第7話
さっさと正体を明かしてみる。
……バレバレでしょうけど。
長い廊下をひとつ曲がると、そこには田辺と稔が並んでこちらを向いたまま正座していた。
梅村は、田辺たちの前に座ると、横向きになり襖の奥に問いかける。
「殿、薫様ともう一人、お連れしました」
「おお、お入りいただけ」
「ははっ」
そのまま頭を下げると、静かに襖を開けた。そして、頭を上げるとこちらをじっと見上げ、目で入るよう合図してきた。
よもぎがそのまま襖に近づくと、薫は梅村とよもぎの間に割って入り、歩を進めた。
襖の中には、十畳くらいの日当たりの良い座敷があり、その中央には布団が敷かれていた。
布団の横には、真っ白な着物にやはり白い袴を着けた老猿がひとり、背筋を伸ばし正座している。
その眼は鋭く、しかし柔らかな光をたたえ、薫を見つめた。
ただ、左腕は白いさらしで包まれており、肩から吊られているのが痛々しい。
「じい!」
あわてて老猿に駆け寄る薫。
「薫様、ようご無事で」
老猿は、痛みを感じさせぬ柔らかい笑みを浮かべ、薫を見つめる。心なしか、眼が潤んでいる。その様子は、会いたかった孫を迎えた爺のようにも見える。
「私の事より、その腕は? 大丈夫なのか!?」
「大丈夫でございますよ。じいはこのくらいでくたばりませんとも」
うろたえる薫を落ち着かせるように、やけにきっぱりと言い放つ老猿。
しかし、よもぎはその態度に、特にその装いに違和感を覚えた。
ケガ人の着物が白いのは普通だ。
だが、なぜ白袴がいる?
そんな思考をするよもぎを傍に、薫は老猿によもぎのことを話したらしい。
「こちらの岡田どのに助けていただいたのだ」
老猿が改めて気がついたようによもぎを見る。
「内藤殿、お初にお眼にかかります」
「貴殿は」
そこまで言った内藤の眼が鋭くなった。
「アタシは、岡田三九郎蓬と申します」
よもぎは気にせず、名乗りを上げた。
「ほう、貴殿が永十手の」
「じい、知っていたのか?」
「ええ、よもぎ殿の御祖父であられる雁母殿は、じいが若い頃、大変世話になったのですじゃ」
これは、よもぎも驚いた。
「岡田どの、それは真か?」
薫はこちらを見ながら聞いてくる。
「いや、アタシも初めて聞きました」
よもぎにしても、そのように返すしかない。
「そう、あれはじいがまだ小姓組番頭だった頃ですかな、雁母殿は御側用人の重職に就いておられた」
側用人と言えば、幕府奥御用の最高位である。その権勢は老中並みだ。
「雁母殿のお孫さんと、このような形で出逢うというのも、不思議な縁ですなあ」
親しみを込めて、内藤がこちらを見てきた。
「そうそう、雁母殿に一度お孫さんを見せていただいたことがありましたな。もしかすると、あれはよもぎ殿だったかも知れませんな」
「はあ」
雁母が生きていたころ、孫はよもぎただ一人だったはずである。よもぎは全く覚えていないが。
さすがにこの話は居心地が悪い。本題に入ってしまおう。
よもぎはひとつ咳払いをする。
「おお、すみませんな、年寄りの話につきあわせてしもうた」
そう言うと、内藤は改めて面を引き締めた。
「いくつかお伺いしたいのですが、よろしいでしょうか」
よもぎは、まっすぐに要件を斬り込んでみる。
「それは、お役目上、と取ってよろしいのですかな」
内藤は静かに、落ち着き払った声で応える。まるで怪我の痛みなど感じさせない。
「そう取っていただいて構いません」
内藤はそれを聞いて、深く頷いた。
「では仕方ありませんな」
この場にいる薫と梅村には、この会話が判らないだろう。しかし、口を挟む空気ではないことは分かるのか、ただこちらを見ている。
「率直に聞きます。襲撃に心当たりは?」
「なぜそれを……ああ、町方を手配したのは貴殿でしたな」
「ついでに言えば、賊を追い払ったのもアタシです」
内藤と梅村の目が見開かれた。どうやらそこまでは知らなかったらしい。
「では、あの与力が言っていた、薫様を救ったさるお方というのも」
「ほう、佐竹殿はそこまで言ったのですか」
どうやら、佐竹が漏らしたらしい。しかし彼の性格を考えれば、尋常なことでは漏らすまい。漏らさなければならない理由があるとすれば。
