床下から
「素敵なお庭ですねー」
リビングから見える庭は、夏だからだろうか、緑が目立つ。様々なハーブが群生する中に、レンガの道が一本通っていて、その先に白いガーデンチェアとこれまた白いパラソルが据えられている。
「お母さんの趣味やねん」
小夜の言葉に、美沙子は愛想よく笑って、リビングのテーブルにグラスを並べる。アイスティーの入ったグラスには、レモンが浮かんでいる。シロップとストローをそれぞれのグラスの横に並べる動作は、とても様になっている。
「私、カフェでバイトしてるねん。そこの紅茶葉を分けてもらってるねんけど、レモンティーにするのが一番おいしいねん」
思わず見入ってしまっていた佳奈に、美沙子は笑いながら話した。
「バイトですかー。ちょっと憧れます」
「小夜ちゃんはバイトしないん?」
「私は……実家の手伝いがあるんで、できないんですよ」
いつの間にか小夜と美沙子が打ち解けていて、佳奈は少し淋しいような気持ちになっていた。
佳奈が一口、アイスティーを口に含むと、風味の良い紅茶と、それを邪魔しない程度にレモンの爽やかな香りが広がる。満足そうに紅茶を飲む佳奈を見ていた美沙子が、申し訳なさそうに口を開いた。
「でもごめんね、せっかく来てもらったのに……」
「いえ、こちらこそ、急にお邪魔しちゃってすみません」
美沙子が誤ったのは、愛犬のココがいないことだった。小夜の申し出で、ココを見に来たはずだったのだが、そのココは美沙子の母が、友達との旅行に連れて行ってしまっていたのだ。
「素敵なお庭を見せてもらえたましたし」
小夜が微笑むと、美沙子は嬉しそうに笑った。
「私も、二人が来てくれてほっとしてる」
「ほっと……?」
佳奈が首を傾げると、美沙子は居心地悪そうな表情になって、部屋の中を見回した。
「佳奈ちゃんには、前にも話したと思うねんけど……。この家、変な物音するねん」
ああ、と佳奈は納得したように頷いた。
「変なこと言う人やって思われるかもしれへんけど」
美沙子は、ぽつりぽつりと話し出した。
佳奈と話した日から、床下の物音はしだいに激しくなっていった。夜中に床下を這い回るように響いていた音は、昼間にも聞こえるようになった。母が、あまりにも気にするので、害虫駆除の業者に入ってもらったのだが、その担当者の言葉に美沙子は当惑した。
「何もおらんかったらしいんよ。それどころか、何かがいた形跡もないって……」
床下に何か動物が入り込めば、それなりの形跡は残るものだが、美沙子宅の床下にはそれがなかったという。
業者に不信感を抱いた美沙子は、他の業者にも何件か入ってもらったのだが、どの業者も皆一様に同じことを言う。
「変よね、絶対に物音はしてるのに、何もいないなんて……。気味が悪いわ」
「気のせいかもしれませんよ」
「そんな……でも、確かに……」
佳奈が明るく言うと、美沙子の表情は暗くなる。
その時だった。
佳奈の耳に、ずっ、という音が聞こえた。
「え……」
思わず声を漏らした佳奈の隣で、美沙子が身を固くする。
「気のせい、ですよね?」
佳奈が言うのと同時に、ずずっ、と今度は長めの音が聞こえる。
誰もいないはずの廊下で、重たい荷物を引きずるような音がしている。
「おば様が帰ってきたとか?」
佳奈が明るく言うと、美沙子が力無く首を振った。
「自分の家に帰ってきて、何も言わない人なんておる?」
確かにそうだ。一人暮らしならばまだしも、家族との住まいに、無言で入ってくるわけは無いだろう。玄関には、佳奈と小夜の靴があるのだからなおさらだ。
そんな話をしている間にも、音はどんどん近づいてくる。
ずずっ……ずっ……ず……
玄関から、リビングの入り口まで、まっすぐに進んでいる。
