第13話
だいたいこれで半分くらいでしょうか。
100話とか書いている作家さん凄すぎます。
初めて感想をいただきました。
感謝感謝、深く感謝です。
「今日は遅くなるかもしれない」
翌日、薫との朝稽古を短めに切り上げたよもぎは、余之助と外出する旨を薫とお紺に告げる。
もちろん、内藤との約束があったためである。だが、薫には内容は伏せてある。
二人で屋敷を空ける事に多少の不安はあったが、さすがに昨日の今日だ。
もちろん、念のため辺りに伏せ手がいないかは、先ほど余之助達に確認させている。
着替えをお紺に手伝ってもらいながら、よもぎは珍しく羽織袴を着用する。
お紺は、なぜか鼻唄が飛び出しそうなほど上機嫌だ。
「お紺、なにかうれしそうだねえ」
ふと、お紺の長い耳が少しだけ紅く染まる。
「殿様のお仕度を手伝うのは初めてですからねぇ」
そう言って膝立ちで袴を整えながら、笑みを浮かべて上眼使いによもぎを見上げるお紺。隣では、なぜか薫が稽古着のまま、不機嫌そうに頬を膨らましている。
(いつもより稽古が短かったからかねえ。それとも、姉を盗られた気分?)
多分、どちらも当っているだろう。
両刀を挿し、位置を整える。今日は一番の愛刀である山浦真雄で揃えた。
そして、左腰には永十手を挿しこむ。
女二人が居間を出ると、余之助から先日受け取った眼潰しを受け取り、袂の仕掛け袋に隠し持った。これですぐに取り出せる。
(さてさて、鬼が出るか蛇が出るか)
不謹慎ながらも高揚してきた。なぜか大きな事件に当たると、自然と起こる感覚だ。
よもぎは、そのまま余之助と二人で屋敷を出た。
江戸は水路が発達している。
よもぎの住まいがある本所には、小さな船業者がいくつもあり、町の足代わりになっている。
形式を嫌うよもぎは、船業者にひとつ舟を預けており、正式な登城ではない遠出の時は駕籠を使わずによくこの舟を利用する。いつものように余之助が漕ぐ舟に乗ると、堀からそのまま大川のほとりへと出る。
そこから大川を超えてお堀を通り抜ける。舟止めで舟を降り歩き始める。四半刻も掛からず雉子橋門が見えてきた。
雉子橋門は、元々五千石以上の上級旗本が使う門だ。よもぎは、登城の際には主に中級旗本が使用する数奇屋橋門から入る。だから、あまりここには来ない。時刻は、ちょうど巳の刻まであと少々というところだ。
「余之助、ここまででいいよ」
「ですが旦那」
心配そうにこちらを見る余之助。気持ちは分かるが、内藤との約定もある。ここからはさすがに同伴出来ない。
しぶしぶ引き下がる余之助だったが、あっしはここで待ちやすぜ、という言葉とともに向いの塀に背中を付け、門を遠巻きに見ながらふてくされたように腕を組んだ。
「アタシとしては、屋敷に戻って欲しいんだがねぇ」
そう余之助に言うが、聞く耳持たぬ、とばかりにそっぽを向く余之助。
「しょうがない奴だねぇ」
思わず苦笑いが込み上げる。
すると、丁度そこに一台、漆塗りの駕籠がゆったりと到着する。駕籠には上り藤の紋が描かれている。内藤家の家紋だ。
駕籠から降りてきたのは、やはり内藤だった。脇にいた若党に助けられながら駕籠を降りている。まだ右腕を吊った状態だ。
よもぎは、近づいて声を掛けることにした。
「内藤殿」
身構える駕籠のお付達を軽く眺めながら、よもぎは声をかける。
「おお、よもぎ殿。早かったのう」
「今ちょうど来たところですよ」
そこに、巳の刻を知らせる鐘の音が遠くから響く。
「では、参ろうかの」
よもぎは、ちらりと余之助を見て確認すると、小柄な内藤の背に目を向け、だまって従う。
初めて通る雉子橋門は、数奇屋橋門より幾分重厚な造りになっていた。
そこから少し歩くと、内藤は突然道を外れて奥の堀端に向かう。
「内藤殿、そこは」
「だまって着いてきなさい」
有無を言わさぬ内藤の固い口調に、よもぎは圧し黙った。何があるかは知らないが、どうやら正規の道ではないらしい。
しばらく堀の土手下に沿って続く小道を歩くと、辺りに影が挿した。
その瞬間、よもぎ達の目の前を三つの黒い人影が立ち塞がる。よもぎは、とっさに内藤の前に出て刀の鯉口を切った。
影に見えたのは、濃緑一色の装束を着て、頭はすっぽり頭巾で覆い、顔全面を漆黒の金属らしき面で覆った男達である。
(江戸城に乱破? お庭番か!)
