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江戸大乱 ~蓬莱事件控~  作者: 桃源郷
19/20

第19話

さてクライマックスです。

全20話で収まります。

このため、一気に掲載します。

「これは、凄まじい」

 地下の部屋に入ると、倉田屋が初めて声を発した。浪人達と番頭は、落ち着きなく首を廻して、辺りをもの珍しそうに見ている。

(確かに、この部屋を見たら、今までの常識なんてふっ飛んじまうからねえ)

 今でこそ落ち着いていられるが、よもぎもここで全てを知ったのだ。


 ふと、よもぎは違和感を感じた。前回見た時にはなかった、高さ六尺程の箱のようなものがひとつ、まるで他の箱達に隠されるように増えていた。

(あれにお庭番が潜んでいるのか?)

 だが、お庭番は葵の鑑札を持つ者には無力だ。ましてや、お城の全ての機能を津島が握ってしまえば、逆転の鍵にはなるまい。

 ちょうど、隠れた箱のあたりを境に、こちら側と津島側にはっきりと境界線が出来ているかのように向い合って並ぶ。歩数にして五歩分。お紺に突きつけられた刀を奪って、全ての人質を取り返すには、絶望的な距離だ。

 それより、この地下まで余之助は来られているのだろうか。余之助がいれば、まだ逆転の目はあるのだ。

(余之助、頼んだよ)

 祈るように思う。


 その時、津島が口を開く。

「上様、門を開いてください」

 促されて吉鉦は、隠れた箱の前にある、小さな台のようなモノに指を乗せ、軽やかに動かし始めた。すると、右手の星空を象った壁から光りが消えていき、壁が割れはじめた。

「これは……」

 誰かのつぶやきが合図のように、壁の中から金属で出来たような二寸ほどの鍵穴と、鍵盤がせり上がってくる。

「上様、管理コードの開放を」

 再び促す声に、今度は吉鉦の手があきらめたかのように鍵盤に添えられ、十本の指がゆっくりと動く。

 すると、空中に画面が開き、どこからか棒読みの声が聞こえてきた。

《メインパスワードを変更します……予定外の変更です……続けますか?》

 一通り理解しているはずのよもぎにさえ、声と画面が一致している事しかわからない。

《現在のパスワードをどうぞ》

 吉鉦が指を動かすと、記号のような同じ文字が十ほど並んだ。どうやら、文字が自動的に隠されるようだ。残念ながら、これでは内容が分からない。


《マスターキーと新しいパスワードをどうぞ》

「上様、替わりまする」

 そこで、津島が前に進んだ。よもぎには、後ろに下がった吉鉦の悔しさと哀しさに歪む横顔がはっきりと見えてしまった。

 進み出た津島は、永十手を右手に持っている。そのまま鍵穴に永十手を、ゆっくりと挿しこんでいく。

 同時に、永十手は雷を身にまとうかのように少しずつ発光を始めた。画面は赤、緑、黄色が点滅を繰り返し、浮かんでは消える。目まぐるしく動く文字列。踊る光と陰。雷鳴のような警告音。機械のような女の声が響く。良く分からない言葉で注意を促してくる。