そこで、梅村が突然平伏した。
「与力殿に罪はありません。殿が腹を召されようとしたために……」
そのまま静かに語り、佐竹を庇う。なるほど、目の前で腹を切ろうとしたら、止めるにはある程度事実を明かすしかないだろう。
「じいっ!?」
「これ、梅村!」
薫の驚声と内藤の叱責を浴びても、梅村は平伏したままピクリとも動かない。
「ああなるほど、それは仕方ありませんね」
梅村はよもぎの声を聞いて、やっと顔を上げた。
「内藤殿、お詫びいたします」
今度はよもぎが頭を下げる。内藤が切腹を思いとどまったのは行幸というべきだろう。
今の白袴姿は、もしもの時にすぐ腹を斬れるように、か。
「梅村殿にも、いらぬ気を使わせてしまいました」
梅村にも頭を下げる。梅村は頭を上げて驚いた顔をし、再び平伏した。
「いえ、薫様が事はワシの不明、岡田殿のお役目を考えれば当然でしょうな」
「まことに、相済みませぬ」
よもぎは再び頭を下げた。この話は、これで切り上げたほうが良いだろう。
「話を戻しましょう。襲撃の心当たりは?」
内藤は、薫と梅村をちらと見て口をつぐんだ。
よもぎは、それを見て提案する。
「嬢ちゃん達には席をはずしてもらいましょうか」
「岡田どの!」
「嬢ちゃんの言い分もあるでしょうが、これは取調べです」
ぐっと詰まる薫。そこへ、内藤が声をかぶせた。
「岡田殿、その前にひとつ聞きたいのじゃが」
「なんでしょう」
内藤は、薫をじっくりと眺めた。
「薫様にこの着物を着せたのは岡田殿ですかな?」
「はい、そうですが」
「いや、薫様の娘装束を見るのは、初めてでしてなあ」
薫の頬が、ふわっと紅に染まった。
「まさかじいの目が黒いうちに、薫様のこのような艶姿を見ることが出来ようとは……長生きはするもんですなあ」
わざとらしく、懐紙を取り出し目を拭う内藤。
「じ、じいっ、何を言うのだっ!?」
「ほう、ではこの屋敷でも、ずうっと若衆姿で?」
「左様。剣の稽古ばかりで、お茶やお花などは見向きもせなんだ」
内藤は、ニヤリとヒトの悪い笑みを浮かべた。
「いったい、どんな手妻を使ったのですかな? このじいがいくら申しても、娘らしい格好などしたことが無いというのに」
よもぎも、意図は判らないが乗ってみることにする。
「いやあ、アタシも苦労しました」
「さもあらん、さもあらん」
膝を叩き、深く深くうなずく内藤。
「お、岡田どのも! これは緊急避難というものだっ!」
うがーっと唸るように、顔を赤く染めて薫が反論する。
「おお、そうじゃ。せっかくじゃから、姿絵に残しましょうぞ。梅村、絵描きを呼んで参れ」
「じいっ!」
薫が立ち上がった。
「おや、どちらへ?」
「着替えるっ!」
よもぎの問いかけに、足音も勇ましく薫が部屋を出る。慌てて、後ろから梅村がついて行った。
部屋には、よもぎと内藤だけが残される。
「やれやれ、薫様の娘姿など本当に貴重なのじゃが」
体よく部屋を出るように誘導したのだろうが、内藤はいかにも残念そうだった。
「また着てもらって下さい」
笑いながらよもぎが言う。一緒にいるのだから機会はあるはずだ。たぶん、きっと。
そこで、よもぎは表情を引き締めた。
「では内藤殿。襲撃についてお話いただけますか?」
内藤は、面を厳しく引き締めた。大きな目が爛々と輝くようだ。
「その前に聞こうか、岡田、いやよもぎ殿。幕府の中枢に関わる覚悟がお有りかな? 雁母殿のように」
よもぎは目を細める。
「この一件は、それほどの大事ですか」
「左様。ワシとて薫様を巻き込みたくはなかったのじゃが、こうなっては是非もなし」
「内藤殿、彼女は一体」
「よもぎ殿、どこまでも、何があっても薫様のお味方でいて下さるか」
よもぎの言葉を喰うように言葉を続けた内藤の目には、すがり付くような色さえ浮かんでいる。
よもぎはしばらく内藤を見つめた。内藤は、袴の膝を右手で握り締め、こちらを見つめたまま、まったく動かない。
しばし、空気が止まる。
内藤は、ただこちらを見つめている。
よもぎは何も答えず、そのまま腕を組んだ。そして、ただ目を瞑り己の中に入る。頭を整理したい。
(内藤殿の真意はどこに?)
