第8話
1日2話がノルマ状態。
書き終わっているからこそ出来る荒技。
もうちょっとヒロインを魅力的にしたいものですが、なかなか……。
受動的なのが問題か、視点がよもぎ固定すぎるのが問題か。
夜四つともなると、旗本屋敷が並ぶこの辺りは、一層の静寂に包まれる。
動きの早い大きな月は、せわしなく中天に上ろうとしている。
風も涼しい新緑の今は、縁側が一番居心地がいい。
キセルを吹かして考え事をするよもぎの足元に、持ち行灯に照らされた薄い影が落ちた。
「お風呂、先にいただきましたぞ」
見上げると、髪を軽く後ろでまとめた薫が立っていた。
男物の浴衣に身を包んだ姿で、そのままよもぎの隣に座る。風呂上がりの涼みに来たのだろう。
「岡田どの、屋敷に道場を持っておるのだな」
「ええ、毎朝鍛錬に使っています」
「では、明日から私もご一緒してよろしいか?」
「そりゃ構いませんが」
ふと、よもぎは疑問を覚えた。
「そう言えば、ケガは大丈夫なんですか? 風呂で染みませんでしたか?」
「ああ、おかげ様で。広くて良い風呂だった」
確かに膏薬を貼っている様子はない。だがあの肩の打ち身は、具合から見て二日は熱と痛みを持つはずだ。
「嬢ちゃん、ちと済まないが、肩のケガを見せてもらえませんか?」
「だから嬢ちゃんは……まあいい、別に構わぬが」
薫はこちらに背中を向け、髪を右前に持ってくる。
そのまま袷も右手に持ち、左手で襟を少しだけずらして軽く左肩を出した。
よもぎは後ろから行灯を近づけ、覗きこむ。
そこには、赤いろうそくの光に照らされて朱色に輝く滑らかな肌があるだけで、あの擦り傷も、紫の痛々しい染みまでもが見当たらない。
思わず触れてみた。
「あっ……!」
「あ、すまないねえ」
軽く驚きの声を上げる薫に、反射的に手を引っ込めた。
「私は、昔からケガなどの治りがとても早いのだ」
うつむき加減に肩をしまいながら、薫がつぶやくように言った。驚かせてしまったからか、先ほどより頬が紅く見える。
「ほう、そうですか」
それにしても、早すぎるというものだ。
そのよもぎの思考を破るように、薫はこちらを向き直って頭を下げた。
「そ、それでは、明日はよろしくお願い申す」
「あ、うん、わかりましたよ」
早足で薫は部屋に戻っていった。
「旦那」
入れ替わるように、余之助の声がした。
「余之助かい」
「へい」
庭の暗闇からにじみ出るように、余之助が姿をあらわした。
口元にイヤらしい笑いを浮かべながら。
「妙な顔つきだねえ」
「あっしは生まれつき、こんな顔でやんすよ。それより旦那、娘さんに悪戯はいけませんぜ」
「何言ってんだろうねえ、こいつは」
余之助のイヤシ笑いが、急に収まった。
「ま、いいや。それより動きがありやした」
よもぎも顔を引き締める。
「あの四人の元に、倉田屋の二番番頭が参りやした」
「何だって?」
倉田屋の二番番頭と言えば、表にはあまり出ないが、江戸屈指の大店倉田屋の奥向きを任されている男だ。
同時に、裏事情のことは、大番頭に代わってすべて取り仕切っていると噂される切れ者でもある。
「当然、金はそこから出ているんでしょうねぇ」
しかし、倉田屋と内藤屋敷を襲った浪人者。どう考えても、まともに結びつくものではない。
「とりあえず、末松とすずなに見張らせてやすが」
どちらも余之助の盗賊時代からの弟分だ。
「こいつは長期戦になりそうだねえ」
よもぎは懐の紙入れから、五両ほどつまみ出した。それを半紙でくるみ、余之助に渡す。
「資金の追加だ。よろしく頼むよ」
余之助は恭しく、両手で受け取る。
「ところで旦那、あの娘さんは、内藤様のお屋敷に戻したはずじゃ?」
「ああ、しばらくウチで預かることになった。後で五平にも伝えておくれ」
「へぇ、このヤモメ屋敷にも潤いが来たって奴で」
余之助がからかうように言う。
「こら余の字。薫殿にちょっかい出すんじゃないよ。バチがあたるぞ」
「あの娘っ子、薫って言うんですかぃ。でも何でです?」
よもぎは返答に困り腕を組む。いかに余之助を信用しているとは言え、薫の素性を明かすのは問題がありすぎる。
「さるお方の娘さんだ。何かあったら、アタシはコレもんさ」
