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江戸大乱 ~蓬莱事件控~  作者: 桃源郷
11/20

第11話

今回はちょっと長めです。


それにしても、評価が増えないようです。

やはりつまらないのでしょうか、それともここまででは判断がつかないということなのでしょうか。


少々心配になってきます。


追記:年数がおかしかったので、ほんのちょっと修正しました。

物語的には全く変更はありません。すみませんでした。

「で、のぼせちまったのかい?」

「め、面目ない」

 よもぎは、お紺に膝枕されながら団扇で扇がれる薫に、呆れながら尋ねた。お紺も、苦笑を浮かべながら軽く頭を下げる。

 濡れ手ぬぐいで額を覆い、よほど恥ずかしいのだろう、耳まで真っ赤にして身を小さくしている。

 どうやら、湯舟の中で話に夢中になり、薫はそのままヘタってしまったようだ。

「仕方ないねえ、今日はお紺と一緒にお休み」

「そ、そうさせていただく」

 今までの男勝りとは違い、弱々しく声を出す薫を見て、肩をすくめて隣の部屋へ行くよもぎ。とりあえず二人分の布団を敷く。

「殿さま、あたしがやりますのに」

「お前さんはしばらく動けないだろうよ」

 笑いながら答えるよもぎ。布団を敷く彼の姿に、薫は驚いているようだ。

 普通なら、旗本当主が自ら布団を敷くなどありえない。が、よもぎにとってはいつものことだ。

「ゆっくりお休み」

 言い残して、よもぎは障子を閉め、部屋を出る。


 薫とお紺の間に、何か絆とでも言うべきものが出来あがっているのをよもぎは感じた。風呂場で何があったかは知らないが。

 これは、間違いなく良いことだろう。

 内藤が言った『薫を守れ』とは、何も身の安全だけではあるまい。彼女の心も、だ。よもぎはそう感じている。

 ただ、心配なのはお紺の暴走だ。薫を守るために、自分の身を危険にさらさなければいいが。


「旦那」

 外回廊に出たところで横から声が掛かった。

「珍しいですね。あっしがここまで近づいても気づかないなんざ」

 三間先の藪に、余之助が立っていた。

「ああ、ちょいと考え事をね。それよりどうしたんだい、こんな夜更けに」

 すでに、刻は宵五ツ(八時)を廻っていた。

「大変でございやす。逃げていた女中が浪人者に襲われやした」

「何だって?」

 これはさすがに予想外だった。口封じだろうが、手が早すぎる。たった一度の奇襲失敗で切り捨てられるほど、存在の軽い者だったのか。

「それにしても、手が早いねえ」

 何より、手がかりと大事な生き証人を失ったのが痛い。

「一応、助けはしたんですがね」

「ま、ちょいと詳しく聞かせておくれ」

 余之助に慌てた様子はないから、ひと通り処置は終えたのだろう。そう判断したよもぎは、余之助とともに居間へ向かった。



 よもぎは居間に入ると、余之助は台所に向かい、しばらくして盆に湯飲みをふたつ持ってきた。煎茶の薫りが居間を満たす。

 余之助は、湯飲みを片手に見てきた一部始終を話した。倉田屋の番頭が角樽を持ってきて、しばらくしたら大男だけが長屋から出たらしい。

「一応、すずなと後を付けたんですがね」

 運良く余之助も含め三人いたので、末松だけを残して動いたようだ。

 大男は森の中に入ると、そこには女が一人待っていた。

「すぐに、行方知れずの女中じゃねぇかと思ったんですがね」

 大男は、小判の切り餅をひとつ女に手渡した。

「別れたら、女はすずなに付けさせようとしたんですがねぇ」

 大男は後ろを向いて歩き出した女を捕まえた。逃げようとした女に、後ろから取り出した紐を首に巻きつけ、そのまま背中に担ぎ上げたという。

「あれが噂に聞く『地蔵かつぎ』って奴かと思いましたよ」

 首吊り自害に見せかけるため、昔から使われる方法だという。

「下手に飛び出すことも出来ねぇんで、そのまま木にぶら下げるのを見ておりやしたが」

 男が切り餅を奪って去ったのを確認すると、気づかれぬようすぐに降ろしたという。

「すぐに息を吹き込み、心の臓を圧したんですが、気が付きやせん」

 息だけは自分でするようになったので、そのまま医者に担ぎこんだ。

「旦那からいろいろ習っておいて、良かったですよホント」

「良くしてのけてくれた。さすがは余の字だねえ」


 余之助は、頭を掻きながら照れたように言った。

「いやぁ、いくら女に接吻して、乳を直接圧したって言っても、仏になりかけじゃあねぇ」

「おいおい、感心してるのにぶち壊しだねえ」