 おお、と数名が感嘆の声を上げた。部屋一面に光りは拡大し、色眼鏡をしているよもぎ以外は、皆目を細めている。

 だが、光にも音にも全く動じることなく、津島は鍵穴を睨みつけていた。

 根元まで永十手が挿しこまれると、津島はおもむろに右へひねる。

 ガチリ、という音とともに、唸りのような地底からの低い轟きが少しずつ大きくなり、全員の身体を包み込んだ。音のない響きは、最高潮に達する。

 津島は永十手より手を離し、台に手を掛ける。


 その瞬間。


 パン、パンと、あたりの音を圧して甲高い破裂音がふたつ。

 のけぞった津島が、横から崩れ落ちる。

 一瞬、全ての動きが止まった。


 ゆっくりと床に倒れる津島。

 ドサリ、という、低く鈍い音が、狂った光と無音の世界に響いた。

 よもぎは、驚いて音の根源を見る。

 そこには右手に短筒を持った倉田屋が立っていた。

 酷薄な目のまま、能面のような笑みを浮かべて。

 短筒の銃口からは薄く紫煙が立ち上っている。

 一瞬、よもぎに言葉はなかった。あまりの出来事に、頭が真っ白になった。


「倉田屋!」

 袴の男が、叫びとともに刀を抜いて倉田屋に踊りかかる。抜き手さえも見えない。

 パン、と銃声が響く。

 男は、胸から血を吹きだして、どう、と正面から倒れる。

「いや、危ない、危ない」

 倉田屋が、左手で汗を拭う。右手の銃は、倒れこんだ袴の男にぴたりと照準を合わせたままだ。

 猿顔の侍が、慌てて袴の男に背中から飛び付き、刀をもぎ取る。

「き、きさま、裏切る気か……っ!?」

 袴の男は荒い息の元、口から血を吐きながら猿侍に首を向け、呪訴のように言葉を吐く。

「あんたにゃ馬鹿にされっぱなしでさあ、いい加減殺したかったんだよね」

 そのまま男の背中を踏みつける。低くうめく袴の男。

「愚か者が……」

 苦しい息の下で、あきらめたようにつぶやく男。

「うるせえっ、死にやがれ!」

 猿侍は、奪った刀を逆手に持ち、男の背中を刺し貫いた。

「ぐぬっ」

 くぐもった男の声が響く。

 袴の男は咳をしながら血を吐きだす。肺と心の臓を破ったのだろう。もう助かるまい。

 そして、袴の男は何かをつぶやくと動かなくなった。


 よもぎの耳には、男の声が届いていた。

(地獄で待つ、か)

 よもぎも、その声に叩かれたように、ようやく事態を冷静に見ることができるようになってきた。

 どうやら、津島派と倉田屋派の抗争が、この土壇場で始まったらしい。

(と言うより、倉田屋はこの瞬間を狙っていたんだろうねえ)

「それじゃあ頼みましたよ」

「ああ、任せとけ」

 倉田屋は、猿侍にひと声掛けると、台に向って空いている左手を伸ばす。そのまま、一回ずつ人差し指で押し始めた。

 すると、女の平坦な声とともに、ぴっ、と笛のように甲高い音が短く鳴る。

(飛びかかれるか?)

 よもぎは猿侍と大男の様子を伺う。大男も全く動揺せず、お紺の首に刀を付きつけている。片腕の男は、いつのまにか脇差を抜き、薫に付きつけている。

(こいつらも、同じ穴の狢、って奴か)

 吉鉦も薫も、内藤でさえも顔色を変えたまま動かない。彼らにとって、今の光景はよほど衝撃的だったのだろう。

(だめだね、こいつは)

 無手のよもぎひとりでは対処できない。出来てもお紺と薫の安全が守れない。なにか切欠があれば。


 その時、倉田屋が再びこちらを向いた。

「さあ、暗号の書き換えは終わりました。これで、この江戸は私のモノです」

 倉田屋の、愉快そうな、それでいて聞く者に不快感を与える、低く流れるような含み笑いが響いた。

 そして、ゆっくりと右手の短筒を吉鉦に向ける。

「もはや、あなた方は邪魔ですね。特に上様、あなたにはここで崩御していただきましょう」

「な、何をする!?」 

 驚いた内藤が吉鉦の身を隠すように前へ出た。よもぎも一歩踏み出す。

「薫姫以外は、生きていてもらうと都合が悪いのですよ」

 歌うように外道な事を言う倉田屋。

(いけねえ、もはやこれまでか)

 吉鉦のせめてもの盾として、銃口の前に進み出るよもぎ。

 倉田屋の親指が、撃鉄をひくその時。


 パチャッと音がした。

「ぐおっ!?」

 銃声。あらぬ方向に放たれた。チュイン、と音が壁の端で響く。

 のけぞる倉田屋。顔にかかっている赤い液。

「旦那!」

 余之助の礫だ。天井を見る。天板がずれて、余之助の顔が見えた。

 投げ落とされる刀。空中で掴み、抜き放つ。

「余之助、でかしたっ!」

 そのまま、もだえる倉田屋を見据える。倉田屋は必死に左手で顔を拭っている。狙うは右手。棒のように突き出されている。

「鋭!」

 左に廻り込み、斜に刀を振り降ろす。倉田屋の右手親指から手のひらまで、短筒ごと二尺前に飛んだ。一瞬遅れて血しぶきが飛び散る。

「うぎゃあああぁぁっっ!?」

 倉田屋が絶叫しながら、後ろに倒れこむ。左手で、掌から先が半分無くなった右手を抑えた。そのままのたうつように転がる。

「動くなっ!」

 誰かの叫びが響く。見ると、薫の首に手の無い右手を巻きつけ、男が左手で脇差を薫の胸に当てていた。

「うっ、動けば刺す! 刀を捨てろっ!」

「はい、残念」 

 男の背後に影が立つ。

「がっ!?」

 男の口から、刃が飛び出た。

 後ろの影が、そのまま男を押しのけた。倒れる片手の男。

 全員がそこに注目した。


(今だ)

