第9話
いつもよりちょっと送れて投稿。
いえ、別にこの時間でなければならない理由は、何ひとつ無いのですが。
……そろそろファンタジーくさくなってきましたか?
いつものように井戸端で汗を流したよもぎは、座敷で武鑑を広げる。今の老中、若年寄の情報を再度確認するためだ。同時にそれは、敵となるかもしれない者達の確認でもある。
よもぎには、ひとつの目星があった。
(商人と付き合うほど目はしが効き、薫殿のことを知る立場にあり、しかもそれを知って手に掛けるほど野心家の幕閣、か)
内藤の話と余之助の情報。さらには奉行所の動き。それを組み合わせれば、当然頭に浮かぶことだ。
「こいつしかいねえか」
開かれた頁には、ひとりの幕閣の名が刻まれていた。
津島甲斐守――。
この二十年で、一介の旗本から異例の出世を果たし、大名となり、五年前にはついに老中まで上り詰めた男。
(まだ五十前だったはず)
最近多い名門の出ではない老中の中でも、最も切れ者、との噂だ。
よもぎも、御城で何度か顔を見ている。当然親しく話した事など無いのだが。
確か、現将軍吉鉦のお気に入りという話を耳にしたことがある。だが、その人物が将軍の娘をかどわかそうとするだろうか?
いや、もちろん津島が黒幕と決まったわけではない。もしかしたら、黒幕は他の幕閣かもしれないし、大奥だって疑わしい。さらに、幕閣の家来衆が、主家を操って裏で暗躍している可能性だってある。
しかし、津島の他に倉田屋と繋がりそうな幕閣はおらず、大奥は機能していないかのようにその動きが見えない。さらに薫の存在を家来衆が知るくらいなら、とっくによもぎの耳には伝わっていたはずだ。
謎は深まる。
その時、障子の向こうから声がした。
「岡田どの、よろしいか」
「ああ、どうぞ」
するりと障子が滑り、薫が入ってくる。湯殿で体を清めたのか、頭の後ろで縛った黒髪が、まだ軽く濡れていて、まるで正絹のような光沢を放っていた。
「本を読んでいたのか。それは、武鑑?」
「ちょいと調べものですよ」
さりげない仕草で、武鑑を閉じて薫に向き直る。薫は失礼、と声をかけながら両手で袴のすそを払い、よもぎの三尺前で向き合うように座った。
「で、どうしました?」
薫は、ちらちらとよもぎの顔を見ている。何か、言葉を捜しているようにも見えた。
ふと、薫の視線がよもぎの目で止まった。
「教えていただきたいことがある」
「なんでしょう」
「昨日じいは、岡田どのの御祖父が御側用人であったと言っていた。だが、御側用人は譜代大名がなるもの。これはどういうことなのだ?」
確かに疑問に思うだろう。よもぎはお役目はともかく一介の旗本だ。
「ああ、なるほど。まあ、アタシも祖父さんが側用人だったなんて知りませんでしたがね」
よもぎは、煙草盆を手元に引き寄せた。
「アタシん家は、もともと大名家だったんですよ」
岡田家は、祖父である雁母の代までは四万石を有する譜代の家柄だった。だがある日、雁母は突如家督を弟に譲り、自分は幕府より二千石旗本待遇で切米八百石を受ける身になった。
「詳しい理由は、アタシの親父も言いませんでしたし、祖父さんにも聞いたことがありません。まあ、アタシが物心ついた時はこの状態だったんでねえ」
後に将軍家の不興を買ったとの噂も上がったのだが、聞き流していた。本当に不興を買ったなら、わざわざ岡田一門にとって事実上の加増を行うはずがない。
当然よもぎも恨んでもいない。大名なんぞまっぴらご免、今の気ままな暮らしが出来るのは、祖父さんのおかげだ、とすら思っている。
「祖父さんのことはそれほど覚えてないんですがねえ、ひとつだけはっきりと覚えている言葉があるんですよ」
そう、その言葉が今のよもぎを作ったと言っていい。
「それは?」
興味を惹かれたのか、薫が身を乗り出して聞いてきた。
「『か弱き者を守る。それが岡田の武士よ』ってね」
「ほう、なかなかいい言葉だな」
薫が頷きながら、神妙な顔をして聞いている。
「親父にもアタシにも、それが染み付いちまいましてね」
婿養子だった父親は医の道へ進んだ。よもぎは江戸の治安を守る道を選んだことになる。祖父と同じように。
「では、永十手というのは?」
薫は重ねて質問してきた。だが、よもぎはすぐには答えず、キセルに煙草を詰め、火をつけた。
