第16話
途中から激しく鬱展開のため、ご注意を。
ちゃん……。
薫ちゃん……。
薫は暗闇の中で、自分を呼ぶ声が響くのを感じた。
「ん……」
海底から急に浮かび上がるかのように、暗闇が薄明かりに取って変わられていく。
頭がぼんやりしている。
目を開けようとするが、やけにまぶたが重い。無理に意識してこじ開けてみる。
「薫ちゃん!」
目を開ければ、そこにはお紺の顔。挨拶をせねば。
すると、突然口元に引きつるような違和感を感じる。
声を出そうとするが、響くのはくぐもった音のみ。
「薫ちゃん、大丈夫!?」
お紺の必死な顔が目に映る。驚いた拍子に、意識が目覚めた。
(な、なんだ!?)
ようやく薫は、自分が置かれている状況を把握した。
手足は動かせない。どうやら縛られているらしい。口には、たぶん猿轡だろう。きつく縛られて、全くしゃべることが出来ない。
首を動かすと、そこには荒縄で縛られているお紺。
お紺の首にさらしのようなものが引っ掛っている。どうやら、猿轡を自力で外したらしい。
「~!?」
驚いてお紺の名を呼んだが、響くのはくぐもった音のみ。
「よかった、怪我はない? 痛むところは?」
お紺は、薫に笑いかけてきた。
「あぅッ!」
だが、急にうめき声とともに顔をしかめる。
良く見ると、お紺は肩の間接が外されていた。
(お紺ねえ様!?)
驚いて声を上げるが、出るのはうめき声。
「あたしは大丈夫よ。それよりここは」
額には脂汗を浮かべ、白くなった顔色に無理矢理笑みを浮かべるお紺。唇の震えが、痛みを物語っている。
「お目覚めのようですな」
その時、お紺の言葉をさえぎるように、聞いた事のない老人のような皺枯れ声が、座敷牢に響いた。
声のほうに身体を転がす。そこには、上等の絹か何かで拵えた、見るからに高そうな焦げ茶の軽参に白い足袋を履き、細工が施された杖をついた狸族らしい老人が立っていた。老人は指の長さほどもある白いあご髭を左手で撫でながら、細い目をさらに細めて愉快そうに柔らかい笑みを浮かべている。
その後ろには、背の低い猿顔の浪人者がひとり、こちらはニヤニヤと卑しい笑いを浮かべている。
浪人者にはどこか見覚えがある。だが思いだせない。
薫が老人と浪人者を睨みつけると、老人は、ほっほっほ、という、いかにも好々爺然とした笑い声を発する。
「将軍家御息女様ともあろうお方が、そのような目つきをなさるとは、御側役は何をしておったのでしょうなァ」
「あんた誰さ!?」
お紺が怒りの声を上げると、老人は笑いを止め、そのままの顔で語りかけてきた。
「あたしは倉田屋草兵衛と申しますよ。姫様、以後お見知り置きを」
慇懃無礼という言葉を絵に描いたように、その老人は軽く頭を下げてくる。
「御息女? 姫様?」
お紺のつぶやきが耳に入る。その瞬間、はっとお紺の顔を見た。
「おや、そこの年増さんは知らなかったと見えますねェ」
倉田屋は、細い目を軽く見開きながら、こちらを向いてきた。その鋭い目の光は、ただの笑みを酷薄な嘲笑の笑みに変える。
「言いました通りですよ。このお方は、徳川将軍家御息女、薫姫様ですよ」
(知られたっ!)
薫の頭の中を、この言葉が稲妻のように疾った。
「はっ、何わかんないこと言ってんのさ、このジジイ」
「まあ、信じられないのは仕方ないとは思いますがねぇ、正真正銘、その方は将軍吉鉦公の姫君ですよ」
その瞬間、お紺の目がこちらを向いてきた。薫には、その目が不信と驚愕の色を浮かべ、責めているように思えた。
薫には、肯定するように、首をうなだれるしか術はない。
追い討ちを掛けるように、倉田屋の嘲笑が響く。
「おやおや、親しげな割には、姫様に信用されていらっしゃらなかったようですなァ。ご身分すら知らせてもらえないとはねェ」
そんなつもりはなかった。ただ数日の交流であったが、本当にお紺のことは好きだった。
「薫ちゃん……」
小さく響く、呆然としたようなお紺の声が、鞭のように心を苛む。
(違うんです、ねえ様ッ!)