「お紺!」

 よもぎは、お紺に向って叫んだ。弾かれたように反応するお紺。そのまま前に倒れ込み転がった。距離が離れた。

 瞬間、よもぎは速歩で前に出る。無防備に立つ大男。そのまま駆け抜け、刀を一閃。首を薙ぎ、頚動脈を絶ち切る。血が一気に吹きだす。

 よもぎは残心のまま素早く振り返る。大男は刀を取り落とし、呆然と立ちすくんでいる。

「うらぁっ!」

 そのまま男を全力で蹴り倒す。大男は受身も取らず、朽ち樹のようにどう、と倒れた。そのまま痙攣する。

 一瞬で薫の方へ向き直った。

「姫!」

 そこには、男の方を見ながら驚いた顔のまま立ちすくむ薫と、髪を振り乱し男の胸に飛びこんで胸にしがみつく吉鉦の姿があった。


 男は、お庭番と同じ、濃緑の装束を着ていた。だが、そこに頭巾と仮面は無い。おかげで、顔がはっきりと見える。

 頭ひとつ分吉鉦より背が高く、金色の毛並みも鮮やかな犬顔であった。耳は鋭くとがり、若そうに見えるのに堂々とした貫禄を思わせる。血刀を右手に下げたまま、左手で吉鉦を抱きかかえ、ゆっくりと頭を撫でている。

 吉鉦を見つめる目は優しく、その左目の上には長い傷がある。

 どうやら、先ほど中に入ったお庭番は、この男の変装だったようだ。

(道理で、ヒトの気配がすると思ったら、そういう事かい)

 これが、吉鉦の策だったのだろう。


「お主、何者だ?」

 出来るだけ自然に、ゆっくりと、よもぎは男に声をかける。自分を落ち着かせるように。

「まさか、いや、そんな……」

 その横で、つぶやくように内藤が声を絞りだす。

 男が口を開いた。

「お前、もしかして、よもぎか? でかくなったなあ」

 そう言ってニヤリと、悪戯小僧の笑みを浮かべる。

 その声に、内藤が人差し指を震わせながら男に突きつけた。

「そのお声、や、やはり雁母殿!?」

「おお、もしや主膳か。老けたなぁ」

 さも面白そうに内藤の顔を覗き込む男。

(雁母、まさか!?)

