第4話
3話の修正ついでに4話も投下します。
空が、漆黒の薄絹を一枚ずつ剥いでいくように明けていく。
うすぼんやりとした春のもやは、挿しはじめた光に混じりあい、藍から紫、そして朱色へと染め上げられていく。
鳥達は庭の小さな池の真横に植えられた楓にゆらゆらと掴まり、太陽を呼ぶようにさえずっている。
よもぎの朝は早い。
前夜どれほど遅くなろうとも、朝起きる時間は変わらない。
薄い寝巻きを脱ぎ捨て、乳白色の使いこまれた麻の胴着と、紺が浅くなった道場袴に身を包む。
そのまま井戸へ向かい、顔を洗って口をすすぐ。
明け六つ(朝六時)前。まだ日が昇らぬ朝のひとときは、よもぎにとっては修行の時間だ。
屋敷の隣には、それほど広くはないが道場を構えている。そこで、すでに習慣となってしまった朝稽古をするのだ。
身支度を整えたよもぎは、まず板の間に正座する。左手には、銘刀会津兼定がある。よもぎの愛刀のひとつだ。
よもぎは一礼すると、新道心影流の作法に則り刀を抜いた。この流派は、鹿島神伝直心影流の流れを汲むと言われる剣術のひとつだ。
静かに立ち上がると、ゆっくりと刀を振るう。
仕太刀はいないが、形を順に打っていくと、仮想の受け太刀が見えてくる。
よもぎは、次第に剣に没入していった。
そのまま、型稽古を数回も繰り返すと、日の出の時刻を迎える。
黒眼鏡越しにも、朝の光がまぶしい。
なおも、よもぎは剣を振り続ける。すると、昨晩の光景が、目の前に浮かんできた。
覆面をした男の突き。体が自然に横に開き、再び下から切り上げる。
昨晩より早く腕が飛んだ。
次に、袴の男が正眼に剣を構え、向かってきた。
よもぎは下段に構える。
袴の男は、ゆっくりと上段に構えなおした。大きな体から威圧感が吹きあがる。よもぎも、呼吸を合わせて横構えになる。
お互い、間合いへ一歩踏み込んだ。
瞬間。
鋭い一撃が、よもぎの脳天めがけ打ち込まれる。
よもぎは、一歩横へずれてかわす。
すると、縦に切れ込んだ一撃が追いかけてきた。竜の尾が撥ねるがごとく。
後ろへ飛びのくよもぎ。
追う袴の男。そのまま刀を返し、右肩めがけて袈裟懸けに来る。
今度は左斜め前に踏み込むよもぎ。そのまま剣を横に薙ぐ。
右に回り込み、かわす男。
よもぎも後ろに下がる。
再びお互いの間合いから外れた。
すばやく向き合う。よもぎの構えは精眼。
そのまますべての動きが止まった。
互いにピクリとも動かない。
そして、静かに男の姿が消えた。
「ふう……」
よもぎは静かに息を吐き出し、構えを解いた。
「旦那」
「ああ、余之助かい。ご苦労さん」
道場の入り口に立っていたのは、昨夜使いに出した余之助だった。
「五平の爺さんが、朝めしの支度をしてますぜ」
五平は、近くの町屋から通ってきて、屋敷の下男のようなことをしている。
元々は腕のいいスリだった。決して腕が衰えたわけではないらしいが、今ではすっかり好々爺だ。
「ああ、そうかい。それじゃ汗を流してくるかねえ」
よもぎは井戸へ向かった。
水をくみ上げ、もろ肌脱いで汗をぬぐい始めた。体からは湯気が上がっている。
首には、紫白の糸で編まれた紐を掛けている。その先端には、金色の鍵がぶら下がる。
鍵は、黄色の朝やけに照らされ、きらきらと輝きを放っていた。
よもぎは、朝のこの時間が好きである。
余之助が差し出した新しい手ぬぐいを受け取り、体と鍵をきれいに拭く。
「旦那、今日はまた一段と熱が入ってやしたねぇ」
「まあ、昨日みたいなことがあるとねえ」
新しい着物を受け取り、するりと腕を通す。そして、改めて余之助に向き直る。
「そういえば、あの娘さんは起きたのかい」
