ここで待っていろと言っただろ?」
「はい。なので、この国の宿を探してこようかと。
…それとも、まだお話の途中でしたでしょうか?」
「いや、だからここだ。<中央王城内>で待て。」
「………。……はっ!?」
リオンが明らかにこの王城の床を指差すものだから嫌でもわかってしまい、
そのあまりにも突然な提案に、失礼ながらも素直な反応が出てしまう。
つまりも何も、アーバントにこの城内で待て。泊まっていけというのだ。
突然でとんでもない話の為、アーバントの全思考回路が完全に凍った。
それでもリオンは無言の圧力でジッと見つめてきていた。
…何故ここまで頑なな…?
その目を見て、ふと ハッ と我に返れば、素直ながらも冷静さの欠けた言葉が、
頭で考える間もなく喉から出てきた。
「私のような得体の知れない者を城に入れると仰るのですか!?
それは―――!」
「いけません!」と言葉を続けるつもりだった。
だがその言葉は、突如空間に現れた謎の光のホールによって遮られてしまう。
謁見の間、入り口近くに、
異次元ホールと呼ばれる転移魔法の反応が現れたのだ。
何者かの侵入かと、リオンは傍に置いてある騎士槍を構え戦闘体勢に入り、
アーバントは魔法の気配に気付けば、何事かとそのホールを睨み付けていた。
異次元ホールが一度強く光り輝けば、視界が真っ白の光に支配されてしまう。
閃光が収まっていき、何とかうっすらと目を開いた時、
そこには戦地に向かっていた第一部隊の兵士達と、
ルキア、カレン、フォルテの怪我を負った姿が視界に飛び込んできた。
全員を届け終え、まるで役目を果たしたかのように
異次元ホールはプツリと消え失せた。
突然の光景に、リオンもアーバントも驚愕したままに固まってしまう。
「こ…、これは…一体…?」
やっとのことで絞り出した言葉は微かに震え、
あまりにも頼りない声が出てしまった。
しかし、その声に反応したフォルテは一瞬こそ驚いたものの、
痛む体を支えながら起こし、気丈に話し始めた。
「…東にやられたぜ…。
ここにいる全員一応は無事だが、無様にも敵に生かされ、
ここに還されたって事だ…。」
悔しさと無念さで俯く兵士達と、
ただ申し訳なさで戦意喪失してしまって放心状態の兵士達を見れば、
敗戦したのだと、おそらく誰でもわかってしまうだろう。
それでも怒りや失望などはせず、
リオンは一息つけば口元に微かな笑みを浮かべて歩み寄る。
そしてフォルテに手を差し出した。
「負け戦でもいいんだ。お前が…、お前達が無事ならな。
ありがとう、みんな。よく無事に帰ってきてくれた。
よく頑張ってくれたな。――次、共に取り戻すぞ。」
フッと笑いながらも強い意思を含んだ言葉に、
全員がハッとすればそれぞれがしっかりと頷く。
同時に、リオンに感謝と忠誠を誓う兵士達。
期待に応える為、それぞれが固い意思を再度心に宿していた。
だが、ある事実を伝えなくてはならない。
フォルテは一人、決して明るくなどなれなかった。
「だけどな、リオン…。北国リュースは…もう…、…消滅したんだ…。」
「!?」と言葉にならない声を詰まらせるリオン。
雪の大国と呼ばれる、国一の領地を持つ国が消えるなど、
とても信じられなかったのだ。
「何故消滅など…。一体何があった!?」
リオンの焦りと恐怖の混ざった荒い声に、フォルテはただ静かに首を横に振る。
「わかんねぇ…。ただ覚えてるのは女騎士くらいだ。
その女に敗れ、気が付いたら街は消えていた…。
あの力…、人間のソレとは桁違いだ…。」
リオンの頭には、やはり東の〝あの騎士〟が過る。
しかし、もう他に思い当たる人物など該当しそうになく、
横目でアーバントを覗き見てから小さく口を開いた。
「まさか…、薔薇の…?」