「じいさん、なのか?」

 よもぎも驚きのあまり、一瞬現実感を失っていた。


 男は、じろりと鋭い眼光をよもぎに見せる。

「話は後だ。こいつらを始末しなきゃな」

「ま、まだじゃっ! まだ負けたわけではないわっ!」

 震えながらも、倉田屋が立ち上がった。器用にも右手首を自分で縛ったらしい。

「あ、暗号はワシにしか分からんッ! ワシが死ねば、江戸も終わりじゃッ!」

 狂ったようにわめきだした。

 悔しいがその通りだ。この江戸の生活環境は、すべて江戸城から操作している。

「拷問されようが、ワシは絶対に喋らんぞ! 貴様らは、ワシの言う事を聞くしかないんじゃッ!」

 全員が沈黙する。

「人質はこの江戸じゃッ! どうじゃ! ワシの勝ちじゃァ!!」

 狂ったようにけらけらと笑う倉田屋。


 その時。

「残念だがなぁ、糞爺よ」

 余之助がひらりと天井から降りてくると、口を挟んだ。

「余之助?」

 よもぎがつぶやくと、余之助はちらりとこちらを見て、すぐに言葉を続けた。

「あっしにゃお見通しなんだよ」

「なっ、なんじゃと!?」

 余之助は、倉田屋の前へ進んだ。

「上から全部見てたからねぇ。どこを押したか、全部憶えてらぁね」

 コメカミを指で叩きつつ、唇を歪める余之助。

「バッ、ばかなっ! そんな事は不可能じゃっ」

「……嬉しくもねえ忍びの術って奴さね」

 鼻で嗤う余之助。

「し、忍び……じゃと?」

 力無く膝から崩れ落ちる倉田屋。


「論より証拠だ。上様、もう一度このカラクリを動かしちゃいただけやせんか?」

 恐れ入る事も無く、吉鉦を見る余之助。

「あ、ああ」

 ゆっくりとカラクリに歩み寄り、操作する吉鉦。先ほどと同じ声がすると、余之助はカラクリの前に立った。

《現在のパスワードをどうぞ》

 女の声に促されるように、余之助が人差し指で箱を押し始める。倉田屋と全く同じ仕草で、同じ早さで。

《新しいパスワードをどうぞ》

 先ほどと違う内容だが、すでに永十手が刺さっているからだろう。

「さあ、上様どうぞ」

 余之助は振り向くと吉鉦を促し、自分は箱の前から退いた。そのままよもぎに近寄る。

 よもぎはそれを見届けると、チラリと雁母を見た。雁母は、いつのまにか倒れた津島の横に座り、何かを囁いているように見える。

 今度はお紺を振り返る。

 お紺は、ぎらぎらとした敵を見る目で、転がったまま一心に倉田屋を見ている。

 その倉田屋は、吉鉦を見ながら青くなって震えていた。

《書き換えが終了しました》

 平坦な女の声が耳に届いた。横目には、吉鉦が安堵のため息とともに、その場へ座り込んだのが見えた。そこに、雁母が駆け寄ったのも。

(あっちは任せていいだろう)