自分の口から言いたかった。
でも、それは許されなかった。
内藤から、きつく止められていたのだ。
だが、今となっては所詮言い訳に過ぎない。
声を出せないことが、話せないことが、こんなにつらい事だとは。
喉に、吐き気のような塊が押し寄せる。
必死に首を横に振り、お紺に気持ちを伝えようとする。
悔しくて、胸が割れるように痛い。
「ケガをして、肩まで外されているというのに、報われませんなァ、いや、ご同情申し上げますよ」
真綿で首を締め上げていくがごとく、倉田屋の弾劾は続く。
「……だからどうだってのさッ!」
お紺が吠えた。
「薫ちゃんは薫ちゃんさ、産まれがどうであろうと、あたしには関係ないねっ!」
痛みが疾るからか、時に顔を歪め、顎から玉のような汗が滴り落ちる。頬には数本の毛が張りついている。それでも、全身から焔がほとばしるかのようなその姿は、強烈に美しく、薫の心を焼いた。
「逆に、お姫様でござい、とお高くとまられるより、余程うれしいってもんさ」
そう言って、お紺は薫の方に顔を向けた。
「だって、あたしはお姉ちゃんだからね」
そして、白い顔のままお紺は微笑む。
嬉しかった。
秘密を話さなかった自分を受け入れ、許してくれようとしている。
薫は、再び喉の奥から熱いものが込み上げ、視界がぼやけるのを感じた。頬を伝うものが、暖かく猿轡を濡らしていく。
「おやおや、美しい女の友情ですか。まあ、姫様が真実を話さない以上、単なる貴女の妄想ですがねえ」
低く笑いながら、猶も嘲笑する倉田屋。
「薫ちゃんが話せないのは、あんたのせいじゃないのさッ!」
「ああ、猿轡のことですか。これは単に、騒がれないようにしているだけですよ」
それでも、倉田屋の余裕は貫けない。
「はッ、将軍様への人質って訳かい」
お紺が倉田屋に毒づいた。
「上様への人質? そんな無駄なことはしませんよ」
倉田屋は、癖なのか左手の親指と人差し指で髭を撫でながら、さも意外そうに言う。
「え?」
お紺が、意外そうな声を上げる。
これは、薫にとっても考えの外だった。
「だいたいそれだけならば、姫様は連れて来て、貴女はとっくに始末していますよ」
ほっほっほ、という高笑いとともに、倉田屋は言いきった。
薫は、自分の顔からざっと音を立てて一気に血の気が引いたのを感じた。
(こ奴、本気だ)
ヒトを消すことに、何ら痛痒を感じていない。それが本能的に分かってしまった。
お紺もそれを感じたのか、先ほどより顔が蒼ざめている。
「じゃあ、どういうつもりなのさ」
それでも、声が震えていないのは、さすがお紺だ。
「まあ、人質と言うところは正解としておきましょうか。確かに貴女を生かしている理由は、あの十手持ちの、岡田とか言う犬侍への人質ですよ」
それを聞いたお紺の顔が、悔しそうに歪む。
「それにまあ、もうひとつ理由が出来たようですがね」
(もうひとつ?)
薫は、お紺の身柄が逆説的にだが安全なのを確認し、内心ほっとした。と同時に、倉田屋の言葉に違和感を覚えた。
その時、バタバタと番頭らしき中年の男が、倉田屋の元へ駆け寄ってきた。男は、そのまま倉田屋へ耳うちする。
「何? 御前様が?」
「邪魔をするぞ」
野太い声が響く。と同時に、虎顔の立派な身なりをした男と袴を履いた犬顔の男が入ってきた。
薫は、その男達に見覚えがあった。
(津島甲斐!? やはり黒幕はこ奴か!)
まさに、将軍家最大の政敵とも言える存在、津島甲斐守だった。
(それにあの袴の男は、押し込みの頭と同じ着物!)