隣で、アーバントが驚いたように息を飲んだのがわかった。
だが彼は聞き返しては来ず、ただ続きの話、
フォルテの答えを待つかのように静かに構えているようだった。
おそらく、今はそれを問い質す場合ではないとわかってくれているのだろう。
その気遣いが、今のリオンにはとてもありがたく感じていた。
フォルテは少し考える仕草をし、目を閉じて記憶を辿っているようにしている。
すると、目を閉じたまま、思い出し、辿りながらだがハッキリと言葉を返してきた。
「言われてみればそう、薔薇のような騎士だった。
紅く艶やかな髪と深緑の瞳。
それに全てを隠すような、白い闇のような騎士服でな…。」
別に女好きというわけではもちろんないが、
言葉選びに何か拘りがあるように好印象的な綴り方をした。
惚れているわけでもない。
ただ、それを若干の苦笑いで聞いているリオンを見ると、まあ時々ある事のようだ。
そんな時、急にハッとして目を開けば静かに、
それでいて確信を得たように強く言う。
「そうだ、確か…シエル。シエルと名乗った!」
「!!」
誰よりも強く、ハッキリとした反応を返したのはアーバントだった。
だが、その表情はただの驚きとは違う、
驚愕と疑心、恐怖といった複雑な顔色を覗かせていた。
その複雑な状態に違和感を覚えつつ、リオンが「本人か?」と問いたが、
予想を反して首をゆったりと横に振る。
「…お嬢様の妹君の名前です。…シエル…、ええ…間違いございません。」
その場にいた全員が驚き、身を固めてしまった。
お嬢様の妹となればまたお嬢様であり、身分もそれなりに高い存在の為、
実権もあり実力もあるという、なかなか厄介な存在かもしれないと。
だが、リオンはすぐに「そうか…」と背中をぽんと叩いては
それ以上何も言わなかった。
…アーバントの背が、微かに震えていたから…。
その状況を見て理解したのか、それ以上の話を今は飲み込んだフォルテや兵士達。
問い詰める事をして来ない周りに感謝しつつ、
リオンはアーバントの代わりに軽く紹介をする。
「彼はアーバント。
そのシエルの姉が行方不明らしくてな、姉の方を探している執事だ。
これから何度も顔を合わせるだろうから、よろしく頼む。」
リオンに紹介してもらえば、アーバントは力無い笑顔を浮かべて一礼をした。
兵士達も続いて一礼を返し、
フォルテも軽く一礼してから皮肉るように言葉を返した。
「だが…妹が刃を振るう中、姉は行方不明か…。ちょっと怪しいな…。」
「それ…、なのですが…。」
信じられないくらい怯えた声が耳に届く。
そんな声色を向けられたフォルテは小さく驚いてから表情を戻す。
先程まではスマートな紳士の中の紳士といった、
余裕のある感じであったアーバントが明らかに震えていた。
これはただ事じゃない、そんな予感が拭えなかった。
そんな予感の中、続く言葉を全員は静かに待つ。
そして、少しの沈黙の後に続けられた言葉に、全員は耳を疑う事となる。
「シエル様は…遠い昔に、――亡くなっております…。」
「なッ!!?」
誰の声かも取れないくらい、ほぼ全員が同じ反応を返した。
そう、つまり、既に他界している人間が今、
何故か存在しているということになるのだ。
それはあまりにも信じがたく、
恐ろしい夢を見せられたかのような気分になってしまう。
…幽霊の姿さえ過ってしまう。
周りが微妙な空気に包まれる中、
ひとり冷静に考える仕草をするフォルテはある考えが頭に浮かんだ。
「…まさか、…アイツも……。」
「ん? なんだ?」
「…いやな、その薔薇の騎士だが…。
傍らに複数の屍みたいなヤツらを連れていたんだ。」
「!?」
やはり、報告される言葉ひとつひとつにアーバントは明らかな反応を示す。
何か知っている―――?