もうすぐ、リビングの入り口に差し掛かる。三人は息を潜めて入り口のドアを凝視する。
ずっ……
それを最後に、音が止んだ。入り口から進んできたものの正体が見える前に、まるで掻き消えたかのように音がしなくなったのだ。家の中に、静寂が訪れた。
佳奈は驚いていたし、美沙子はすっかり怯えてしまっていた。
「家の中まで入ってきたのは、初めてですか?」
口を開いたのは、小夜だった。
「え、ええ。そうね、いつもは床下から、今の音が……」
そこまで言って、美沙子は黙ってしまった。
何者かが、床下を這い回っていた何かが、家の中まで入ってきている。
その事実が恐ろしかったのだ。
「美沙子さん……」
佳奈は、申し訳なく思っていた。
美沙子の話を、半ば冗談か気のせいだろうと思っていたのだが、事態は深刻だった。心霊の類に疎い佳奈でも、流石にわかってしまった。今の、あの音は、危険だと。
「提案なんですが……」
小夜が、真剣な眼差しで美沙子を見つめる。
「私、今日からここに泊まらせてもらってもいいですか?」
「え? それは、かまわへんけど……小夜ちゃんは、怖くないの?」
「さっき、私がバイトできない理由、言いましたよね」
小夜が不敵に笑うので、佳奈は当惑する。
彼女はなんと言っていただろう。
確か、実家の手伝いがあると言っていなかったか。
彼女の実家は……
「うち、神社なんで、こうゆうことは専門なんです。わたしに依頼してみませんか?」
そう言って微笑む小夜は、今までに見たどの笑顔よりも美しい顔をしていた。
*
「で、なんで佳奈まで荷物持って来てるんよ」
夕方、一度自宅に戻った佳奈は、大きな鞄に荷物を詰めて、美沙子の家にやってきた。
その玄関先で、小夜が呆れたように、綺麗な顔を歪ませる。そう言った彼女は、一体何が入っていると言うのか、さらに大きな荷物を抱えている。
「だって、気になるし……」
「気になるって……まあ、ええか」
投げやりに言う小夜に、佳奈はむっと顔を顰めた。
「小夜ちゃんが、美沙子さんに変なこと吹き込まないか見に来たの」
「変なことって……別に宗教に勧誘してるわけでもあるまいし」
「同じようなものじゃない?」
美沙子の家で起きている怪奇現象を解決するために、二都神社への依頼を提案した小夜が、法外な依頼料なんかを美沙子に請求するのではないかと、佳奈は気が気ではなかったのだ。
「まぁ、ええけど……」
最後にはそう言った小夜は、どこか面白くなさそうに顔を顰めていた。
*
二階にある美沙子の部屋に、二人分の荷物を置いてから、小夜は家の中を見て回る。
霊媒師や霊能者にありがちな、大袈裟な格好はしていない。しかし、セーラー服に着替えている。手首には数珠を巻きつけていて、しきりに一番大きな珠を見つめている。
「小夜ちゃん……?」
部屋を移っては数珠を見るのを繰り返す小夜に、ついに佳奈が声をかける。
「ん? 何ー?」
「さっきから、なにしてるの?」
内緒、と人差し指を唇に当てて、小夜は悪戯めいた笑みを浮かべた。
それから、全ての部屋を回り尽くして、小夜はうんと伸びをする。
「よし、こんなもんかな。美沙子さん、夜ご飯なにー?」
食事までたかるのかと、佳奈が嫌な顔をするのを、小夜は見逃さずに溜息を吐いた。
「あのなー、なんか勘違いしてるようやけど、わたしは美沙子さんからお金もらったりはせえへんよ? 性格悪くても、根性悪じゃないねん」
そう言ってむくれる小夜と、疑いの目を向ける佳奈を、美沙子はおろおろと交互に見る。
「佳奈ちゃんも、お夕飯まだやんな? みんなで食べよ。もともと一人で食べる予定やったのに、人数増えて、わたし嬉しいよ」
