第12話
だいぶ話数も増えてきました。
そろそろペースを落とすことにしましょうか。
15話あたりからは、1日1話ペースで。
いや、修正が間に合わないというだけのことなのですが。
翌日よもぎは、筆を片手に再び武監や現在の状況を自らまとめた資料を書き連ねていた。もちろん、見落としをなくし、敵を探るためである。
事態が複雑に絡み合う時、よもぎはよくこの作業を行う。
一見無駄にも見えるが、今までの情報を整理すると、新たに見えてくるものがあるのだ。
書類は、余之助が乾きを確認して次々に整理していく。
屋敷には、ただよもぎが筆をはしらせる音と、紙をめくる音だけが響く。
遠くで馬のいななきが聞こえた。
よもぎは気にも留めず、今まで得た情報を書き綴っていく。
馬のひづめの音が近づいてきた。よもぎが顔を上げた瞬間、音もぴたりと止まった。
「余之助、もしかして今の馬、ウチが目的かい?」
「ちょっと見てまいりやす」
余之助が確認に部屋を出ると、よもぎは筆を置き、ああ、と声を出しつつ両腕をおもいっきり上に伸ばし、廻した。
「どうも、書類仕事って奴は肩が凝っていけないねえ」
首を左右に傾けると、骨がコキリコキリと軽い音を立てた。
そこへ、パタパタと慌てた足音が廊下から聞こえる。同時に、襖が乱暴に開けられ、余之助が入ってきた。
「なんだい余之助、お客さんでも来たかい?」
「その通りでさぁ。旦那と面会したいと、立派な身なりのお侍が」
よもぎは頭をひねる。もちろんそんな予定はない。
だがその前に、余之助の機嫌が妙に悪くなっているのが見て取れた。
「で、お前さんは何で怒っているんだい?」
「それがですねぇ、偉そうに『岡田はおるか』とか抜かしやがって、しかも呼び捨てですぜ」
屋敷に直接来る人物で、呼び捨てにされ、しかも余之助が知らない客など覚えが無いのだが。
いや、逆に興味が湧く、というものだ。
「ほほう、何てえおヒトだい?」
「それが、津島甲斐と名乗る、えらく態度のでかいお侍で」
「はあ?」
まさかと思うが、一番疑わしい人物で、しかも老中の名を出すとは、どんな酔狂か。
一瞬考えたが、どちらにしても待たせるわけにはいかない。
「アタシが応対しよう。余之助、この資料を別の座敷に」
「へい」
あとひとつ、肝心なことを言わなければならない。
「それと、お紺と嬢ちゃんは決して客間に近づけるんじゃないよ」
「へ? あ、まさか!?」
余之助が一瞬疑問を浮かべ、即座に顔を引き締めた。
「そうさ。……もしかしたら、ここに気づかれたかもしれない」
玄関に出てみたよもぎは、一瞬硬直した。
「岡田、久しいの」
そこに笑みを浮かべて立っていたのは、紛れもなく老中筆頭津島甲斐守蘇芳だった。
紅虎族らしい赤く短いたてがみと、縦に裂けた鋭い黄金色の瞳。獰猛な牙が柔和な仮面の下に見え隠れしている。
遠出用なのだろうか、地味だが仕立ての良い短めの袴に、大小の刀を落とし気味に挿しこんである。
心構えはしていたが、さすがに目の前に立たれると固まってしまうほどの迫力だ。
よもぎは両膝をついて、軽く頭を下げる。
周りに供の姿は見えない。老中ともあろうものが、ひとりでここまで来たのか。
(ま、こんな格好で出歩いている時点で、誰も老中だとは思わないだろうがねえ)
しかし、目の前の男は紛れもなく、今権力の中心となっている筆頭老中なのだ。
よもぎは、頭を下げつつも、津島に問うた。
「ご老中、何ゆえこのような所へ」
「そちと話がしたくてな。突然の来訪、許せよ」
柔らかい笑みを浮かべたまま、軽く片手を挙げて答える津島。そこに、身分を重んじる色はない。その真綿のような柔らかさは、逆に圧力となってよもぎに迫ってくる。
だが、敵か味方か、はたまた無関係なのか。それを知るためにも、ここで気圧される訳にはいかない。
「むさくるしい男所帯ですが、お上がりくださいますよう」
津島は、うむと軽く肯き、気にする様子もなく脚絆を脱いだ。
客間では、床の間を背にして上座に津島が座る。よもぎは向かい合うように正座のまま平伏する。津島の前には、先ほど五平が運んできた茶とようかんが置かれているが、手をつける様子はない。
「岡田、顔を上げよ。こ度はあくまで私用。折角城から出たというのに仰々しくて息が詰まるわ」