すると、先ほどからいる浪人者も一味か。道理で、どことなく体つきに見覚えのあるはずだ。
薫の全身が、怒りのため熱くなる。
口惜しい。この猿轡さえなければ、思う存分罵倒してやるというのに。
「倉田屋、なぜ姫まで縛っておるのだ」
「ご自害を考えないとも限りませんので、致し方なく」
津島の固い口調に、倉田屋は平然と答える。
「ご命令とあれば、もちろん戒めを解きますが」
津島はひとつため息をつくと、薫に向って片膝を付き、話しかけてきた。
「姫、ご無礼の段、平にご容赦いただきたく」
(何を言っているのだ、この男は)
さすがに薫は、怒りより呆れを感じてしまった。拉致監禁の上、縛りに猿轡までしておいて、平にご容赦もあったものじゃないだろう。
「くれぐれもご自害などお考えにならぬよう。ご自害なされたところで、事態は変わりませぬ」
どういうことだろう。少なくとも、これほどの恥辱を受け、しかも人質にされるならば、死を選ぶより他にはない。
そこで、津島はお紺を見た。
「お紺とやら」
お紺は、キッと津島を睨みつけた。
「先ほど、岡田と話をしてきた」
「殿さまと!?」
お紺の表情が、驚愕に染まる。
「ああ。わしとしては、岡田もそなたも味方に欲しい」
津島が立ちあがり、再び薫に向き直る。
「姫には、ご協力いただきたい。そうすれば岡田とお紺の安全は、この津島が請け負う」
「薫ちゃん、だめよ!」
お紺が悲鳴のような声を上げた。
「うるさいぞ、女!」
猿顔の浪人者が、お紺を怒鳴る。
「姫、自害をされませんな? ならば、猿轡を外しまする」
それを意に介さず、津島が薫に尋ねてきた。
このままではどうにもならないし、話すことも出来ない。二度、首を縦に振る。
津島はそれを確認したのか、後ろに控える倉田屋に命じた。牢の鍵が開けられる。
「御前、某が」
「いや、ワシがやる」
中に入ろうとした袴の男を制し、津島自身が中に入ってきた。
薫は驚いた。まさか、津島自身が牢内に入って来るとは思わなかったのだ。
一瞬、飛びかかろうかと思う。しかし、自分もお紺も縛られたままだし、相手は男が四人だ。すぐ取り押さえられるのがオチだろう。
津島は薫の後ろに廻ると、優しく猿轡を解きはじめる。どうも、一切体に触れないように気を使っているように思える。
「姫、しばしの不自由なれど、上様との話しさえ上手くいけば、すぐに開放いたしまするゆえ」
こうなると調子が狂う。津島は悪の権化だと思っていたのに、その行動はあまりに、そう、侍だ。
戸惑っているうちに猿轡が外された。口元に少しだけ痺れが残っているが、口から入ってくる新鮮な空気に、開放感を覚える。
「津島、このようなことをして、何が目的だ」
怒りと戸惑いが混ざっているからか、自分でも硬いと思う声で津島に聞く。
「鎖国を止めまする」
「何だと?」
鎖国と言ってもこの地には外国など存在しない。薫はそのことを知っている。だが、それを口には出来ない。
「貿易をいたしまする。地球と」
薫にだけ聞こえるようにしたのか、低くつぶやく津島の声に、薫の全身に雷に打たれたかのような衝撃が疾る。
「馬鹿なッ! そなたも知っているであろう!」
思わず叫ぶ。地球はすでにいくさで荒れ果て、滅びたのも同然のはずだ。
「お声が高うございます」
津島にたしなめられる。慌てて声を低めた。
「そなた、地球がどのような状況か知らぬわけではあるまい」
「いかにも。ですが、だからこそ地球に駒を進めることが出来るというもの」
「いくさを仕掛けるつもりか!?」
薫は驚きと怒りのため、思わず高まってしまいそうな声を必死に低めた。
「通商するだけです。今の地球は疲弊しておりますが、上様のお力なら復興も可能」
思わず津島の顔を凝視してしまう。津島の顔からは表情が消えているが、目だけは青白く光っている。その硬質な輝きは、決意の固さを物語っていた。
「この見捨てられた火星が、地球復興の立役者となり、指導する。それはこの火星をより発展させることになりましょうぞ」
津島はなおも力説する。
「上様は地球との関わりを避けようとなさいます。だが、今こそ好機かと」
津島は熱病に浮かされたように、頬を紅潮して言う。
「馬鹿なっ、あまりに危険すぎる」