背中にぶわりと冷たい汗が伝う。額に一瞬で油汗が浮かぶのが分かる。
よもぎには気配を感じ取れなかった。それが焦りとなってよもぎを襲う。
「よもぎ殿、心配いらん」
内藤は、内心焦るよもぎを、ごく落ち着き払った静かな声で制し、よもぎの右に出る。よもぎが一瞬視線だけを内藤に向けると、彼は懐に手を入れ、木片のようなものを取り出した。
良く見ると、それは三寸半ほどの長さの金属板だった。
よもぎは眼を剥く。その板には、銀色に光る葵の紋が埋め込まれていたからだ。
影達は、それを見ると何も言わず一礼し、くるりと振り返り背中を見せる。そして、そのまま歩き出した。
内藤も、全く恐れる様子もなく、再びよもぎの前に出て歩き始めた。
(先導するってことか)
予想外の展開に、よもぎの心の臓は激しく鼓動している。
(余之助を連れてこないで正解だったねえ)
下手をすれば、この男どもと斬り合いになっていたかもしれない。しかも、技量は余之助を軽く凌駕すると見た。
(未だにヒトの気配って奴を感じられないからねえ)
なにしろ姿を現しているのに、その気配が感じられないのだ。これほどの穏行を見るのは初めてだ。
(噂には聞いていたが、それ以上だねえ)
背中を向けているのは、敵対する気はないという意思表示か、それとも自分の技量に対する絶対の自信か。
ともかく、よもぎ達は先導されるまま着いて行く。
そのまま坂になった小道を上がると、大きな樹と潅木に囲まれた一角に出る。そこには、堀に降りる小さな石畳の階段があった。ちょうど、廻りからは見えない辺りに、人為的なものを感じる。
影達は周辺を見渡すと、何も語らず階段を降りる。ちょうどそこには、四人ほど乗れる猪牙舟が置かれていた。影のうち、一人が舳先に経ち、一人が漕ぎ手になるようだ。
内藤は、腕のせいだろうか、ふらつきながら乗ろうとする。よもぎは、観察を止めて内藤を支え、舟に乗りこむ。
舟は、滑るように動き出した。
(さてさて、どこへ向かうのかねえ)
ふと周りを見ると、猪牙舟は水面の影になっている部分を選んで進んでいる。見上げれば、大木の枝が頭の上を被さるように伸びていた。
どうやら、堀端から見えないように、樹の影を縫って進んでいるようだ。
(ここまで用心するとはね)
予想以上に大事らしいが、こうなっては大人しく虎穴に入るしかない。
それにしても、最近出たとこ勝負が多すぎる。これでは命がいくつあっても足りはしない。
どうも、薫に関わるこの一件は、少々よもぎの調子を狂わせているらしい。
(普段はもっと慎重なのにねえ)
もちろん、突然堀に落とされて、斬り掛かられたりしてもいいような心積もりだけはしているが。
埒もないことを考えている自分に、思わず苦笑が込み上げる。
気持ち的には長いと思える船旅は、すぐに終わりを告げた。
内藤が、よろけながら立ちあがる。よもぎはそれを支えながら、一緒に舟を降りる。
影がひとり、前に立って先導する。もう一人は舟に残るようだ。
いくらか歩くと、そこには白壁で囲われた間取り十五間程もある建物があった。まるで、独立したニ層の小天守閣のような形をしている。
(こんな場所にこんな建物が?)