苦笑の混じる声が響いた。よもぎはゆっくりと顔を上げる。
「脚も崩すが良い」
そう言うと、津島は先に胡座を掻く。こうなると、よもぎも脚を崩さざるをえない。
しばし沈黙が流れる。仕方なくよもぎから話を切りだした。
「してご老中、こ度のご来訪は、いかなるご用の向きで?」
「うむ」
津島はゆっくりと茶に手を伸ばし、旨そうにコクリ、と喉を鳴らしてひと口飲んだ。
「まず岡田よ、そちはこの江戸が好きか?」
「は?」
問いの意図がわからなかった。
「江戸は好きか?」
重ねて聞いてくる。
「はい、好きにございます」
ゆえに、思うところを言う。
「ワシも好きだ。だからこそ、もっと発展させたいと思い、今まで力を尽くしてきたつもりだ」
「はい」
それは事実だ。津島が筆頭老中になって数年、物価は安定し町は潤っている。
「しかし、このままでは長く続かん」
「何ですと?」
何か危機の兆しでもあるのだろうか。
「いや、この数年ということではない。これから二十年、三十年と栄えていくには、今のままでは頭打ちということだ」
先の長い話だ。だが、為政者というものは、先を見通さなくてはならないのだろう。よもぎは密かに感心する。
「ワシとしては、もっと広く交易や貿易を起こす必要があると思う」
よもぎは両膝に拳を乗せたまま沈黙を守ろうとする。だが、津島は軽く身を乗りだして話し始めた。
「そこで岡田、そちは鎖国をどう思う?」
「どう、とは」
「鎖国は正しいと思うか」
さすがにこの問いには戸惑う。よもぎは一介の旗本、しかも捕物方でしかない。
だが、知識がないわけではない。よもぎが父から与えられた長崎の知識は、何も医術だけではないからだ。
やはり津島の意図がわからない。戯れか? だが、ただの戯れの問いにしては、内容が重い。
「どうした、遠慮は要らん、何を言うても一切構わぬから、思うところを言うてみよ」
ここまで促されては、答えぬ訳にもいかない。
「アタシは専門ではございませぬ。ご期待に添えるような答えは言えぬかもしれませぬが」
「構わぬ」
「琉球、蝦夷貿易はともかく、南蛮貿易を急激に増やそうとすれば、どこかに無理が出ます。何より南蛮の力は計りしれません」
よもぎの知識は、南蛮からもたらされたという医術や書物の高い水準を元にしている。だから、南蛮が持つ真の力を恐れる部分がある。
「徳川六百年の中で鎖国が守られてきたために、国が平穏だったとも言えましょう」
これには津島も肯いた。
「国を開けは反動や混乱は起こります。南蛮が攻めてくるかもしれません。それを抑えられるかどうか」
「それがワシに出来ると思うか?」
追従するなら肯くところだろうが、津島はそれを求めているとも思えない。ゆえによもぎは正直に答える。
「わかりませぬ。何しろ六百年、誰もしたことがないのですから」
「それは道理だな。だが、自負はあるぞ」
津島が苦笑いする。
よもぎはひとつ肯き、言葉を続けた。
「もし開国して、どれほど貿易で町が栄えても、そこに住む町の衆が幸せに暮らせないなら意味がありませぬ」
江戸の安全を守る立場として、これだけは譲れないところである。
津島は腕を組みながら、時々相槌を入れ、興味深そうに聴いている。
「……ただ」
そこでよもぎが口を閉ざすと、津島は再び笑みを浮かべて聞いて来た。
「ただ、なんだ?」
「庶民は賢いと思いまする。もし南蛮との交易が広く行えるようになれば、戦国の昔に活躍した堺衆や博多衆のように、たくましく生きていく者も多くなるだろうとは思いまする」
「ははは。そうか、民は賢いか」
「左様にございます」
これは、半ば市井に生きるよもぎの実感だ。
「なるほどな。勉強になったわ」
津島はいかにも楽しげに笑う。しかし、急に面を引き締めた。
「ところでそちは、剣が達者だそうだな」
「町道場の皆伝にもなれぬ、ただの目録です」
よもぎは、当り障りがないように言葉を選ぶ。
「そうか」
津島はそれだけ言うと、残りの茶を喉を鳴らして飲んだ。よもぎは両手を二度打ち、五平を呼んで茶を入れ替えさせる。
しばらく五平を見ていた津島は、振り返ってよもぎを見、ひと呼吸置いて言葉を投げつけてきた。
「岡田、薫姫に会うたか」
「は!?」
奇襲であった。
濡らした氷を挿しこまれたように、背中へは一気に冷や汗が浮いた。
(やられたっ!)
