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ある夏の始まり

 蝉が鳴き始めた。

 いつの間に、彼らは声を挙げ始めたのだったろう。佳奈は窓の外を見つめて考えてみた。

 少し前までは、ただ蒸し暑いだけだったのに、今は太陽が焼き付けるように地面を照らしている。

 教室の窓際、クーラーの真下。一番暑い席が、佳奈の席だ。

 カーテンを締めれば、直射日光を少しばかり遮ることができるのだが、昨年起きた大地震で、学校は節電を徹底している。

 佳奈の学校では、日が傾き出す五限目までは電気を付けない。カーテンを締めると教室が暗くなるので、電気を付けなければいけなくなる。そのため、昼休み直前の三限目の今の時間は、カーテンを締めることができないのだ。

 さて、蝉の話に戻ろう。

 一昨日のプール開きの日には、既に蝉は鳴き始めていた気がする。それでは、彼らはいつから必死に求愛活動をしていたのだろう。

 右に流した前髪を弄りながら、佳奈は唸った。考え事をする時の、彼女の癖だ。

 チャイムが鳴る。


「あ……」


 佳奈は机に目を落とした。

 女性教師が手書きで作ったらしい英語の小テストのプリントは、見事に白紙だった。


   *


「ほんま、佳奈ってすごいわ」


 昼休み、嫌味のない様子で、友人の里香がカレーパンを囓りながら笑った。実家がパン屋だからだろうか、彼女の昼食はいつもパンだ。


「古賀ママのテスト、白紙で出すかー?」


 彩が合いの手を入れる。フォークで少しずつ食べている可愛らしいキャラ弁は、幼稚園生の妹とお揃いらしい。


「なんか、考え事しちゃって」


「いや、テスト中はテストの事考えなあかんやろ」


 申し訳なさそうに俯いた佳奈に、里香がすかさず突っ込む。

 佳奈が俯いた先には、おばあちゃんの作った、質素な弁当が広げられていた。


「古賀ママびっくりしてたなぁ、藤野さん、なんか悩み事でもあるん? って」


 彩が英語担当の女性教師の声色を真似る。似てるー、と里香が手を叩いて笑った。


「で、何考えてたん?」


 里香が期待を含んだ眼差しを向けてくるが、佳奈は、本当に申し訳なさそうに目を逸らした。


「えっと……蝉っていつから鳴いてるのかなーって」


「しょーもな!」


 里香の言葉に、佳奈は少し肩を震わせた。


「あ、ちゃうねんで。怒ってるわけじゃなくてー」


「うん、わかってるんだけど、どうしてもびっくりしちゃうの」


 慌てた様子の里香に、佳奈は薄く笑う。

 彼女たちの話す大阪弁を、佳奈は少し恐いと思ってしまうきらいがある。


「あ、出汁巻きちょーだい」


「うちもー」


 佳奈が頷く前に黄色い出汁巻き玉子を奪った里香に、彩が続いた。


「佳奈のおばあちゃんの出汁巻き、ほんま美味しいよな」


 質素だが、栄養の考えられた弁当を物色する友人を見つめて、佳奈は嬉しそうに笑った。

 里香と彩は、クラスでも目立つタイプの女の子だ。

 三年生になってすぐ、里香と彩に声をかけられて以来、学校では専らこの二人と過ごすようになっていた。

 里香はバスケットボール部のキャプテンという事もあって、背が高く、脚はすらりと長い。茶色に染めたショートカットのよく似合う、美人系の美少女だ。

 反対に、彩は小柄で、パーマのかかった長い髪を二つに纏めている。可愛いらしい容姿だが、陸上部のエースで、府大会の常連選手だ。

 二人とも、セーラー服をお洒落に着崩して、うっすらと化粧もしている。


「何ー? じろじろ人の顔見て」


 彩が不信そうに顔を(しか)める。


「二人とも、良い意味で目立つなーって」


「いや、佳奈もやから」


 里香が手をつけて突っ込む。

 佳奈は少し困ったように笑った。

 自意識過剰かもしれないが、佳奈は自分が、美人の部類に入るのだろうとは思っている。それに、転校生というだけで、多少は目立つものだとは思う。だが、二人のように明るく利発というわけではないとも思っているのだ。寧ろ、大人しい方で、余り目立たないはずだ。