二人の間に流れる空気に耐えかねて、美沙子が手打って、わざとらしい明るい声で言うと、佳奈は罰が悪そうに頷いた。
美沙子が用意してくれた夕食は、カフェでよく見るワンプレート料理だった。雑穀ご飯と、色鮮やかなサラダ。トマトソースで煮込んだチキン。コンソメスープをカップによそって、美沙子は申し訳なさそうに振り向いた。
「ごめんな、大したもの用意できんくて……」
「いやいや、美沙子さん、これすごいから!」
そうかな、と首を傾げる美沙子に、佳奈は唖然とした。
食事が始まってすぐ、小夜が思い出したように小さな声を出した。
「どうしたの?」
「うん、二人に守ってもらいたいことがあるねん。この家の中で、何を聞いても見ても、無視する事。特に、呼びかけられても振り向かないこと」
平然と言って、小夜はコンソメスープを飲む。
「おいし」
「小夜ちゃん、呼びかけるって……」
美沙子が不安そうに尋ねると、小夜はチキンに箸を伸ばしながら事も無げに笑う。
「もともと床下を這い回ってた何かが、家の中に入ってきてる。ってことは、ここに人がおるって気づき始めたんよ」
「気づくって?」
今度は佳奈が尋ねる。
「わたし達、生きている人でも、死霊や生霊が見える人と見えない人がいるやろ?」
小夜の話は、幽霊がいるという前提で進むので、佳奈は納得できない気持ちを抱えたまま、静かに頷いた。わかっているのか、小夜も曖昧に笑う。
「向こうにも、生きている人間を認識するモノとしないモノがおるみたい。で、こっちも気づいてるってわかると、勢いづかせてしまうから、無視を決め込む」
「勢いづくって、具体的にはどうなるの?」
「うーん、モノによるけど……まあ、接触してくることが増えるから、疲れると思うよ」
初めは、お互いに気のせいだと思う。そのうち、疑念は確信に変わる。
相手も、こちらに気づいていると。
そうなれば、死霊はその人間に付きまとう。ほんの些細な接触が、いつの間にか依存になる。
この人だけが、自分に気づいてくれている。一歩的な依存関係の出来上がりだ。
小夜が言った「疲れる」は、精神疲労のことだが、二人には別の意味に聞こえた。
憑かれる……そう変換して、美沙子は腕を抱いた。
「さて、ごはんも食べたし。美沙子さん、お皿洗いはまかせてな」
食卓に手を着いて立ち上がり、小夜は食器を持ってキッチンに入る。
その足元を見て、佳奈は悲鳴を上げそうになったが、寸でのところで抑えた。
キッチンの床に、黒い、小さな塊がある。一つではない。無数の塊だ。
靄のように漂ってはいるが、それぞれが意思を持った別の存在だとわかる。何故かはわからないが、そう感じたのだ。
「あ、佳奈ー、美沙子さん、食べ終わったら食器そのままでいいから、二人で先にお風呂入っといてー」
小夜は、まるでその靄に気がついていないかのように振舞う。
佳奈がどう答えたらいいのかわからなくて黙っていると、美沙子が頷いた。
「うん、そうさせてもらうな。ありがとう、小夜ちゃん」
「いえいえ。食後の片付けは、慣れてますから」
美沙子と小夜のやりとりに、やっと佳奈は気がついた。
二人にも、あれが見えている。
そして、あの場所に美沙子と佳奈が近づかなくてもいいように、そして一人では心細いだろうと、二人で行動するように、小夜は指示してくれているのだ。
「小夜ちゃん……」
「何? 食べ足りひん? いいけど、太るで?」
「ち、違うよ! もう、行こう、美沙子さん!」
余計なことを言いかけた佳奈を、小夜は牽制しただけなのだが、佳奈はそのままの意味に受け取って、美沙子と連れ立って浴室に向かっていった。
「さて……ちゃんと片付けなな」
二人を見送って、小夜は呟く。
そして、足元に擦り寄ってくる靄を見つめて、凄絶な笑みを浮かべた。