よもぎは動揺を見せぬため、慌てて顔の表情を消し、呼吸を整えることで額にまで浮かびそうになる汗を調整した。剣を極めていくと、意識して汗の量すら調整できるようになるものだ。剣を修行していて良かったと思える瞬間である。
「それは、どなた様でございましょう」
あくまで平静を装い、淡々と答えた。津島の鋭い眼光が、よもぎの全身を貫いているような気がしてくる。それは、まるでよもぎの全身を押しつぶすように、物理的な重ささえ感じるほどの視線だった。
(これが叩き上げた老中の圧力か)
それは一瞬であったか長いものだったのか、よもぎには全くわからぬまま沈黙が続いた。
「そうか、知らぬか」
「はあ」
よもぎは惚けきることにした。津島が察していようがいまいが、どちらにしても言質を取られるのはまずい。
「ならばよい」
再び津島が茶に口をつけた。その瞬間に圧力が消えた。
よもぎは強張った全身を解きほぐすため、津島に悟られぬように長く息を吐き、徐々に手足の力を抜いていった。
「話は変わるが、岡田よ」
津島が先ほどの笑みを浮かべ、口を開く。今度は圧力を感じない。
「ははっ」
「どうじゃ、ワシの元で働かんか」
「それは、官吏として御城へ上がれ、ということですか」
津島は深く頷いた。
「そちなら、寺社奉行の席を用意しても良い」
これはよもぎも驚いた。寺社奉行は、本来小禄ではあっても大名しかなれない役務だ。
「ご老中、アタシは二千石待遇の旗本に過ぎませぬ。その御役目は」
「もともと岡田本家は大名だったではないか。そちの禄高を増やせば済むことよ」
津島は何の衒いも無く言い切った。この男なら、本当にやりかねない。
「御申し出は大変ありがたく存じまする。ですが、アタシは捕り物が好きにございまする」
「ほう、捕り物のために大名にはなりたくないとな。欲があるのか無いのか」
興味深げに津島が聞いてきた。
「江戸が好きにございますれば」
よもぎの答えに、津島は大笑いした。
「なるほどな、一筋縄ではいかんか」
津島は、再び茶を口にした。よもぎも茶を飲む。
「そちの御祖父、雁母様も、頑として老中にはなられなかったな。良く似ておるわ」
「は?」
これもまた聞いた事の無い話だった。
(御用人の次は老中か。祖父さん、あんた一体どういうヒトだったんだい?)
冷や汗が出てきた。
「では、最後に聞こう」
よもぎの内心を知ってか知らずか、津島は続ける。
「何なりと」
「ひとりを犠牲にすれば百人が助かるとすれば、そちならどうする?」
この、津島の問いも謎めいていた。目的がわからない。
だが、答えぬ訳にもいかぬ。
「犠牲の度合いにもよりまする。両者の命が掛かっているならば、一人を犠牲にするのも致し方ありますまい。ですが、百人の享楽の為、一人が犠牲になるのは、許されぬことかと」
よもぎの頭に、ふと過去の阿片事件が甦った。あれこそ許されざる事件だ。
「では岡田よ、悪とは何だ?」
「悪、でございますか」
「そうだ、ワシは己がことを悪だと思うておる」
いったい何を言い出すのか。
「ワシは、目的の為には手段を選ばん。誰を犠牲にしようともな。ならば、そちから見ればワシは悪となろう」
よもぎは首を横に振る。
「それは善悪ではなく生き方にございます。善か悪かは、所詮己が内の判断に過ぎませぬ。ただ……」
「ただ、なんじゃ」
「生き方がぶつかった場合、犠牲になる方が己だったとしても、ただ受け入れるつもりはありませぬ。精一杯闘いまする。ゆえに善悪ではなく、生き方です」
津島がニヤリと笑った。
「では、そちとワシの生き方がぶつかった場合はどうじゃ?」
よもぎは、腹をくくった。真っ直ぐに津島を見返す。
「ご無礼ながら、精一杯闘いまする。結果、腹を切ることになろうとも。それが武士の本懐なれば」
津島が破顔した。
「そちが本気で欲しくなったぞ。裏表なしにな」
よもぎは深く頭を下げた。
「ならば、これも聞いておこう。そちが許せぬ悪とは何じゃ」
「アタシが許せないのは、悪ではなく外道です」