何度も御城には来ているのだが、このような建物には気付かなかった。建物の配置や木々により、巧妙に隠されていたのだろう。辺りを見まわすと、ちょうどここは本丸の裏手になるようだ。本丸を守る出丸のようなものだろうか。それにしては建物として孤立しすぎている。
「内藤殿、ここは一体?」
たまらず内藤に尋ねてみる。内藤は静かな、厳かとでも言えるような声で、後でわかる、とだけ返してきた。
小さな庭を抜け、建物の上り口まで来ると、影はいきなりひざまづいて扉を曳いた。そのまま頭を垂れる。
内藤は、それをチラリとも見ずに建物に入る。よもぎも後に続いた。
これも小さな玄関を抜けると、そのまま一間幅の廊下があり、奥に続いている。採光窓が見当たらないのに、なぜ明るいのかが不思議だ。
内藤が草履を脱ぎ、そのまま止まらずに廊下を歩くので、よもぎも仕方なく着いて行く。ちらと振り返ると、影の男は身動きひとつせず、その場に控えていた。
廊下に気配は無い。待ち伏せなどはなさそうだ。
と、ひときわ大きな襖の前で内藤が立ち止まる。そのまま膝を折ると、中に向かって話しかけた。
「お連れしました」
「入れ」
襖の奥から、落ち着きながらも甲高い、鈴のような声が聞こえた。
(どこかで聞いたような?)
そう思ったよもぎの脳裏に、何かが引っ掛る。
(とんでもないことになりそうな予感がするねえ)
まさか、と思う。いや、半分予測はしているのだが。
内藤は、音もたてず襖を開き、正座のまま頭を下げ、中へ進む。
よもぎも、自分だけが立ったまま入るわけにもいかず、正座で姿勢を低くして、面を上げぬまま中に入る。
「主膳、腕は大丈夫か?」
穏やかで涼やかな声が響く。
「ご心配かたじけなく。某は昔から鍛えておりますゆえ」
笑ながら内藤が答える。
(嬢ちゃんにも同じ事を言っていたような気がするねえ)
よもぎは姿勢を低くしたまま、埒も無いことを考える。
「主膳、この場では無礼講と申しているではないか」
声は、苦笑をにじませるような響きに変わった。
「そうは参りませんぞ、上様」
(やはり、そうだったか)
決定的なひと言だった。
「面を上げよ」
その声に、ゆっくりと頭を上げるよもぎ。二間ほど前には、派手だが上品で金襴の着物に身を包み、薄い頭巾で頭を隠した若い侍が、微笑みを浮かべて座っていた。
間違いなく、第三十六代徳川将軍吉鉦だろう。
通常、正月三日にはよもぎも登城し、将軍家に新年の挨拶を行う。だが、何百畳もある謁見の間の遠くから直垂姿の将軍に拝謁し、平伏しながら声を聞くだけだ。じっくり顔を見ることはない。そのため確証は持てないのだが。
(確かに、嬢ちゃんとそっくりだねえ)
長いまつげ、全く毛の無い顔、すらりと低めの鼻、赤い濡れたような唇。頭巾からちらりと見える、艶のある黒い髪。豪奢な着物と袴に包まれた細い肩に薄い身体。無骨さのまるでないそれは、髪形こそ違うものの、薫が男装のまま成長したような姿だった。
こんなことは思ってはいけないのだろうが、威厳よりも華麗さを。そう、花で言えば富貴なる椿を思わせる。
吉鉦は、じっとよもぎを見つめてきた。そのまっすぐな視線は、多少濡れているようにも、潤んでいるようにも思えた。
「やはり、似ておるのう……」
感極まったような、少し震える声が聞こえた。いつの間にか吉鉦は立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。背の高さも、薫とまったく同じに見える。釣られて、よもぎも立ち上がる。
「三九郎様が若い頃、こんな感じだったかのう」
お互い向き合うように立ち止まると、吉鉦はゆっくりと手を伸ばしてくる。手は、そのままよもぎの頬に触れた。羽のように、軽く。
柔らかすぎる手の感触は、不思議と普通に触れられるより存在が薄いように感じた。