もし、地球のいくさに巻きこまれたらどうするのだ。薫は、その言葉を投げかけようとした。だが津島の、灼熱の蒼い焔を閉じ込めて氷で覆ったような、冷徹と狂気の宿る瞳の色に、吐きだす言葉を失う。
(なんて、目をしている)
それは、命を賭けて信ずる道をいく漢の目だった。例え方向は間違っていても、その力に圧倒される。一瞬だけだったが、この男に畏怖を感じた。
津島は、言葉を続ける。
「姫様には、上様への説得をお願いしたい」
津島の目が剃刀のように細まる。
「もしそれが適わぬときは、御身を人質として扱わせていただく」
その言葉が耳に届いた瞬間、怒りとあまりの不甲斐なさに吐き気がした。己の身を滅ぼしたいほどに。
それを察したか、津島が言葉を続ける。
「姫、約束ですぞ。くれぐれも自害などなさらぬよう」
やけに静かに言い、津島が立ちあがる。そのままきびすを返した。
「屋敷に戻るぞ」
津島は、そのまま振り返ることなく、立ち去る。津島とともに来た男達は、後を追い出て行った。
「やれやれ」
いささかの沈黙を破り、倉田屋が首筋を叩きながらつぶやく。
「御前様にも困ったものだ」
そのまま、まるでモノを見るような目で、薫を見つめてきた。
「たかが複製品、人質などにするより壊してしまった方が良いのにねェ」
「え……?」
その言葉は、薫の全身を雷のように貫いた。
全身から音を立てて血が退き、急に人形のように冷たくなっていく。
「薫ちゃん!」
お紺の声が遠くに響いた。こちらを見て、何か異常を感じたのだろうか。止まりかけた思考の中で、妙にそこだけ冷静に捉えることが出来た。
「な、何を言っている?」
まるで、自分が発したのが信じられないほど固い声が出た。
「貴方は、吉鉦公の複製人形だと言ったんですよ。それも、出来そこないの、ねえ」
倉田屋が、先ほどのような卑しい笑いを浮かべた。
「津島様はああ言いましたが、別に自害していただいても結構ですよ。貴方の体が残っていれば、十分使えますので」
何を言っているのだこの老人は。薫は自分の耳まで疑った。
「きさま、まさか」
「もちろん、すべて知っていますよ。貴方の意思とは関係なく、遺伝子が鍵になっていることくらい」
目の前がぐるりと回り、急に暗くなった。
「阿片で壊してしまうのも手ですが、バレたとき御前様がうるさいですしねェ」
「なんであんたが阿片なんて持っているのさッ!」
お紺の鋭い声が響き、目の前に光が戻る。薫には分かる。お紺は、阿片という言葉に敏感に反応してしまうのだろう。
「おや、貴方こそ阿片のことをご存知で?」
これは素で驚いたのか、倉田屋は丸く目を見開いてお紺を見た。視線を追っていくと、お紺の目が激しく切れあがっている。まるで、夜叉の面だ。
「知っているさッ! 五年前の事件で、嫌というほどね!」
お紺が吠える。しかし、倉田屋をさらに驚かせるには至らなかった。
「ほっほっほ。そうですか、貴方は事件に関わっていたんですねェ」
再び高笑いする倉田屋。さも楽しそうだ。
「ということは、貴方も吸ったんですか? いやいや、気持ちよかったでしょうねェ」
アタシは試す気がありませんがねェ、と楽しそうにあご髭を撫でる。
「ふざけんじゃないよッ!」
お紺は、堪忍袋そのものが裂けたような怒りの声を上げた。
「あの毒のせいで、どれだけ……どれだけッ!」
そこからは言葉にならないのか、荒い息をついている。
「馬鹿な薬役人どもが、せっかくの金の成る樹を潰してしまったんですよ。小物が欲を出すとロクなことになりませんねェ」
「どういうことさッ!」
ため息をつき、左右に首を振る倉田屋を、噛みつくような声でお紺が食って掛かる。
「アタシが密かに作らせた販売網を、横取りしたんですよ。栽培していただけの小役人のクセにね」
その顔は、侮蔑に満ちていた。
「まあ、そろそろバレる頃だと、ちょうど手を退こうと思っていたので、渡りに舟でしたがねェ」
ふぉふぉふぉ、と耳ざわりな笑いが響く。
「案の定、すべての罪を被って小役人は切腹。いい気味ですよ」
倉田屋は、本当に愉快そうに笑った。
「じゃ、じゃあ、本当の黒幕は……」
お紺の声は震えていた。顔も蒼を通り越して土毛色になっている。
「黒幕なんて大層なものじゃありませんよ。アタシは阿片を造って売っただけ。後の事は、あの間抜けな小役人の仕業ですよ」