 目立っているとするなら、原因は佳奈の制服にある。

 高校二年の春休み前に、佳奈はこの学校に転校してきた。すぐに卒業だからと、前の学校の制服で通う許可を得て、セーラー服の中で一人、ブレザーを着ている。佳奈がもともと通っていたのは、東京の女子校で、制服が可愛い事で有名だった。その制服を着ているので目立つのだろうと、佳奈は納得していた。


「えーよな、その制服かわいーもん」


「セーラーとか、ダサいよな」


 ぶつくさと文句を言う友人達に、佳奈は相変わらず困ったような顔を浮かべている。

 かたん、と椅子を引く音が聞こえて、佳奈は後ろを振り返った。

 真っ直ぐで長い黒髪に、白い肌。線の細い印象を受けるが、出るところは出ると言った、女性らしい体型。冷房が肌寒いのか、夏用のセーラー服の上に、薄いブルーのサマーセーターを羽織っている。

 クラスで、最も目立つ美少女が、席を立ったところだった。


「あ、折口さん、屋上?」


 佳奈は、美少女――折口小夜にすかさず声をかけた。


「うん。藤野さんも、はよ食べておいで」


 大人っぽく微笑んで、小夜は教室を出て行った。


「きゃー、やっぱ小夜ちゃんかっこええわ!」


 彩が黄色い声を挙げた。


「佳奈、折口待たせたあかんで」


 里香に急かされて、佳奈は頷きながら、弁当の残りを詰め込んだ。


「部活がんばれー」


 慌てて教室を出て行く佳奈の背中に、彩が明るい声が聞こえた。

 佳奈は、転校してきてからすぐに天体部に入部した。早く友達を作りたかったので、とにかく部活なら何でもよかったのだが、この学校の天体部の部室を見て、一目で気に入ってしまったのだ。

 天体部の部室は、屋上にある、ドーム型の部屋だ。


「すみません、遅くなりました」


 佳奈がドームの中に入ると、すでに活動は始まっていた。

 巨大な天体望遠鏡。佳奈が一目惚れしたそれを使って、毎日昼休みに太陽の黒点と言う黒い影を記録するのが、天体部の伝統だ。


「あ、藤野さん、これ」


 副部長である小夜が、A5判のプリントを手渡してきた。


「水瓶座流星群……?」


「うん。夏休みに、泊りがけで観測会しようと思うねんけど、その案内」


 プリントには、詳しい日時やスケジュールが印刷されている。一番下は、切り取り線が引いてあり、保護者の同意書になっている。


「ちゃんと親御さんの許可を得て参加してなー」


 部長の男子生徒が、望遠鏡を操作しながら、二カっと笑った。

 曖昧に返事をして、佳奈は複雑そうに紙を握り締めた。


   *


「えー、小夜ちゃんとお泊り?!」


 帰り道、観測会のことを彩に話すと、羨ましそうに睨まれた。

 佳奈は久しぶりに友人と下校していた。夏休みは目前だが、まずは期末試験が待ち構えている。そのため、部活は全て試験休みだ。


「ほんま、彩は折口好きやなー」


 里香がからかうように言うと、彩はツンと顔を背けた。


「だって、小夜ちゃんかっこええやん」


「あ、わかるかも」


 佳奈は大きく頷いた。

 小夜は、同じ年の女の子だというのに、落ち着いていて、大人っぽい振る舞いをする。その上、とても綺麗で、嫌味のない性格なので、他の女の子達は憧れるのだ。


「もちろん、里香もかっこえーよ」


「はいはい」


 彩がにぱーっと笑うのに、里香は適当に応える。


「でも、お泊り言うても、夜の学校やで。彩、怖いの無理やん」


「せやけど、羨ましいわ」


 彩は、うちも天体部入ればよかったなー、と言って笑った。

 バス停で、バスに乗った二人と別れて、佳奈は住宅地を一人で歩く。

 佳奈の家は、学校から徒歩圏にある。バス通りをしばらく歩いて、脇道に入る。団地の間を貫く坂道を登って、古い住宅を抜ける。その先に、現代的な、同じような外観の戸建ての家の群が現れる。佳奈の母親が高校生の時にできた新興住宅らしいが、どのくらいの期間を新興住宅と言うべきか、佳奈は知らない。

 そのうちの一軒の扉を開けて、佳奈はローファーを脱いだ。


「ただいまー」


「おかえり」


 佳奈の家は、リビングとダイニングキッチンが一緒になっていて、玄関に面した扉を開けていると、キッチンがよく見える。シンクに向かって洗い物をしていた祖母が、振り向きながら迎えてくれた。