 よもぎはそう判断し、お紺に駆け寄った。

「お紺、すまねえ。お前さんに、何て詫びていいか」

「殿さま、倉田屋は、倉田屋は、あたしが止めを……」

 お紺がよもぎにすがりついた。

「ああ、お取調べが済んだらな」

 お紺の体からは、震えが伝わってくる。怒りと悲しみによるのだろう震えが、痛いほどに感じられた。

 一瞬、お紺の体から力が抜けた。が、再び顔を上げた。

「薫ちゃん、薫ちゃんは!?」

 その声に、思わずよもぎも辺りを見まわし、薫を探す。


 すると、部屋の隅で薫がこちらに背を向け、左手で着物の腹をはだけたのが見えた。右手には、いつのまにか片手の男が取り落とした脇差が握られている。

「いかんっ!」

 よもぎは駆けだし、後ろから薫を止めようとする。だが、既に薫の右手は、白磁のような腹めがけて振り下ろされていた。

「ちいっ!」

 とっさに左手を肩から腹に滑りこませた。

 手の肉と骨を貫く鈍い衝撃が、よもぎの体に響く。手の甲から、熱さだけが全身を駆け廻る。

「ぐッ!」

 思わず声が洩れた。

「岡田どの。何をするのだ」

「何をするじゃないッ!」

 振り返り首をかしげる薫に、思いっきり怒鳴り返した。その声に固まる薫。

 よもぎは、ひとつ小さく舌打ちして、自分の左手を見た。

 脇差は、よもぎの手の甲に深く刺さっていた。見ると薫の白い肌には、よもぎの血がべっとりと付いている。

 よもぎはぷらぷらと脇差が揺れる左手を無視し、そのまま肩を掴んだ右手に力を込め、背中から薫を倒す。

「あ」

 薫が声を上げるが、よもぎは答えず、右手で薫の腹をまさぐる。薫の体には傷ひとつついていない。

 思わず、ため息が洩れた。


「何してんですか、あんたは、クッ……」

 揺らしたせいか、脇差は自分の重みで自然に抜けた。そのまま鈍い音とともに床に転がる。

 左手からは血が吹き出し、断続的な痛みが脈打つように疾る。

 思わず右手で傷を押さえる。

「だ、旦那ッ!」

「殿さまッ!」

 慌ててこちらに駆け寄る余之助とお紺。

「なぜ止めるのだ。後はこの身を滅せれば万事解決ではないか」

 薫は、いつの間にか起きあがり、着物をはだけたまま座った姿勢でじっとこちらを見ている。そして、さも不思議そうにつぶやいた。

 その瞳には、何も映っていないかのように、機械的な冷たさをはらんでいた。

「どういうことですか」

 よもぎも睨み返す。横目には、余之助が傷薬を左手の甲に振りかけ、お紺が袖を赤く染めながら、必死に手ぬぐいで縛っているのが見える。

 掌から波のように伝わる痛みは、鼓動に合わせてよもぎに襲いかかる。だが、よもぎは痛みを無視した。

「私の存在が、このような事件をひき起こしたのだ。危機を乗り越えた今、私の体自体を消滅させれば、このような事は起こるまい」

 薫が当たり前のように言った。

「頼むぞ岡田どの。私が死んだら、この体を灰にして砕き、海に撒け。一片も残してはならんぞ」

 あまりと言えばあまりな言葉に、余之助もお紺も、後ろに駆け寄った吉鉦さえも凍ったように動かなかった。


 その時。

 ぱん、と、濡れた雑巾を叩きつけるような音が響いた。

「あンまりふざけた事をお言いでないよ、嬢ちゃん」

 気が付けば、よもぎは薫の頬を叩いていた。

「え、あ」

 薫は一瞬呆けたように目を見開くと、自分の左頬に手を当てた。濡れた感触に驚いたのか、すぐに掌を見る。

「あ、う……あ?」

 そこに付いた赤い血に、今やっと気付いたように、薫の表情が一気に崩れた。

「お、岡田どの、岡田どの、ケガを、ケガを?」

 小刻みに震えだす薫。

「ま、また、私、私の、せい、で」

 顔面を蒼白にし、震えながらつぶやく。まるで、壊れたカラクリのように。

「薫ちゃん? 薫ちゃん!?」

 異変を感じ取ったお紺が、薫の肩にすがって揺さぶる。

 その時、薫の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

「わ、私、ごめ、ごめんなさい、消える、消えるからぁ、生きて、迷惑、かけ、もう、やだからぁ……」

 しゃくりあげ、子どもに戻ったように泣きじゃくりながら、必死に言葉を出し続ける薫。

(こんなに追い詰められていたのかい)

「もうや、やなのぉ……消えるから、消えるからぁ……」

 自らを機械と化した、精神の最後の砦とも言うべき仮面が剥がれ落ちた時。薫の心は、必死に押し隠してきた剥きだしの、子ども時代のそれに戻っていた。

 あまりに痛ましすぎた。

 この傷ついた魂に、何を言ってあげれば良いのか。

(このままじゃ、ホントに壊れちまう) 