そう言って、笑いながら右手を握り、小指側から腹をなぞって見せた。これには余之助も眼を剥く。
「まあ、とにかく明日、内藤屋敷に行っておくれ。あと、五平とお紺には、しばらく屋敷に留まってもらうよう、お願いしておくれ」
よもぎは手文庫を取り出し、内藤に向けての手紙を書き始めた。
「旦那、倉田屋の内偵はどうしやしょうか」
「そちらは、佐竹さんにやってもらおう」
「じゃ、そちらも明日」
「また忙しくなるねえ」
よもぎはため息をついた。
* * *
明け六つ過ぎ。いつものように道場で日の出前から剣を使うよもぎの前に、ヒト影が現れる。
「岡田どの、お早うございます」
それは、稽古着に身を包んだ薫だった。
「来ましたね。お入りなさい」
「失礼つかまつる」
一礼して道場に足を踏み入れる薫。
「嬢ちゃんは何流ですか」
「だから嬢ちゃんでは……いえ、私は北斗一刀流を主に学びました」
北斗一刀流と言えば、北辰一刀流を源流とする、かなり実戦的な剣術だ。
「突然の敬語だねえ」
「ここは道場ですから」
澄まして答える薫。
なるほど道場主に対する礼儀、というところか。厳しい師匠なのだろう。
「腕前は?」
「中目録をいただいてます」
この若さで本当に実力が中目録であれば、かなりの腕前と言えるだろう。
「軽く打ち合ってみましょう」
よもぎはそう言うと、壁に掛けてある木刀を渡した。自分も真剣を掛け、木刀を取る。
「はい」
薫の面が引き締まる。程よい緊張感だろう。道場の空気が張りつめる。
お互い、静かに一礼する。
薫は正眼に構えた。よもぎは下段。薫はじりじりと木刀を振りかぶる。よもぎは呼吸を合わせ、下段から中段、精眼へ。
薫が音もなく踏み込んだ。狙いはまっすぐよもぎの脳天。よもぎは木刀の腹同士を軽く打ち、軌道を変える。そのまま小手を狙う。
薫はさらに右へ一歩廻り込み、小手をかわす。軌道を変えられた木刀を手首の返しで逆袈裟に。よもぎも右横にずれてかわす。
お互い廻りこんで間合いが外れた。すぐに相対する。今度は薫が下段、よもぎが肩構え。
にらみ合いが続く。
「やあっ!」
すさまじい気迫で薫が胴を狙ってくる。
「む!」
よもぎは、逆に薫へと踏み込む。
「うあっ!?」
肩から当りに行ったよもぎに、薫の軽い体は弾き飛ばされた。平衡を失い、倒れる薫。
よもぎは、起きあがろうとする薫の喉もとに木刀を突きつけた。
「ま、まいりました」
悔しそうに薫がうなだれる。
「いや、十六でこれだけ遣えれば、立派なものです」
顔を上げる薫。荒い息使いに、顔が赤くなっている。
「岡田どの、本当に強い」
悔しさ故か、心なし眼も潤んでいるように見える。
しばらく呼吸を整えた後、薫が切りだした。
「そう言えば聞いておりませんでした。岡田どのは何流を?」
「アタシは新道心影流の目録です」
薫の、形の良い眉が寄る。
「失礼ながら、ただの目録とは思えぬ腕前。それほど厳しい流派なのですか?」
「ああ、先生が厳しくてね、怒られてばかりですよ。お役目もありますし」
よもぎの口元が、我知らず苦笑の形になる。
もう少し道場へ通えるなら、皆伝を得て師範代になることも出来るかもしれないが、こればかりはどうにもならない。
薫は、その道場に興味を惹かれたようだ。
「あの、出来たら私もそちらで一度修行をさせていただきたい」
「この一件が解決しましたらね。しかし、本当に剣術が好きなんですねえ」
何気ないよもぎのひと言に、薫はふと中空に視線を向けた。
「剣は……いい。頭が真っ白になるほど集中させてくれるし、己を見失いそうなときも、最後まで信じられるから、な」
その姿は、現実の重さに耐えかね、それでも前を向いて歩こうとしているようにも見えた。
将軍の娘として、またそれを明かせぬ身として。そして、その身を狙われる者として。
この華奢な身体に剣術まで宿して、背負い歩かねばならぬものとは、どれほどのものなのだろうか。
(内藤殿が、本気で心配するのも分かりますね。こんな顔されちまったら)
「嬢ちゃん、もう一番やりましょうか」
「はい!」
薫は、それを聞いて、ぱちりと花が開くような笑みを浮かべた。