「いえ、まだですねぇ」
「昨日の様子じゃ仕方ないかね」
話しながら座敷に戻り上座に座ると、余之助が膳を運んできた。
「で、屋敷はどうだったんだい」
「へい、死人はおりやせん。けが人が数名、主の内藤様が一番の重傷です」
お櫃から飯茶碗にご飯をよそいながら、余之助が答える。
「死人が出なかったのは、どうやら夕餉に一服盛られていたようで。屋敷の者ほとんどがロクに動けなかったためですね」
「すると?」
「へえ、手引きをした者がいたって事でやしょう」
よもぎは、茶碗を受け取る。
「新規雇いでもいたのかねえ」
「飯焚きの女がひとり行方知れずです」
「内藤殿の容態は?」
「腕を切られてやしたが、命の心配はありやせん」
よもぎは、声を低くする。
「で、覆面たちの行き先は?」
「四谷の普通の長屋にございました。が、ちょいとおかしゅうございます」
余之助の声も、ほとんど聞き取れないほどに低くなる。
「おかしいとは?」
「長屋一棟を丸ごと押さえたのか、他に誰も住んでおりやせん。だとすると、金の出所が分からねぇんで」
「確かに妙だねえ」
食事を終わると、よもぎは茶を飲み、ほっとため息をついた。
余之助が、すかさず膳を下げる。
それを見越したかのように、よもぎは愛用する銀細工のキセルに刻み煙草を詰め込んだ。種火から火をつける。
「お許しがあれば、ちょいと探ってみようかと思いますが」
「そうしておくれ」
よもぎはキセルを盆に戻し、たもとから金入れを取り出して小判を三枚ほど取り出した。
「手下も使うんだろう。探索の費えにしておくれ」
「ありがとうござんす」
余之助は押し戴くように受け取った。
「では早速」
「ちょいとお待ち」
よもぎは余之助を呼び止めた。
「なんでやしょう?」
「娘さんに話さなきゃならない。行くのはその後だよ」
「合点です」
「あ、それと五平に言って、もう一膳用意しておくれ」
そう言うと、よもぎは席を立った。
よもぎは、娘の眠っている座敷の前まで来ると、閉められたままの襖へ声をかけた。
「あー、娘さん、起きましたかね」
襖からは何の音も聞こえない。
「仕方ないね、失礼しますよ」
よもぎは、一応断って襖を開けた。
そこには、昨晩の姿勢のまま静かに眠る薫の姿があった。
昨日の立ち振る舞いからは、それなりに剣を使うように見えた。
ならば、気配を感じて目覚めてもおかしくはないのだが、薬の影響が残っているのだろう。まだ眠り続けていた。
障子からのやわらかい光に包まれ、薫の唇は柔らかく微笑んでいるようにも見える。
長いまつげには光があたり、頬には赤みが差している。こうして見ると、まだあどけなさすら感じる。
よもぎは不覚にも一瞬見つめてしまったが、すぐに首を振り、やさしく呼びかける。
「娘さん、朝食の準備が出来ましたよ」
声に反応したのか、うっすらとまぶたが開かれる。
首をゆっくりこちらに向けて、じっと見つめてくるが、目の焦点が合っていない。
「どうしたんです?」
よもぎがゆっくり問い掛けると、二、三度瞬きをした。どうやら、意識がはっきりしてきたらしい。
「……ここは?」
「昨日の座敷ですよ」
よもぎの答えに何か思い当たったのか、一気に起き上がる薫。痛みはないようだ。
周りを見渡し、もう日が高いことを確認している。
「私は今まで寝ていたのか」
「昨日が昨日だからねえ、仕方ないでしょう」
薫は布団から出て、よもぎに深々と頭を下げた。
「それは失礼」
よもぎは、何も答えずに横を向いた。黒眼鏡の外れで、薫が首をかしげたのがうっすらと見える。
「どうしたのだ?」
「礼は良いから、まず着物を着なさいな」
薫は、艶かしいさらし姿のままだった。