 佳奈はダイニングには入らず、すぐ横の和室に向かった。

 和室に据えられた仏壇の前に正座して、線香に火を付ける。手を合わせて、その日の出来事を報告するのが、佳奈の日課なのだ。

 去年の冬。佳奈の両親は旅行中に、事故で亡くなった。高速道路で、大型のトラックとダンプカーの衝突事故に巻き込まれたのだ。その車には、佳奈も乗り合わせていたのだが、後部座席に座っていた彼女は、脚の骨を折っただけで済んだ。

 しばらく佳奈は東京の病院にいたが、退院後、大阪の祖父母の家に引き取られた。

 大阪のおじいちゃん、おばあちゃんは母の両親だ。父方の祖父は早くに亡くなり、祖母は施設に入っていた。東京に住む父の弟である叔父からも、引き取りの話は出ていたが、父と十五も歳の離れた彼は、新婚だったため、佳奈は遠慮してしまった。大阪に来たのは、何も叔父に遠慮したばかりではないのだが。


「佳奈、モロの散歩お願いしてもええ?」


 祖母が和室の入り口から顔を覗かせる。


「わかった」


 リビングに入ると、東京から一緒に引き取られてきた、愛犬のモロが扇風機の前で涼んでいた。ロングコートの茶色いヨークシャーテリアのモロは、夏の間は暑さ対策で毛を短く刈るサマーカットになっている。


「モロー、お散歩行こう」


 呼びかけると、彼女――モロは雌だ――は嬉しそうに佳奈の足元に駆け寄って来た。

 モロの散歩コースは、佳奈が学校へ通う道とは正反対の向きだ。自宅のある住宅を抜けて、山沿いの道を歩く。

 大阪と言っても、祖父母の住む街は南の方。和歌山寄りの、緑の多い土地だ。すぐそばには、小さいながらも由緒ある神社もあり、府のハイキングコースにも指定されている。

 神社の前を歩いていると、前から同じように犬を連れた女性が向かって来た。


「あ、美沙子さんとココちゃん」


 美沙子は、近所の古い住宅地に住む大学生だ。古い住宅地と言っても、今年の春に引っ越してきたばかりで、もともとあった古い家を土地ごと買い取り、新しく綺麗な家を建て直したらしい。佳奈の志望大学に通う彼女に、対策問題集をもらうために、一度伺ったことがあるが、とても大きな家だった。

 美沙子の父親は海外に単身赴任中で、母親と二人で住んでいる。


「こんにちわ」


「こんにちわ。今日は美沙子さんなんですね」


 美沙子は、黒いミニチュアピンシャーを連れている。普段は、彼女の母親が散歩をしているのだ。こうして、たまに美沙子が散歩をしているのに出会って話すうちに、歳も近いということで仲良くなったのだった。


「うん。ちょっとお母さんが体調崩してるねん」


「夏バテですか? 暑いですもんね」


 うーん、と美沙子が困ったように笑う。


「ちょっと違うみたい。最近、眠られへんらしいねん」


 へえ、と佳奈は曖昧に相槌を打つ。

 ちょっと冷たかったかな、と思って、心配げに聞いてみる。


「何かあったんですか?」


「うん、最近夜中に、物音がするんやって」


 毎晩、真夜中に床下を何者かが這い回る音がすると言うのだ。一度音が気になり出すと、その音はリビングに移動してもついてくるのだと言う。


「私は二階の自分の部屋で寝るからわからへんねんけど、床下に猫でも入ってしもたんかな」


 本当に困ったような顔をする美沙子に、佳奈は申し訳なさそうに提案してみる。


「お母さんも、二階で眠ってみたらどうですか?」


「そうやね。それが一番手っ取り早いんやけど……」


 美沙子も、母親に部屋を変えてみてはと言ってはみたが、物音のために生活スタイルを変えるのは、なんだか進まないらしい。

 新居に合わせて買った家具を移動するのも嫌だし、男手のない家なので、ベッドを二階に上げるのは難しい。


「それに、年取った時のために一階に寝室作ったのに、二階に上がるのは嫌なんやて」


「あー、なるほど」


 佳奈は頷いた。

 別れ際、「あんまりひどいようなら、業者に入ってもらおかな。動物駆除とかのやつ、あるやん?」と美沙子は笑い飛ばすように言った。

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