紫色の煙があたりを漂い、甘く柔らかい香りが立ち込める。
「こいつも祖父さんが拝領したもんでしてね。旗本になったとき、お役目とともに戴いたんですよ」
そう言って、よもぎはキセルを煙草盆に置き、襟首から組紐を引っ張り出した。その先端には金色の鍵が括られている。
そのまま首から紐をはずし、鍵を手のひらに載せて薫の目の前に差し出す。
「これが永十手? 鍵ではなく?」
鍵を見ながら首をかしげる薫。よもぎはくすり、と笑った。
「いやいや、これは正真正銘、鍵ですよ」
それを聞き、自分の勘違いが恥ずかしかったのか、頬を染めうつむく薫。
よもぎは笑みを深くした。
「でも、あながち間違いとは言えないんですがね」
え、と顔を上げる薫。
「ちょっと待っていてくださいよ」
よもぎは立ち上がると後ろを向き、床の間の大きな掛軸を外す。そこには白壁は無く、取手とつまみが付いた三尺四方の黒い金属扉が埋め込まれていた。よもぎが首だけ振りかえると、あ然と口を開け、呆けたような薫の顔があった。
「驚きましたか? こいつは金蔵でね」
いいながら、扉に鍵を挿しこむよもぎ。そのまま、鍵穴の横に付いている鍋蓋のようなつまみを左右に廻す。
何度かつまみを廻すと、キン、と高い金属音が部屋に響いた。
「この金蔵も、上様から拝領したそうですがね」
よもぎも、これ以外に同じ型の金蔵は見たことがない。
取っ手に手を掛けると、扉は重いきしみをたてて動き出す。ゆっくりと開かれる扉の奥には広い棚が二段。下の棚には小判の切り餅が六つほど積み重なる。上の棚には長細い桐の箱。よもぎはそれを取り出す。
「これが永十手ですよ」
箱のふたを開けると、そこには紫色の袱紗に包まれた、二尺足らずの何かが収められている。
十手のように鉤が付いているが、芯の部分も鉤部分も、傷とは違う複雑な切り込みと凹みがあり、所々に輝く青い石が埋め込まれている。取っ手には朱色の組みひもが固く巻かれ、二筋の柔らかい房が伸びている。
だが、何よりも異様なのは、その本体がギアマンのように半透明になっているということだ。透けているその身の中には、何やら分からない金属片が多数埋め込まれている。
もちろんギヤマンや水晶ではない。水晶よりはるかに固く、刀と撃ち合えば刀身を折ってキズひとつ入らないほどだ。
確かに十手の形をしているが、何か別のものにも見える。今もそうだが、よもぎは見るたびに違和感を感じる。
「まるで、何かの鍵みたいでしょう」
そう、それが違和感の正体だ。
ちらと見ると、薫の視線は永十手に固定されていた。吸いこまれるかのように、縛られたかのように。
「どうしました、嬢ちゃん」
薫の様子が変だ。驚くのは分かる。綺麗だとも、もしかしたら気味が悪いと思うかもしれない。しかし、全く反応がないのはどういうことだ。
薫は問いかけに何も答えず、ただ永十手を見つめている。
「嬢ちゃん?」
なおも問いかけるが、反応がない。それどころか、薫の目が次第に虚ろになってきている。
ふと、薫がゆっくりと右手を持ち上げる。力なく上がった手を、そのまま永十手にかざした。
すると。
「なッ!?」
よもぎは自分の目を疑った。
永十手が、次第に自ら光を放ち始めたのだ。その光は徐々に強くなり、点滅をしはじめる。まるで、心の臓が鼓動するように。
慌てて手をかざす薫を見ると、虚ろな彼女の瞳はただ一点、光る永十手を見つめている。
その頬には、静かに滴が伝っていた。
「じょ、嬢ちゃん!?」
さすがによもぎも慌てた。薫の肩を掴んで揺さぶる。がくがくと力なくゆられる薫。涙が散り、朝日と永十手の光に照らされて色を変えながら花火のように輝く。
揺さぶりつづけると、薫の瞳に理性の色がよみがえり始めた。
「あ、え、お、岡田……さま?」
何度か瞬きをして、呆けたようによもぎの顔を見つめる薫。
「気づきましたか」
ほっとするよもぎ。左手を薫の頬に添え、親指で涙を拭う。
「一体どうしたんです? 突然泣きだしたりして」
幼子をあやすように、右手も白磁のようにつややかで温かみのある頬に添えた。そして、ゆっくりとなでながらやさしく問いかけてみる。
「あ、え、涙?」
薫は、自分の頬に涙が伝っている事すら気づいていなかったらしい。
そのまま、薫がよもぎの黒眼鏡の奥にある瞳を見つめてきた。