そう、あの阿片事件は外道の所業だった。ゆえに、よもぎは一切の容赦なく敵を追い詰めたのだ。
「悪と外道とは、何が違うのだ?」
「悪は、己が得のために悪事を働いても、それで起きた責を忘れず、それを覚悟し背負っていく者にございます。外道は、己が得のためだけに悪事を働き、その責を負わずに己だけ助かろうとするものでございます」
それが、よもぎの中での定義だ。
「そうか、己が所行の責を負うのが悪か。それならば、ワシも外道は好かんな」
津島は腕を組み、感慨深げにうなずく。そして腕を解くと、よもぎに向き直る。
「今日は楽しかった。岡田、また来るぞ」
そういい残し、突然津島は立ち上がった。
先に部屋を出る津島を、よもぎは慌てて追いかける。
身支度を整えた津島は玄関を出て、庭先に繋いでいた馬に乗った。
「岡田よ」
馬上から津島が声をかける。よもぎは津島を仰ぎ見た。だが、逆光のためか津島の表情は見えない。
「ワシは、そちの御祖父、雁母様の弟子であった」
「何ですと!?」
これも初めて聞く話だ。
「雁母様は、上様を本当に大切にしておられた。ワシも不肖の弟子だが、そこだけは間違えてはおらぬつもりだ」
「ならばなぜッ!」
なぜ対立するのか? そう言いたかった。
津島はそれには答えず、違う言葉をつづる。
「岡田よ、そちは雁母様に、顔も考えも良う似ておる。話せて嬉しかったぞ」
逆光の中で、津島が破顔したように見えた。
「真実を知ったそちは、どのような選択をするだろうな。それが楽しみじゃ」
それだけを言い、津島は掛け声とともに馬を走らせ、去っていった。
門の外からも、津島の姿が完全に見えなくなる。
ほう、とため息がでたことに、よもぎは我ながら驚いた。そこまで緊張していたのだろうか。身体は正直だ。
「旦那、あのお侍は、一体何だったんですかぃ?」
門内へ戻ると、余之助が心配を声ににじませながら話しかけてきた。
「今をときめく、ご老中サマさね」
余之助は、ひえっ、と言って尻餅をつく。
「な、なんでご老中様がこんなトコに」
あえぐように余之助が言う。この分では、薫が将軍の娘だと知ったら心の臓が止まるのではないか。
「こんなトコとはご挨拶だねえ、余之助」
「旦那もおヒトが悪いや。言葉のアヤってもんですぜぇ」
よもぎが笑いながら突っ込むと、余之助は左手で頭を掻き、苦笑いを浮かべた。
ふと、余之助の顔が引き締まる。
「旦那、冗談はともかく、何でご老中様がここに?」
「ああ、アタシに対しての探りと牽制かねえ」
薫の話を持ちだしてきたのだ。まず間違いあるまい。
問題は、どこで情報を掴んだのか、だが。考えて見れば、内藤の屋敷に出入りした以上、どこかで見張られていたと考えるのが妥当なのだが、そんな空気は感じられなかった。
それに、例の浪人者はこちらで見張っていた。別の実働部隊がいるということか。
さらに、だ。筆頭老中の権力があれば、難癖をつけて旗本ひとつ取り潰すくらい造作もない事だ。それを寺社奉行とは、よもぎを取り込もうという腹だろうか。だが、自分を取り込むことになんの利益があるのか、よもぎには今ひとつ腑に落ちない。
ここに薫がいることまで掴まれているだろうか。津島は、薫に会った事があるか、と聞いて来た。より衝撃を与えようとすれば、薫はここか、と聞いてくるはずだ。怪しいとは睨まれているだろうが、そこまでの確証はないということか。
それに、だ。津島は自分を祖父さんの弟子だと言った。ならば、なぜ吉鉦と対立する道を選んだのか。答えなかった理由はなんなのか。
「旦那?」
余之助が、顔を覗き込んで来た。どうやら、深く考えすぎたようだ。
「余の字、念のため嬢ちゃんにはご老中の話は伏せておいておくれ。いらない心配させるからねえ。それから」
よもぎは余之助に顔を寄せ、辺りに聞こえないよう声をひそめて言った。
「この屋敷が見張られていないか、これから常に気を配っておくれ」
余之助の細い眼が一瞬見開かれ、眼の色が変わる。
「合点です」