そう思った時。
「リオン王子大変です!南の国…アスル都が消滅したと!!」
「なん、だと…ッ!?」
北と南がこの短時間で消えたという、あまりにも恐ろしい報せだった。
絶望や恐怖より、今はただ唖然としてしまってどうしていいかすらわからずにいた。
全員がこのあまりにも早い攻撃とその威力に混乱してしまい、
動きの鈍った頭で考えを巡らそうとする中、息を詰まらせては、
信じられないというような様子で震えるフォルテ。
少しの時間の後、我を取り戻したように意識が戻れば、伝令の兵士へと詰め寄った。
「アスル…だとッ!?オイッ、住民は?みんなは無事なのかッ!?」
突然の掴みかからんばかりの勢いで詰められ、
伝令兵も驚いたように数歩下がってしまう。
だが、伝令で聞いている話は浅く、詳細まではわからずにいた。
あまりにも突然で衝撃的な話の為、
まだほとんどの人がハッキリ把握などできていないのだろう。
「そ、それはまだ…。今は安否の確認も済んでおらず、ただ、消滅したと…!」
「―――ッ…!!」
絶望という言葉を突き刺されたように息を詰まらせたフォルテだが、
彼がここまで焦っては冷静さを欠く理由はもちろんある。
消滅したという南の水の大都アスル。そこはフォルテの故郷だからだ。
アスルには知り合いも、そして唯一の肉親である弟がいる。
そんな場所が安否もわからず消滅したのだ。
「……フォルテ…。」
呆然と震えているフォルテを見て、ふわりとした優しい声がその背中に触れた。
言葉を返す余裕などなく、その触れる手の主を黙って見る事しかできなかった。
「…きっと平気だって、みんな生きてるって信じよう?
アスルの人も、リュースの人も、簡単に奪われて倒れる人じゃない。
だから、私たちで信じていよう?」
優しく包むように、安心して励ますように言葉を綴ったのはカレンだった。
自分の故郷、リュースも同じ被害に遭いながら、
他人を心配しては頑張ろうと言ってくれる強さに、
フォルテは心を鎮める事が出来た。
乱れた思考と心を落ち着ける為に、静かに目を閉じてゆっくりと息を吐く。
そして、落ち着けた様子を浮かべ、
カレンへと視線を投げては口元だけで笑ってみせる。
「…すまん。取り乱した。…そうだよな、オレたちが信じてやらなきゃな。
アイツらは簡単に死なねえ、そんなこと信じてるさ。」
いつも通りの調子に戻ったフォルテを見て、
カレンは無邪気に笑っては「そうだよ!」なんてガッツポーズを見せてきた。
時々、大人っぽいんだか子供っぽいんだかわからなくなるカレンに、
周りは小さな笑みを零した。その時だった。
話が聞こえていたのか、ある一人が体を起こしては小さく悔しさを零す。
「私が…、取り逃がしたせいだ…!」
か細く悔しさを言い捨てたのはルキアだった。
話の途中で意識を取り戻したのだろう。
隊長に支えられながら体を起こし、唇を噛んでは左手で右腕を掴んでいた。
傷は深くないが、ぶつかり合った衝撃の強さで未だに腕が震えているようだ。
そんな体の悲鳴を無視して、
ルキアは感情だけが先走っているように震える口を開く。
「…絶対に取り戻す。だから…、行かせてくれ…。」
腕の震えか心の震えか、どちらにせよルキアのその決意の言葉すらも震わせていた。
感情だけが先走っているルキアの様子を見れば、リオンは眉を動かす。
少し呆れたような、それでも怒りを抱いたような複雑な表情だった。
そんな小さく構える表情からは想像がつかないほどの声と言葉が飛び出した。
「ふざけんなッ!!そういうことは無傷の状態で言えッ!
お前に今できる事は傷を治す事!それだけだ!!