「岡田さま、その、アナタは一体」
「何ですか?」
「いえ、あの、今の光景は?」
薫の言葉は全く要領を得ない。だが想像はできる。どうやら彼女は、忘我の時に何かの光景を見たらしい。
「何を見たんですか?」
問いかけるよもぎに、薫はあからさまに視線を逸らす。同時に、添えていた両手が一気に熱くなったように感じる。そのせいか、薫の頬も赤く染まっていた。
そのまま彼女は後ずさりし、するりとよもぎの手から逃れた。
「な、な、何でもありませぬ」
耳まで赤く染めながら、首を横に勢いよく振る薫。もう滴は飛び散らなかった。
「で、では、これにてご免!」
慌てて座敷の襖を開けて出ていく薫。慌てながらも作法を忘れぬその仕草は、育ちのためか、生まれのゆえか。
よもぎはため息を付いて見送った。
ふと、桐箱の永十手を見つめる。もうそこに激しい光はなく、ただいつものように透き通るその身を静かに横たえていた。
今まであのようなことはなかった。だとすれば、この永十手と薫の間に、何か隠された因縁があるとしか思えない。
しかも、どちらも将軍家と関係が深い。この符合には、どんな意味があるのか。
そして薫が見たであろう光景。その中身は何なのか。どうにも恥ずかしがっていたように思えたのだが。
まさに謎だらけだ。
こうなってくると、薫がこの屋敷に来たのも、何か仕組まれているように思えてくる。
「……なあ、お前と薫殿、どんな関係があるんだい?」
つぶやいてみるものの、永十手は何も語らなかった。
* * *
「旦那」
昼近くなり、余之助が顔を出す。
「内藤屋敷からの帰りかい?」
その言葉に反応するように、余之助は懐から薄い書付を取り出した。よもぎはそれを受け取ると、封を開ける。
中からは手紙が二束出て来た。見ると、大分字が乱れている。内藤自身がケガを圧して書いたものに違いない。
「代筆すらさせないとはね」
よほどの大事が書かれているのだろう。
余之助はその場で控え、頭を垂れて身動きすらしない。興味本位で尋ねたりはしない男なのだ。たぶん女のこと以外なら。
「こいつは」
手紙のひとつは地図だった。その示す場所は。
(雉子橋門?)
江戸城のお膝下だ。ここへ来いと言うのか。改めて手紙の方を見た。そこには短い伝言が書かれていた。
【蓬殿 五日後巳の刻、目立たぬようひとりで参られよ。裃はいらぬが袴は着用のこと。 主膳】
普通ならあまりに怪しすぎるため、無視するか相当な用心をするだろう。
「余之助、こいつは確かに内藤殿じきじきに受け取ったのかい」
「間違いありやせん。手ずからいただきやした」
ならば、この簡潔すぎる書き方は、手が痛んだため簡素にしたのか、あるいはよほどの事のため詳しく書けなかったかのどちらかだろう。
「五日後か」
「お供をいたしやすか?」
よもぎはふと考える。確かに余之助なら影から着いて来られるだろう。しかし、内藤がここまで言うからには、敢えて乗ってみせた方が良いかもしれない。
もちろん、用心するに越したことはない。
「いや、いい。だがね、眼潰しの礫を十個と煙玉を用意してくれるかい」
「合点で」
これなら囲まれても何とかなるだろう。
「余之助、お前は薫殿の警護にあたってくれ」
「へえ、でも旦那ぁ?」
「何だい? いやらしい顔して」
見ると、余之助がニヤケ顔をこちらに向けている。
「薫嬢ちゃんは、旦那が居ないと淋しがるだろうなぁと思いやしてねぇ」
「何馬鹿なこと言ってんだい」
そこで余之助は、わざとらしいため息をつく。
「旦那も意外とアレだ、厄介なお方だねぇ」
「どういう意味だい」
「ま、いいです。嬢ちゃんのお相手は、あっしじゃ役者不足でしょう。張り付くのは、お紺姐さんに頼みましょう」
何か釈然としないものを感じながらも、よもぎは頷いた。
「お前さんはどうするんだい」
戦力としての余之助は捨てがたいのだが。
「あっしは影ながら嬢ちゃんをお守りいたしやすよ」
その言い方に、ふとよもぎの心に浮かぶものがあった。
「言っておくが、覗きはするんじゃないよ」
「わかってやすよ。バレたら姐さんに簀巻きにされちまう」
「へえ、よく分かってるじゃないか。……って、さては覗いたことがあるな?」
「あ。いけねぇ、やぶ蛇だ」
慌てて笑ながら姿を消す余之助。
よもぎも、その姿を目で追いながらニヤリと笑った。