その時よもぎは、身動きひとつしなかった。いや、出来なかった。
始めは将軍家への畏敬がそうさせるのかとも思った。しかし、眼前の吉鉦は美しいカゲロウのように消えてしまいそうな、そんな儚ささえ感じられるのだ。威圧されるようなものは何もない。
そう、その瞳に、かすかな手のぬくもりに、そして密かに震える声に宿る、深い淵のように静かで圧倒的な情感が、いつの間にかよもぎを縛り付けていたのだ。
沈黙はほんの数瞬だったのかもしれない。
その時、内藤が小さく咳払いをする。
ピクリと吉鉦の手が震え、よもぎを柔らかく縛り付ける情感が突然消え去った。
吉鉦の黒い瞳に、冷静な知性深き色が戻ると、そのままくるりと振り返り、上座に着いた。
よもぎは、知らずに深く静かに息を吐いた。どうやら、呼吸するのも忘れていたらしい。
「主膳、済まぬ。柄にもなく昔を思い出してしまったようだ」
吉鉦は、先ほどまでの動揺を全く感じさせない硬質な声で内藤に詫びた。
声には出さず、平伏して答える内藤。
「三九郎……いや、よもぎよ。そこへ座るがよい」
よもぎは吉鉦の声を受けて、初めて自分が立ち上がっていたことを認識した。慌てて正座に戻る。
「ここは、外の井呂裏之間とでも言う場所。一切身分の遠慮は無用」
井呂裏之間と言えば、江戸城本丸中奥にある将軍とお側の者が話せる座敷のことだ。
「さて、まずはよもぎ、薫が事、本当にありがとう。この通りだ」
吉鉦は、そう言って深々と頭を下げる。
「な、何をなさいます! 上様ともあろうお方が」
さすがによもぎも慌てた。天下の将軍家が、一旗本に過ぎぬ己に頭を下げる。ありえない光景だ。
「娘を救われたのだ。親としては当然のこと。そうではないか」
「内藤殿も何とか言ってください」
「こういうお方なのだ。何を言うても無駄というもの」
「主膳、人聞きが悪いぞ。それでは余が暴君のようではないか」
笑いながら吉鉦が反論する。内藤は澄ました顔で続ける。
「確かに、そういう意味では暴君ですかな」
よもぎは思わず吹いてしまった。
「これ、よもぎ殿、そこで吹くでない」
「は、これはご無礼を」
内藤にたしなめられてしまった。
「のうよもぎよ、これからも薫を守ってはくれぬか?」
吉鉦が口元を引き締め、目を鋭く輝かせてよもぎに切り出した。この質問は、内藤からもされており、よもぎの腹も決まっている。
「もちろんです、アタシの力の及ぶ限り。……ですが」
そこで口をつぐむ。いかに遠慮は無用と言われていても、己の身分で直接将軍家に質問など出来ようはずもない。
それを察したのか、内藤は吉鉦に声を掛ける。
「上様、先に例のお品を」
吉鉦はひとつうなづくと、懐から一枚の板を取り出す。それは、内藤が持っていたのと同じ、恐らく銀で出来た葵御紋の鑑札だった。
「う、上様?」
なぜか内藤は驚いた様子だ。それに向かい、ふわっと花がほころぶように悪戯っぽく微笑む吉鉦。
「よもぎ、これを取らせよう。使い方は後で主膳に習うが良い」
内藤に促されて正座のまま進み、吉鉦の手から直接鑑札を受け取る。板は、少しだけ暖かかった。
「上様、懐に入れておくなど、お戯れが過ぎますぞ」
内藤が呆れたように言うと、吉鉦の笑みが深くなった。
「これは、三九郎様の使っていた鑑札。余がこうして持っていてもおかしくはあるまい」
内藤は軽くため息を付く。
よもぎは、それを傍目に必死に考えていた。先ほど止められたからだろう、疑問は湯水のごとく湧いて出る。
(三九郎と言えば、ウチの嫡男が官位をもらう前の名前。アタシ以外だと……祖父さん!?)
よもぎの父は婿養子である。他に、同じ名を持つ大名旗本は、いるとすれば織田以来の名門滝川家のみ。
(それに、上様の治世はすでに四十年。なのにこの若さは一体?)