そんな怪我して震えた体で…、あまり俺に心配かけさせんなッ!!!」
強く怒鳴り、珍しいくらいの大声でその言葉達は吐き出された。
直接その言葉達を向けられて、言葉を詰まらせて黙ってしまったルキアはもちろん、
長年仕えてきた隊長や兵士達も、フォルテとカレンすらも驚いてしまっていた。
しかし、口こそ悪いものの、言葉そのものは心配と気遣いが見える。
優しさからの叱咤だと、本気でリオンは心配で仕方なかったのだと、
吐かれた言葉からわかる。すると、自分で言っておいて何か恥ずかしかったのか、
急に焦った口調で間を取らず続けて言い放った。
「救護班!皆を医務室へ!治療を頼む!」
命じられた救護班に連れて行かれていく兵士達やルキア、フォルテ、カレン。
あまり大きな怪我は負ってないと見てとれるが、疲労困憊なのも見てとれる。
大人数が運ばれていく中、謁見の間に再び静けさが戻ろうとしていた。
すると、最後に部屋を後にしようとしたフォルテが、
医師に支えられながらも振り返る。
「リオン、気を付けろ…。
東やあの騎士は一筋縄でどうにかなるようなヤツらじゃない…。
…無理だけはするな…。」
それだけを痛いくらい真剣な眼差しで言えば、医師と共に部屋を去っていった。
リオンとアーバントと伝令兵だけとなれば、リオンは再び玉座に座り直し、
伝令兵がすぐに前へ跪く。
その様子を見れば、アーバントはリオンから少し離れた横へ捌けた。
「アスル都は何故消滅した?」
当たり前で誰もが知りたい答え。
その当然の質問だったというのに、伝令兵には若干の困惑の色が伺えた。
手元にあった小さな手紙のような紙面に目を落とし、
首を傾げながら詳細な報告に入る。
「それが、原因不明と書かれておりまして…。
私に伝達に来た兵士も、ただ〝女騎士が〟としか言っておらず…。」
やはり南のアスルにも〝あの騎士〟が絡んでいたという事実が重くのしかかる。
北を消滅させ、その後すぐ南へ出向き、同じように消滅させたということだった。
もちろん北から南へなどかなりの距離があるが、
先程ルキア達を運んだ転移術に長けているのであれば、
自分一人を転移させることなどきっと容易いのだろう。
確実に女騎士は全てを知っている。
ならば、いずれ近い内に相見える事になるだろう。と、
リオンは恐怖と覚悟の入り雑じった緊張感を抱いていた。
そんな時、伝令兵はふと苦笑いを零しては
「そんなバカな」と言いたげな表情を浮かべた。
「ただ…全員おかしな事を言っておりまして…。
人じゃない異形の者を見たと…。
まるで屍だったと…。…はは、まさかですよね。」
苦笑いのまま、まるで振り切ろうとするかのように笑う伝令兵。
その様子にリオンは何かに気付いては軽く笑い、
少し考えてからすぐに一つの答えを返す。
「魔物の類かもしれないな。西の者にも注意するよう伝えてくれ。」
「わかりました。それでは失礼します!」
…と、明らかにリオンの答えにほっとした表情でパタパタと走り去っていった。
先程の不自然な苦笑いもなく、ただ真剣そのものの吹っ切れた清々しい顔で。
「…あいつ、幽霊苦手だな。」
ぼそりと呟いては静かな笑みを浮かべたリオン。
その様子を見ていたアーバントも、つられてクスクスと上品な笑みを零す。
隣からの笑う声に顔を向け、次に自分からの距離を計るように床を見れば
「ほぉ」と小さく感心する。
「なるほど、さすがだ。本当に出来た執事だな。…姫も自慢だろう。」
「?」とアーバントはなんの事かわかっていないらしく、
リオンの言葉にただ首を緩く傾げた。
玉座に座る者の隣、その適度に間隔の空いた少し後方。
そこに立つアーバントの正し立つ姿は本物だった。
真隣りではなく一歩分下がった、視界の邪魔にならずも、
後方で守り立つ兵士のように無意識に立っていたのだ。
細かく指摘せず、ただアバウトに褒めただけだったのに、
先程までは「?」を浮かべたままだったアーバントの表情が突如ハッとした。
その瞬間にパタパタと急ぎ足で玉座の前、
先程伝令兵が跪いていた場所へ向かえば、その場で同じように跪いた。
「も、申し訳ございません…。
どうしてもリオン様を見ているとお嬢様と重なってしまって…。
いくら従者として長くても、王子様に失礼な真似をしてしまいました。」
心底申し訳なさそうに静かに言えば、リオンが何故か酷く困惑していた。
やはり、どうにもアーバントに跪かれると居心地が悪いのか、
落ち着かない様子だった。ただの従者ではないような気がしてならない…。
そんな思いが胸にあるからなのだろう。
正直、執事だと言うものの、身分が全くわからないのもまた落ち着かない理由だ。
しかしお嬢様の件といい、従者の身で身分を語る事などないだろう。
だから今はまだ聞くわけにもいかなかった。
それよりも、今はそれ以上にある疑問が浮かんでいた。
「な、なぁ。さっきから思っていたんだが、
そんなに俺ってその姫に似てるのか…?」
ものすごく複雑な表情で聞いてみた。それはそうだろう。
男女という違いがあるというのにそれほど似るものなのか?