「お紺、替わりな」

 薫を必死に抱きしめるお紺の肩を叩く。振り返ったお紺もまた泣いていた。

「殿様……」

「大丈夫だ、替わりな」

 お紺に力強くうなずく。

 もちろん、薫に対してどう言ってやるのが正解かなんてわからない。もしかしたら、今から言う事は逆効果かもしれない。だが今は、思った事をぶつけるしかない。


 よもぎは、黒眼鏡を外した。どれほどまぶしくても、直接薫の目を見て話したかった。

 薫は、まだごめんなさい、とつぶやいていた。

 両手で、薫の頬を挟み、じっと見つめる。涙に濡れた黒い瞳は、黒曜石のように光って美しかった。

「嬢ちゃん。いや、薫、良く聞け」

「ごめ、ごめ……」

「薫ッ!」

 気を込めたよもぎの声に反応したか、びくりと薫の体がひとつ震え、言葉が止まった。

「いいか、アタシはお前の存在を、今まで迷惑ともいらないとも思ったことは一度もない。一度もだッ!」

「……だって、だって、いっぱい迷惑を」

 よもぎは薫の言葉をさえぎって続ける。

「薫、この江戸にとって、本当にお前の存在が迷惑になるなら、もうそれしか手が無いなら」

 よもぎは、薫の額に掛かっていた髪を、右手で整える。


「その時は、アタシが自分の手でお前を殺す」


「と、殿さま!?」

「お紺、お前は黙ってろ」

 驚きの声を挙げたお紺をチラリと見て、静かに制止した。そのまま薫に向き直る。

「薫、アタシはお前に誓う。江戸のために、お前を殺すのはアタシだ。アタシだけだ。それでいいな?」

 コクリ、と薫がうなずいた。

「今はまだ、カケラも迷惑だとは思っちゃいねえ。だから、今死ぬのは絶対に許さん。絶対にだ」

「本当に……」

「ん?」

「本当に、その時は殺して、灰にしてくれる?」

 すがるような薫の声に、よもぎはゆっくりと、だが力強くうなずく。

「ああ、約束する」

 おずおずと震えながら、童女に戻ったように、なおも薫が聞いてくる。

「今、迷惑、じゃない?」

「ああ、迷惑じゃない」

「まだ、生きてて、いい?」

「もちろんだ」

 その言葉に、再び薫の表情が歪み、涙がこぼれ落ちる。

「本当は……」

 薫が、そのままよもぎに抱きついてきた。

 背中に、力いっぱい着物を握りこむ手の感触が伝わってくる。

「本当は、本当は! 怖かった、苦しかった! 迷惑だって、邪魔だって! ずっと言われてるみたいで!」

 薫の、精一杯の、心からの叫びだった。

「人形だって! 複製だって! いらないって! なんで生まれたんだろうってッ!」

 必死によもぎの体にすがりついてくる。まるで溺れてもがいて、やっと見つけた流木を全身で掴まえるかのように。

「お母様にも、主膳にも、ねえ様にも! みんなに迷惑しかかけてないってッ!」

「本当に、本当に自分がイヤだった! イヤだったのぉ……!」

 その後は、もう言葉になっていなかった。ただ、よもぎの胸に顔を埋めて泣くだけだった。

 よもぎも、力いっぱい薫の華奢な体を抱きしめる。

 今は、それしか出来なかった。


「よもぎ殿、ありがとうございました」

 薫は泣き疲れたのか、よもぎの胸の中でそのまま眠ってしまっていた。

 その姿を見て、吉鉦は涙をこぼしながら、よもぎに深く頭を下げてきた。

「上様、勢いとは言え、アタシはとんでもない事を姫様に言っちまいました」

「いえ、今はあれしかなかったでしょう」

 吉鉦は、寝入ってしまった薫の頭をゆっくりと撫でながら、言葉を洩らす。

 薫の表情は、親の胸の中で安心しきって眠る幼子のように、柔らかい笑みを浮かべていた。

「津島や倉田屋から、薫もこの江戸も守ってくれた事を、本当に感謝します」

 よもぎは、首を横に振った。

 誤解を解いておかねばならない。そう思ったからだ。


「上様、アタシにはご老中の、いや、津島様の本当の気持ち、分かるような気が致します」

「津島の気持ち、ですか?」

 吉鉦は、突然のよもぎの言葉に、少々驚いたようだ。

「津島様は、ご自分が矢面やおもてに立とうとなすったんですよ。来たるべき戦いや、姫の宿命に対して」

 吉鉦が形の良い眉を顰める。

「どういう事ですか?」

「確かに、地球との交易や支配、なんて野望もあったでしょう。ですがね、その時に上様や姫が、前面に出る事を避けたかったんじゃぁねえのか。そんな気がしてならないんですよ」

 でなければ、再三よもぎに対して、吉鉦や薫の事を言うはずが無い。そう思えるのだ。

「自分が全ての実権を握り、支配する事で、姫が利用される状況を完全に排除したかったんじゃねえかと思うんですよ」

 そう。吉鉦と全く同じ遺伝子であるからこそ、薫の体そのものが利用できてしまうのだ。吉鉦がその地位から離れれば、その意味での利用価値は無くなる。

「ついでに、自分を怨んでくれれば、ふたりとも罪悪感を感じないだろうと。そこまで考えていたんじゃねえかってね」

「まさか、そのような……」


「いや、よもぎの言う事は本当だぜ」

 そこに、雁母が近寄ってきた。

「あいつは、オレが死ぬ前に言った事を、最後まで忠実に守っただけだ。あいつなりに、お前達を守ろうとしたんだ。やり方はまずかったがな」

「三九郎様?」

「最後までカオル達に詫びていたぞ。……あいつには本当に済まねえことをしちまった」

 カオルというのは、吉鉦の事だろう。

「だからカオル、あいつを怨まねえでやってくれ。頼む」

 頭を下げる雁母に、吉鉦は深くため息を付いた。

「私は……何も分かっていなかったのですね。本当に愚かな主君ですね。結果、有為の家臣を死なせてしまった」

 そのまま、津島の亡骸の横に座り込んだ。

「済まぬ、済まぬな、津島。そちの心を分かってやれなかった、この愚かな余を許してほしい……」

 吉鉦は、硬く閉ざされた津島の目を見ながら、何度も津島の頬を撫でた。吉鉦の目からは、涙が溢れていた。

 その顔は、先ほどの泣きじゃくった薫の顔に、驚くほど良く似ていた。

「カオル、いや吉鉦。オレは老中になる。弟子の不始末は、師匠であるこのオレが責任をもって片を付ける」

 なおも頬を撫で続ける吉鉦の両肩に後ろから手を置き、雁母は吉鉦に、静かに語りかけた。

「三九郎様……」

 吉鉦は顔を上げ、肩に置かれた右手に、そっと左手を重ねた。

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