直感で言えば、ただ薫の味方を増やしたい一心に見える。だが。
(穿って見れば、内藤殿の味方に付け、と言っている様にも思えますが)
今まで薫を見ていれば、彼女自身が悪に走っていることはありえないと言える。もちろん、どんな可能性も排除するべきではないが。
(権力争いに巻き込まれるのはご免ですけどね)
内藤が薫を権力の道具に使うにしても、今は隠居の身。内藤のそうした噂も聞いていない。だとすれば、裏は考えにくいのだが。
(ここは、自分の思うところを言うしかありませんか)
よもぎは一瞬で考えて腹を決め、目を開けた。内藤が正面から見つめてくる。
「アタシは常に、自分とお役目に忠実でありたいと思っています。ですから、内容によって立ち位置は変わります」
内藤が静かにうなずいた。
「ただ、ですね」
「ただ?」
よもぎは聞き返され、これから言う言葉に少々照れくさくなり頭を掻いた。
「アタシは嬢ちゃんに、いえ、薫殿が巻き込まれたこの騒動に、興味が出ちまいました。だから、関わることにしたのですが」
「ですが?」
「もし今後、薫殿が良くない道に踏み込もうとしたら、殴ってでも止めてやりたいと思っています」
「それでよい、それでよい」
内藤は、それを聞いてふたつうなずき、顔には満面に笑みを浮かべている。
「では、まず薫様のことじゃが」
そこで内藤は、秘密を語るように声をひそめた。
「薫様の本当のお名は、徳川薫と言う」
「はあっ!?」
思わず声を出してしまった。
「ま、まさか御一門?」
よもぎは、自分の声が擦れるのを感じた。
「上様のご息女じゃ」
今度はさすがのよもぎも言葉を失う。と、同時に違和感を覚えた。
とにかく、二度三度と呼吸を整える。こんな話、深呼吸でもしなければまともに聞いていられない。
「し、しかし、上様にお子がいるという話は聞いたことがありませんが」
「そうじゃろうな。お側に仕える者か、御老中しか知らんよ」
よもぎは首をかしげる。なぜ秘密にする必要があるのだろうか。姫であれば、次期将軍の跡目争いということは考えにくいが。
「薫様の安全のためじゃ。そのために幼いころから剣術も習い、男のように振舞っておられる」
ますます判らない。確かに、実は女性であったと言われる将軍家もいるが、噂の域を出ていない。姫なら姫として城内で育てたほうが、よほど安全ではないか。
「いつ頃から内藤殿のお屋敷に?」
「左様、ちょうど二年になりますかな。もちろん、屋敷の者でこのことを知っているのは、ワシと梅村と、あとは倅のみ」
二年前という数字がよもぎの頭に引っ掛る。
(確か、内藤殿の子息、佐渡守殿が病気で失致した年だ)
「じゃが、ついにこの場も知れてしまったようじゃ。こうなってはどこかに移るしかありませぬ」
「いつまでお隠れになるおつもりですか。どうせなら存在を公にしたほうが、かえって安全になるのではないですか?」
内藤は、ため息をひとつついた。
「普通ならばその通り。じゃが、今はまだ出来ませぬ。もう少し状況を整えませんとな」
「どうしてですか」
「ワシの口からは言えませぬ」
今度は、よもぎがため息を付く番だった。
「ところでの、よもぎ殿」
よもぎは呼ばれて、顔を内藤に向ける。内藤の顔には穏やかな、だが底には激情を覆い隠したような静謐が浮かんでいる。
「出来れば薫様とは、今までどおりの接し方をして欲しいのじゃよ」
「いやしかし」
普通に考えれば、気安く話が出来るような身分ではない。
「あの着物がいい例じゃよ。薫様には、心から落ち着ける場所が必要なんじゃ」
そう言う内藤の顔は、歳よりもはるかに老けて見えた。言葉は、いつしか柔らかいものになっていた。
「つまり、城の中は当然、ここも気が休まる場所ではなくなったということですか」
薫の事を知って、かつ狙う相手であるとすると、敵は大奥か幕閣ということになる。
(佐渡守殿はもしや、嬢ちゃんのために?)