性格が似てるとしても、こんな風な姫なのか。
外見だとしたら…、もう、どっちが悪いのか。
リオンが女っぽい顔なのか。姫が男っぽい顔なのか。
せめて前者であってほしくない。指摘されるのすら嫌だ。
そんな様々な考えがグルグルしていた中、それを察したのか、
アーバントは不意に微笑みを浮かべた。
「フフッ、大丈夫です。雰囲気が似ているだけですから。」
雰囲気だなんて言われたらもっと気になってしまう。
自分の雰囲気なんて自分ではわからないものだから尚更である。
するとまた察したのか、
リオンの表情だけで聞きたい事がわかったかのように言葉を続けた。
「その姿勢や先程の武器の構え方…。ほんの小さく些細な事なのですが、
同じ闇の属に愛された者の風だからでしょうか。
不思議と懐かしい気持ちになるのです。誠に失礼な事にも…。」
その言葉の途端、リオンは正直に驚いてしまっていた。
先程、アーバント本人は何の事もなく普通に〝闇の属に愛された者〟と、
完璧にリオンの属性を当ててきたからだ。
そう、この世界には、世界を構成する7つの属性があり、
人は生を受けたその瞬間に、世界からの恩恵として属性を授かるという。
親の遺伝とは全く関係なく、個人としてそれぞれが授かるのだ。
火、水、雷、風、地、闇、光。
この中でリオンは闇の恩恵を受けた者であり、
そんな内面の力の事を見抜き指摘してきた事に驚いてしまった。
それに、この属性は一人ひとつ。
ほんの稀に二つの属性を持つ者が存在するというが、滅多にいないのが現実。
少しの不審感と、大きな驚きを抱いたままリオンは口を開いた。
「アーバントは、何かの能力者なのか?
先程から俺の聞きたい事がわかっているように話し、
属性まで言い当てるなど…。」
少しの不審感と恐怖を隠しながら話したはずが、やはり気付かれてしまったのか。
アーバントは今までに無いくらい影を纏った笑みを浮かべた。
不気味さではない。何か物悲しそうに笑ったのだ。
そこまでしかわからず、リオンには彼のように人の考えを読む術に長けていなければ
経験もなく、ただアーバントの言葉を待つしかなかった。
すると、少しの沈黙を破っては重々しく開かれた口から、
柔らかく笑いながらも辛そうな音色を含んだ言葉が短く呟かれた。
「…怖い、ですか?」
反射的に「えっ」と言ってしまうが続く言葉は出なかった。
誰だって心を読まれるのは怖いものであり、今の状態で
〝怖くない〟だなんて言ったって、どうせ嘘だとすぐにバレてしまうだろう。
全く言葉が見つからず焦ってしまうリオンだったが、それを感じたか感じてないか、
アーバントは一息つけばゆっくりと話し始めた。
「…わかるのです。その人が纏う風、その人を纏う風で。
もちろん、我ながら何故わかるのか…不気味に思う時もあります。
ですから、他人から〝怖い〟と思われても仕方ない。
…それに、私は幼い頃から人の顔色を伺って話すばかりで、
その人の気持ちや考えを読んでから話す事が多く、
それが〝聞きたい事がわかっている〟と感じさせるのでしょう。
…フフ、これは職業柄…とも言えますが。」
最後こそ冗談っぽく笑ってみせたが、
それまでの言葉は酷く辛そうに見えたのは気のせいだろうか?