そして、倉田屋は視線を薫に向けてきた。
「ちょうど在庫もあることだし、出来そこないの姫様、おひとついかがでしょう」
太った翁の面のような、唇だけが吊りあがる笑み。薫は、あまりのおぞましさにすくみ上がった。
「いやなら、この年増さんに使うとしましょうかねェ。もうちょっとおしとやかになるでしょう」
再びあの笑い声を上げる。
その時、地の底から響くような女の声が牢内に響く。
「お前は、お前だけはッ! 許さない……ッ!」
お紺が啼いていた。瞬きもせず、倉田屋を視線で殺せるかのように。その目からは、血の色に染まった涙がただ伝っていた。
「さて、長話が過ぎたようですねェ。本題に戻りましょうか」
お紺のすさまじい視線を全く気にもせずに、倉田屋は体ごと薫に向き直った。
「複製人形の姫様、貴女が協力してくれれば、明後日の事が段取り良く運ぶというもの」
その時、倉田屋の細い目が見開かれた。
「アタシとしては、その前に従順になっていただくことをお勧めしますよ。さもないと、この女を壊しちまいますからねェ」
脅しだった。薫としては、黙って受け入れるしかない。自分に対する怒りで、頭が燃えるように熱くなる。
瞬間、頭に思い浮かんだことがあった。もし、自分の身体の一片も残さず滅する事が出来たら、誰にも利用されないのではないか、と。
その時、燃え盛る薫の頭の中でカチリと音がなった。刹那、頭も心も凍りつくほど冷たくなり、冴え渡った。そのまま思考は続く。
そうすれば、母上にも、岡田どのにも迷惑はかからない。
(そうだ、なぜ今まで気付かなかったのだろう)
その考えに、薫は凄まじい歓喜を覚えた。たかが人形の身だ。どうなろうとたいした問題ではない。
後は、どうやってねえ様を助けるかだけだ。そのためには、複製品のこの身体に取引の価値があるというなら、利用し尽くしてやろう。
薫の頭の中で、生まれてから初めてすべての心苦しさが消えた。
後は、お紺を確実に救い、この身を確実に滅せる機会を掴むのみだ。
「わかった。従おう」
「薫ちゃん!?」
お紺の声が、チクリと心のどこかに刺さったが、気にする事はない。
「ほう、もの分かりがいいですねェ」
「その替わり、お紺どのの安全は保証しろ。これは取引だ」
自分の声じゃないみたいに硬いな。薫は、頭の隅で別の事を考える自分を自覚していた。
一瞬、倉田屋の線のような目が見開かれた。だが、すぐに相好を崩して恵比寿のような顔に戻る。
「ほほほ、アタシも商人です。そう言われてしまえば、約定を違える訳にはいきませんねェ」
「ふん、商人か」
「商人は信用第一ですからねェ」
それを聞いて、軽く鼻で笑ってやる。
「なら、証文でも書いてもらおうか」
「お望みとあらば」
「お紺どの、心配要らぬ。そなただけは何があっても守ろう」
人形のクセに、お紺をねえ様などと呼んで浮かれていた自分があさましい。
(ねえ様などと、お紺どのまで人形に堕としめる気か)
我ながら、先ほどまでの己に唾を吐き掛けたい気分だ。
意識して口元を歪め、笑みの形を造る。
「薫ちゃん……」
呆然としたかのようなお紺の声が、頭の隅に澱のように染みついた。
(やれやれ、やっと人形を自覚できたら、顔の表情すら造らねばならんとは)
何とも、厄介なことである。まあ、元々が造りものなのだから、表情も造らねばならぬのは道理というものだろう。
「お紺どの、心配には及ばん」
とにかく安心させたかった。お紺を助けられたら、それだけは自分の価値として認めることが出来そうだ。
(存在自体が邪魔で、なにひとつ価値のない自分に、価値が出来る)
薫は、その考えに甘美なものを感じた。
「まずはお紺どのの肩を治せ」
「それは困りましたな。まあ、姫様がこの女を抑えてくれるなら、良しとしましょうか」
「分かった。だが、妙な真似をすれば、貴様らの手に届かぬよう、私はこの身を江戸湾に沈めてくれるわ」
自らの口元をが歪め、嗤って見せる。
「ようございますとも。明後日まで賓客として扱いましょう」
思い通りに進んだとでも思っているのだろうか、倉田屋は笑いながら請け負った。
(今は笑っているがいい、貴様の思い通りにはさせぬ)
薫はひとり決意を固めた。