吉鉦は、どう見ても三十を超えているようには見えない。それこそ、薫の兄と言っても通用する容姿だ。
「よもぎ殿、この鑑札の紋所が光り震えたら、それに耳を付ければ声が聞こえるはずじゃ。何かあればそのように連絡する。逆に、そなたから問い掛けることも出来るぞ」
内藤が言うには、紋所を廻し押して話し掛ければ良いらしい。何とも便利なものだ。
「上様、永十手といい、拝領した金庫も、この鑑札もそうですが、からくりと言うには、あまりに特別すぎます」
疑問が口を突いて出てしまった。内藤が、慌てて止めようとする。
だが、それを見抜いたのか吉鉦に先手を打たれた。
「何なりと聞くが良い。遠慮は無用」
よもぎは、意を決して尋ねることにした。
「では、上様はこれらの技術をどうしてお持ちで?」
この際、聞けるものは聞いてしまおう。よもぎは開き直る。
「それに、なぜ薫姫の存在を公にしなかったのですか。何ゆえ上様の手で直接お守りなさらない」
よもぎも、我知らず感情が高まってきた。
吉鉦の肩が、ぴくりと上がったのが見えた。それを見た瞬間、なぜかよもぎの感情は爆発してしまった。
「薫姫は、剣に没入しているときだけが、己を考えずに済む唯一の時だと言ってましたよ。アタシは、そんな嬢ちゃんが悲しくて、アタシに出来ることは何でもしてやりたいんですよ!」
そこまで言って、よもぎは我に帰る。慌てて平伏した。
「ま、誠に相すみませぬ! 上様に向かってこのような暴言、腹斬って詫びまする!」
「たわけっ! 腹斬って姫が守れるかっ!」
内藤の一喝が響く。よもぎの体が自然にビクリと震えた。
「よせ、主膳! よもぎ、何も気にするでない」
吉鉦は、大きくため息をついた。
「先ほどの問いに答えねばなるまい。でなければ、余はよもぎまで敵に廻してしまう」
それを聞いた内藤が、ガクリと首をうな垂れた。
「上様、申し訳ありませぬ。某にもっと力があれば」
吉鉦は首を横に振り、静かに反論する。
「いや、主膳の責は、何ひとつない。すべては余の責じゃ」
よもぎは両手を着きながら、うな垂れる主従をただ見つめた。
「今の余では薫を守りきれぬ。そのことと薫の身を公にせぬのも、余の特別な技術も、実は同じ根にある。それに、だ」
吉鉦は、そこで言葉を区切った。そして、口を何度か開き、閉じる。まるで、言うべきことを躊躇するように。だが、すぐに意を決したのか、再び話し始めた。
「余自身が既に囚われの身じゃ」
よもぎは眉を寄せた。
「では、ここにいらっしゃるのは? 影武者ですか?」
「いや、偽者ということでもない。ただ、自由に動けるのは、この場だけなのだ」
軟禁。よもぎの脳裏に文字が浮かぶ。
「本丸へ戻れば、この身はただの操り人形に過ぎぬ。口惜しいがな」
将軍の身を自由に出来るほど、敵は強大な力を持っているという事か。
「今の余の立場を言葉だけで説明するのは難しいな」
吉鉦が、ふるふると首を横に振った。
「やはり、全てを見てもらうよりあるまい」
「では、某は外に出ておりまする」
何に気を使ったのか、内藤は座敷を出て行く。
吉鉦は、黙ってそれを見送った後、よもぎに向き直った。
「さて、まずはよもぎよ、この場では話しづらい。場所を変えよう」
吉鉦は指を鳴らした。その瞬間、浮遊感がよもぎの体を包んだ。
(これは、座敷ごと沈み込んでいる!?)