確かに能力だけを見てしまうと〝不気味〟や〝怖い〟と思えてしまうだろう。
しかし、話を聞いたリオンはそう思えなかった。
ほんの少し前に会って、今まで話していただけだが、
とてもそんな悪い意味で怖いものとは思えなかったのだ。
むしろ執事の鑑、同じ男としてすごい人とも思っていた。
だが、それをどう言葉にしたらいいのかがわからず、微妙な間が開いてしまった。
その時も、アーバントは変わらず笑ってなんてみせる。
…やはり見間違いなどではない。
彼ほどの読む力などなくても、今の笑顔が心配させないように取り繕われた、
無理矢理の笑みだと気付けた。
「いいのですよ、怖がられるのは慣れております。
………。こんな男を城に入れるのは大変危険かと。大丈夫です、私は―」
「怖くなんてないぞ、俺は。」
やっと喉から出てきた言葉で、アーバントの苦し紛れの言葉を容赦なく叩き切る。
そして、一度制御を抜けて飛び出した言葉は、もう何の障害もなく続いていく。
それはリオンという男の本心、そして今は代理とはいえ一国の王としての言葉。
「俺は死霊術士だ。霊だろうと怪奇であろうと受け入れる。
アーバントのその力、最初こそ怖いと感じたが、
話を聞いて正直羨ましいとも思ったよ。今となれば怖いなんて事はない。
それに俺にだってわかるさ…。
貴方が只者ではない、強い何かを持っていることくらいは。
とにかく今は状況が状況の為、何より強い人手が欲しい。
…実はこれが本心だ。どうだろう?力を貸してくれないか?」
歩み寄るリオンの強く確かな器量に驚いたものの、その瞳と差し出された手に、
ふと柔らかな笑みを浮かべてはその手を取り、しっかりと握り返した。
「…ありがとうございます、リオン様。
私でよろしければ力をお貸し致します。」
グッと力強く握手を交わす二人。お互いがお互いに強力な助っ人と感じていた時、
リオンが「あっ」と何かに気付いては声を上げた。
「最初はアーバントが姫の捜索に力を貸してくれと来たのに、
結局、こちらの国の問題に巻き込んでしまったな。」
「? いいのですよ。
実際に二ヵ国を消滅させた女性がシエル様ならば、
何かしらご存知かもしれません。目的地、狙う場所は同じです。」
目的が目的、状況が状況とはいえ、
何の文句ひとつ言わず助力してくれるアーバントに、
リオンはとても心強く有り難さも感じていた。
リオンが小さく「ありがとう」と言えば、
また綺麗に静かに微笑みを向けるアーバント。
おそらく姫に怖がられないよう練習したのだろうな、なんて思ってしまう。
とか思って一人感心していた瞬間、
急にアーバントが笑みを黒く変えて不敵に笑った。
「そういえば、やはり死霊術士だったのですね。
だから異形の者、屍と聞いても表情ひとつ変えず驚かなかった…。」
「!?」
そういえば、さっき咄嗟だったとはいえ死霊術士と言った気がした。
それを〝やはり〟と返したということは、〝何となく気付いていたが、
確証がないので自白するのを待っていた〟ということだった。
しかし、そう気付いた時にはもう遅かった。
さりげなくその人の情報を聞き出すという技を見せられた事で、
とんでもない執事だと確証を心に抱く。
「お、お前…やっぱ怖いぞ…。」
素直に喋ったリオンもリオンだが、まんまと嵌められた気分になり、
物凄くげっそりした顔でそんな事を言うからか、反してアーバントはニコリと笑う。
「ありがとうございます。」
「誉めてねえよッ!!!」
アーバントの穏やかな言葉を潰しにかかる勢いで放たれたリオンの怒声。
そのあまりにも乗ってきた反応に笑みが増す中、
ふと何か思い出したかのようにアーバントの表情が真剣に戻る。
「あっ、そうだ。」
「なっ。…何だ。」
真剣なのに出てきた突然のアーバントの私語に、
意表を突かれたように困惑するリオン。正直な話、表情は真剣なのに、
急に私語で話してきたアーバントの考え、感情は全くわからなかった。
「あの銀髪の綺麗な女性、好きな方なら大切に――」
「アァァァバントォォォォォォーーーーッ!!!!?