想像でしかないが、もし御城から退く真の理由がこれだとすれば、よほど慎重に事を進めたのだろう。
「うむ、まだはっきりした事は言えないんじゃが」
内藤が再び声をひそめた。
「御老中方の中に不穏な動きがある」
「何ゆえ姫、いや薫様を?」
「それも、ワシの口からは言えぬ。そうじゃな、何日かしたら使いを出すから、その時に、な」
その時。
「じい、入るぞ」
襖の向こうで、薫の声がした。
「ああ、薫様、お入りくだされ」
襖が開くと、今度は凛々しい剣士姿の薫が入ってきた。後ろには梅村も控えている。
「さて、私に席を外させて、どのような話をしたのだ?」
薫は、にっこりと笑いながら内藤を追求してきた。だが、内藤は毛ほども動じない。悪戯小僧のような顔をして、口元に笑みを浮かべて嘯いた。
「なに、薫様によもぎ殿の屋敷で一緒に暮らしていただくための相談をしておりましたのじゃ」
「はあ!?」
さすがにこの返し技には、薫も驚かされたらしい。
よもぎも、少々呆れて内藤の顔を見た。
「じ、じいッ! それは何かの冗談か?」
「いや、本気ですじゃ」
好々爺とした内藤の顔が引き締まった。
「この屋敷とて安全ではありません。ならば、知られていないよもぎ殿の屋敷にしばらく身を隠し、その間に安全な場所を探したほうが良いでしょう」
それを聞いた薫は、はじかれたように顔をあげてよもぎを凝視する。そのままの姿勢で内藤に問い掛けた。
「じい、岡田どのにはお話を?」
「はい、薫様のお血筋については」
それを聞いた薫の顔が、少々だが白くなっている。目には、一瞬だけ不安げな光が浮かんだが、気丈にもすぐ立ち直ったらしい。
それを見て取りながらも、よもぎの頭には別のことが浮かんでいる。
(血筋については、か。まだ相当な秘密があるようですねえ)
恐らく、それこそが内藤の明かさなかった部分だろう。
「内藤殿」
静かに呼びかけてみる。薫がびくっと小さく震えたのが判る。
「アタシのところは男所帯でしてねえ、嬢ちゃんが来るには、ちと向かないと思うんですが」
敢えて『嬢ちゃん』と言ってみる。すると薫の体から、多少の強張りというか、力が抜けたのが見て取れた。
どうも、対等に扱われるということが無かった様だ。そのことが、心の中でどのような影響をもたらしていたのだろうか。
「いや、ここは薫様の安全のために、どうしてもお願い申す」
内藤はそのまま土下座した。腕が折れているにも関わらず、年下で軽輩のよもぎに対して。これには、よもぎも薫も慌てた。
「じ、じいッ!」
「な、内藤殿、お止めください」
「いや、承諾していただくまで止めませんぞ」
まったく動じない内藤に対し、よもぎはため息を付いた。
「判りました。嬢ちゃんはアタシがしばらくお預かりします。ですがね」
顔を上げた内藤に、よもぎは頭を掻きながら言う。
「アタシもお役目がありますし、人手が足りません。かと言って、こちらの御家中から付けていただくこともできません」
これは当然だ。内藤屋敷の者が出入りすれば、居場所を教えているようなものだ。
「それほど長い間ではありませぬ。まあ問題ないじゃろう」
内藤は、薫に向き直った。
「さて薫様、しばしよもぎ殿のお屋敷でお過ごしくだされ」
「じいはどうするのじゃ」
「じいは、今しばらくこの屋敷にて敵の動きを見ましょうぞ」
薫の目に、心配の色が浮かぶ。
「わかった。だがじい、危なくなったらすぐに佐渡守どののところへ行くのだぞ」
「連絡は余之助という者にやらせます。一度、アタシの書付を持って来させましょう」
「分かりました。気を付けてお戻りくだされ」
よもぎは薫へ向き直る。
「さて嬢ちゃん。せっかく着替えたところを悪いんですがね」
その言葉に何か気づいたのか、薫の顔色が変わる。
「ま、まさか」
「お察しの通り、また娘姿になっていただきましょう」
薫はがくりと両手を付いてうなだれた。