一瞬、焦りが全身を走る。だが、平然とする吉鉦を見て、必死に心を落ち着けた。
「さすがはよもぎ、あまり驚かぬな」
吉鉦は、悪戯が失敗したような、ばつの悪い笑顔を浮かべた。
「十分驚いていますが」
「そうか。これは地下室に行くためのカラクリだ」
一瞬、体が重くなったような感じがして、足元からの振動が止んだ。
「着いたぞ。よもぎ、付いて参れ」
そう言うと、目の前の襖が独りでに開いた。吉鉦は、そのまま座敷を出る。慌ててよもぎは付いていく。
ちらりと襖を見ると、裏には襖に張り付くように金属みたいな扉がついていた。
座敷を出ると、乳白色の磨き抜かれた石畳のような床が続く。足袋で歩くと、足にひんやりとした感触が硬く跳ね返ってくる。壁も似たような材質のようだ。明かりもないのになぜか明るい。どうやら、天井全体が柔らかく光っているように見える。
二十歩ほど歩いたところで、大きな扉にぶつかった。吉鉦が手をかざすと、これもひとりでに開いていく。
その瞬間、中から光が溢れ出した。
「こ、これは」
そこには、何とも摩訶不思議な光景が広がっていた。
右の壁は切り取ったように何もなく、そこには上から見たのであろう、絵にしてはあまりに精密な江戸城の全景が広がる。左の壁は、何か分からない模様と、所々に蛍火のように光る点が点滅を繰り返す。正面は、金属の板で出来ているらしい箱が整然と林立し、そこに描かれている市松模様のような規則正しい紋様が青白く光っている。それらも淡く点滅しながら、さまざまに動いていた。
吉鉦は正面の箱に近づくと、それらの紋様を慣れた手つきで規則的に叩き始めた。白魚のような指が紋様の上を踊るたびに、それに沿って光が付いてくるようだ。
指が止まると、吉鉦は振り返り、よもぎを見つめた。
「よもぎ殿、あなたには薫を守ってもらいたい。だから、全てをお話します」
そこまで言うと、吉鉦は俯く。
「ですが、あまりに衝撃的な内容となるでしょう。もし、知った後で拒否されるのなら、私は貴方の記憶を消し、日常に戻っていただきます」
消えてしまいそうな吉鉦の様子に、よもぎは思わず口をはさんだ。
「その場合、上様は、薫姫はどうなるのですか」
「私はおそらく傀儡として、このまま生き続けるでしょう。薫は生きた鍵として、ただ生かされるだけの存在に……」
話を漏らさず聞きながらも、よもぎの冷静な部分は、いつのまにか吉鉦の口調が大きく変わっていることを捉えていた。
「よもぎ殿、驚かないで下さいね」
そう言うと、再び吉鉦は顔を上げる。さらに、右手を天に向かって掲げた。
その瞬間、吉鉦の右手は七色に光る輪に包まれた。輪は少しずつ広がり、手から腕、頭へと少しずつ下がっていく。
すると、輪が通過したところから、吉鉦の召し物が変わっていく。着物の腕は一重の薄い布に、髪は結いた総髪から解けて流れる長い銀髪に、豪奢な着物は薄い絹の一重に。
光は胴を抜けていく。描き出されるのは、柔らかくも先の尖った胸の曲線と、瓢箪のようにくびれた細い腰の曲線、そして見事な弧を描く腰の丸み。
光が足元まで達すると、そこに立っていたのは光る薄絹に身を包んだ、ひとりの女人だった。
さすがにこれには度肝を抜かれた。
「う、上様は……天女だったのですか!?」
よもぎは、叫んだつもりの自分の声が、かすれて小声になっているのに気づく。
「天女ではありませんが、私は元々女人ですよ」
そう言って、光の中で柔らかく微笑む女人、吉鉦は静かに答えた。
よもぎも、その声に多少冷静になる。よく見ると、髪の色などを除けば、薫と瓜二つと言っていい。
「ただ、天から来た、年を取らぬ存在という意味でいえば、天女かもしれませんね」
吉鉦は、意味深に言葉をつなぐ。
「そして、私は徳川を再興した二十二代興徳院家起本人です」
さらに吉鉦は、代々の将軍家の名前を挙げ、驚くべき事を軽々と口にした。
「今は三十六代吉鉦を名乗っています。つまり、二十二代以降の徳川将軍は、私ただ一人という事です」
よもぎは、その言葉の意味が分からない。分かるのは、自分の眉間に皺が寄っている感覚だけだった。
「だから、在位四十年どころか三百年は経っていますけどね」
笑いながら追い討ちを掛けてくる吉鉦に、よもぎは呆然とするしかない。
「上様が八百比丘尼様とは……」
「残念ながら、人魚は食べたことがありませんよ」
もう訳が分からない。
吉鉦は、そんなよもぎの様子を見てなのか、クスリと悪戯が成功したかように笑って言った。
「これくらいで驚かれては困ります。貴方が知らなければならない事は、まだまだあるのですから」
そう言うと、吉鉦の視線はよもぎを外れ、虚空へと向かう。
「今言ったように、この江戸、いえ世界そのものは私が造りあげました。そして」
そこで言葉を切ると、再びよもぎを見据えてくる。
「今、この世界は最大の危機に晒されています」
よもぎの耳には、自分のつばを飲む音ですら、やけに遠く感じられた。