貴様ッ、呪ってやるッ!!!!!」
完全に言葉を喰って潰したリオン。ギャイギャイと暴れるリオンと、
それをただ静かに微笑んで制止しようとするアーバント。
リオンにとっては大騒動だが、
それでも先程までのピリピリした空気は元の穏やかな雰囲気に戻っていた。
おそらくアーバントは、謁見の間に張り詰めていた
息の詰まる緊迫した雰囲気を変えたかったのだろう。
まだ若き王子の首を絞めないように。
そしてきっと、自身の主と姿を重ね、
同じように守ろうとした為の行動でもあったのだろう。
もう存在しないかもしれない、その姫を想って―――…。
〜???〜
「クククッ。アルメリアが進行してきた際は作戦を強行する…。」
「…了解しました。各兵に伝えておきます。」
・・・ ・・・ ・・・ ・・・
グランヴァル帝国王城、とある王室の一室。
涼しい微風が静かに流れていくこの場所。
しかし、時折重く乾いた咳が耳を突く。本来の皇帝、バイドの自室だ。
今回はそこに息子のラルファースが訪れていたが、
バイドは仰向けで目を閉じていた。
「僕は、父上を置いてまで一人で逃げませんよ。」
寂しそうに俯きながらも、
決して譲らないとばかりに強めでハッキリと言葉を発する。
そんな息子の様子にバイドの口角が緩やかに上がった。
「弱ったおっさんなんて置いていけば良いのに…。
こんな体じゃ、共に逃げたって足手まといだぞ…?」
笑った顔でとんでもなく重く悲しい言葉を返してきた。
冗談か本気か。どちらとも言えない声色と表情の為、
ラルファースは続く言葉を見付けられずに黙ってしまう。
そんな姿を見て「まったく…」と、今度は呆れ顔を浮かべた。
しかし、バイドが一切訂正をしてこないところを見ると、
あの言葉が多少とはいえ本気だったのだと痛感する。
いざとなれば切り捨てろ、と…。
交わす言葉が互いに切れてしまい、気まずい静寂に包まれてしまう。
と、そんな時。
ラルファースは何かに気付けば空中に漂う仄かな香りを嗅いだ。
その息子の姿を見れば、バイドがクスリとひとつの笑みを零した。
「…はは、私とティアノは犬を生んだかな?」
嗅ぎ慣れない香りなのか、
ラルファースは本当に子犬のように香りの正体を確かめようとしていた。
一頻り思い当たる香りを思い浮かべ照らし合わせてみたが、
どうやら該当するものがなかったのか「んん?」と首を傾げた。
「この香り、父上の使う香の中にはありませんよね?この香りは?」
「…ふむ、犬か。」
バイドの言葉を完全無視して香りについて話すもんだから、
そんなラルファースにとうとう「犬」と確定してきた。
もちろんラルファース本人は「え?」ときょとん顔だった。
それを再び笑って返してからゆっくり体を起こせば、
寝台の隣の棚からティーポットとカップを手に取る。
そのままカップに中身を注いでラルファースに手渡した。
それから棚に置いてあるお香を指差す。
「この二つの香りだろう。最近はずっとこの生活だ…。」
手元で香る爽やかでいて柔らかな花ハーブの香り。
空間では穏やかなラベンダーのような落ち着いた香り。
この二つの香りは混ざり合うと、
とても優しい爽やかなハーブ系の香りになるようだ。
決して濃くはなく女らしい香りでもない、まるで森林浴に来ているような…。
そんな仄かな花ハーブの香りだった。
そして、手渡された温かな手の中のカップには、
とても澄んだ赤色の紅茶が揺らいでいる。
「…食事はあまり摂れなくてな…。
それでせめて飲み物くらいは、と彼女が淹れてくれるんだ…。」
「彼女?」
もうひとつのカップで紅茶を飲むバイドは、
「あぁ」と小さく言えばカップを置いた。
「…もしかしてお前はまだ会ってないのか?
紅い髪で白い騎士服を着た女性だよ。
気分を変える為か、毎度紅茶の種類を変えて淹れてくれるんだ…。」
「!!」
小さく驚いたせいでカップの中の赤い液体が大きく揺らいだ。
明らかにビックリして動揺してしまった為、
それを誤魔化す為にカップを持ち上げて口に運んでしまう。
一口だけ飲んでゆっくりとカップを口から離す。
それからハッとしては血の気が引いていくのがわかる。
…あ、しまった。とラルファースの脳内でその言葉がゆっくりと過った。
「…おいおい。何もそんな話の途中に焦って飲まなくても…。……逃げないぞ?」
なんてバイドは不思議に思いつつも笑って、
ラルファースを見てから自分も一口紅茶を飲んだ。
しかし、ラルファースは決して穏やかではいられなかった。
まだ敵と確定したわけでもなければ、味方と確定したわけでもない〝あの女騎士〟。
それでも、今の〝あの男〟を現皇帝とする為なら、
バイドが口に運ぶ物には何か細工がしてあるかもしれない。
それを予感して身構えずにはいられなかったのだ。
だが即効性はなさそうで、喉を潤す柔らかく温かい感覚が残る。
喉から鼻に抜ける爽やかで優しい花ハーブの香りに、
心身共に癒されるような感覚すら感じさせる。
「………あれ? …おいしい。」
「だろう?」と明るく無邪気に笑って見せるバイドを見てふと気付く。
「父上、少し元気になられましたか?体も起こせていますし。」
その言葉に少しだけ昔のように大口で笑って見せた。
そして、その笑みの後には昔の皇帝らしい、鋭い眼差しでラルファースを見据えた。
力強く威厳のある皇帝の瞳。久々に見た、本来の父の姿だ。
「いいか?ラルファース。誰かを置いて逃げるのは恥じゃない。
ましてや、弱った者を捨てる覚悟も必要な時があるんだ。
…私ら、王族にはな。
だから、危なくなったら無理せず逃げろ。アルメリアへ!
お前が生きている限り、私は絶対に死なん!
だから、―――必ず生きろ。」
父の威厳と覚悟、自分の甘い理想と父の厳しい現実に、
ラルファースは言葉を失ってしまう。
もちろん、その言葉の裏に隠された〝死の予感〟にラルファースは気付いていた。
元気なのは空元気なのか、最期だから自分の前では気丈でいるのか。
そう思った瞬間きつく胸が締め付けられ、息苦しさと共に目に涙が滲んでしまう。
バイドはその姿を見て察したのか、あえて厳しい表情のまま続けて言い放った。
「行け、ラルファース。
未来のお前の帝国を…、――王族の意地と誇りを、民を守れ。
お前なりのやり方でいい。お前のやりたい事をやりに行け。」
最後にフッと笑って言い終えるバイドに、クッと涙と震えを堪えて向き合う。
カップを棚へ返し、静かにしっかりとした口調で、
確かな決意を抱いたラルファースの姿がそこにはあった。
「紅茶、ごちそうさまでした。おいしかったです。
………。僕は…真実と平和を、みんなで掴んでみせます。
…ありがとうございます、父上。僕に勇気をくれて。
…………っ、……父、上…っ……。」
最後の言葉を言おうとした時、決意の心と裏腹に抱いていた悲しさが表に現れ、
必死に堪えていた涙がポロポロと零れてしまう。
向かい合うバイドは急な息子の涙に酷く驚いていたが、
涙を拭う事をしない姿にふと、切なそうな、満足そうな笑みを返した。
そんな父の表情に、さらに寂しさが増して涙が零れる。
グイッとやや乱暴に裾で涙を拭うと、泣き顔でボロボロのまま声を絞り出した。
「―――大好きです…っ!」
全ての想い、全ての感謝をこのたった一言に込めて言い切れば、
そのまま駆け出し、部屋を飛び出して行ってしまう。
その息子の姿さえ優しく微笑んで見送ったバイドの姿は、一国の皇帝というよりも、
一人の父親そのものだった。
再び一人という静寂に支配された空間に返ると、
少しだけ、辛く切なそうな顔をした。
「…男があんな顔で泣くなよなぁ。
………。…なぁ、ティアノ…。お前も、どこかで無事に生きているよな?
必ず、どこ…――ッ! ゴホッゴホッ!!」
急に込み上げる違和感に、強く湿った咳をする。
しばらく長い間咳が続き、落ち着き始めた頃に口元に当てていた手を離しては、
深々とため息をつく。そして不意に口角を上げて笑い、
窓から空を見上げて、怪しく笑いながらも強い口調で一人呟く。
「…私が死んだって帝国も世界も変わらんぞ?
我が国民を甘く見るなよ…。無能で愚かな〝ギラード〟よ…。」
空を仰ぎ見ながら、強い意志のままに言葉を放つバイド。
口元から離された右手はベッドの上に力無く置かれていたが、
その彼の右手は多量の血で染まっていた。
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