 今は、よもぎと懇意にしている御典医師、大原参信の元で治療中らしい。

「なるほどね、具合はどうなんだい?」

「先生が言うにゃ、四分六分。後は本人次第だそうで」

「微妙な数字だねえ」

 蘭方医学を極め、裏では江戸一の名医と言われる参信でそうなのだ。他の医師では、助からないかもしれない。

「今夜が峠だそうで」

「先生の安全は?」

 もし、女を助けたのが分かれば、今度は参信の屋敷を襲うだろう。

「二人が長屋で見張っておりやす。動きがあればわかるでしょう」

「女が回復して、逃げ出すようなことはないだろうねえ」

「目覚めたら、すぐ薬で眠らせておくそうですよ。で、旦那に使いを出すそうで」

「さすがは参信先生だねえ」

 よもぎは行儀悪く肘掛けを抱え、そこに肘をついて顎を乗せたまま苦笑した。眠りを自在に操るなど、薬に詳しいよもぎにも出来ない。

「ああ、そうそう、他にも先生から伝言が」

「何だって?」

「この度の治療費は、旦那からがっつりいただくぞい、だそうで」

 かくりとよもぎの顎が落ちる。

「さ、さすがは参信先生だねえ……」

 参信先生、腕はいいが金にはうるさい。金持ちからはがっぽりいただく。その浮いた金を町衆の治療分に廻しているのだ。金持ち連中も、そのことを知っているのか文句は言えないようだ。

 御典医なのに町衆の治療をするのは、将軍家から特に許されてのことだ。

 そのため、町衆からは生き神様扱いと言っても良いほど尊敬を集めている。


 ふと、よもぎの頭にひらめきが閃った。

「じゃあ、こちらも手を打とうか」

「どんなです?」

 よもぎはキセルを取り出した。一服すると、頭の中が晴れてくる。

「明日、佐竹さんのところに行って、森で首吊り死体が見つかったと吹聴してくれ、と頼むんだ」

「なるほど、完全に死んだと思わせるんですね」

「そういうことよ」

 よもぎは紫煙を吐き出す。これで女が助かれば、やっと尻尾が掴めるかもしれない。

「アタシは明日、がっつり金を持って参信先生のところに顔を出すよ。お前さんも来ておくれ」

 よもぎは、苦笑しながら言った。


 * * *


 夜更けに、ふたつの月を見ながら杯を傾ける。これもよもぎの趣味だ。

 大きい方の月は、二刻もすれば中天を駆け抜け、すぐに地平に沈んでしまう。逆に小さい方は何日も天空にあり、一度沈めばなかなか上がってこない。だから、月がふたつとも中天に見える夜はそう多くない。

 両月が見えるときは、いつもより夜が明るい。さらに、今夜は大惑いおおまどいぼしとも言われる、ふたつの日と月を除けば天空で一番明るい星も、青白く光って良く見えている。


 ふと、誰かが襖を開ける気配がした。

「お紺かい? 嬢ちゃんはもう寝たのかい?」

 果たして、その気配はお紺のものだった。

「ええ、そりゃもうぐっすり。気配は消していたけど、普通にしていても気づかれなかったかもしれませんねぇ」

 お紺は袖を口元に当てて、よもぎの隣に座った。

「一献どうだい」

「お流れを頂戴します」

 よもぎから杯を渡され酒を注いでもらうと、お紺は一息に飲み干した。

「ああ、おいしい」

 にこりと微笑む仕草が、何とも艶めいている。よもぎはなんとなしにその様子を見ていたが、何か男として誘われているようで、慌てて天空を見つめる。

「で、どうだった、って、あ痛ッ! 何するんだい」

 お紺にいきなり尻を抓られてしまった。

 もう、殿さまのいけず、というつぶやきは、聞こえなかった事にしよう。

「ええ、薫ちゃんはいろいろ話してくれましたが、何が聞きたいんです?」

 女同士の秘密については、何も言えませんよ、と微笑んで、つねった事など無かったかのように話しだすお紺。

(女は怖いねえ)

 よもぎは、そう思いつつも一切口には出さず、別のことを聞く。

「じゃあ、永十手のことは何か言ってなかったかい?」

「言っていました。何でも、永十手を見つめたとたん、目の前に光があふれ、見たこともない光景が広がったそうです」

 その光景では、自分がギアマンの筒のようなものに入れられ、水越しによもぎらしき人が立っていたそうだ。

 そのまま、お互い何かを話していたようだが、声は全く聞こえない。ただ、最後にお互いの顔が近づくのがわかって、ギアマン越しに接吻したと。

「その直後に殿さまの顔が目の前にあったから、恥ずかしいやら驚くやらで、まともに見ていられなかったって」

 お紺は袂を口に当て、笑いながら話す。

「そうかい、あんなに動揺していたのはそういうことだったのかい」


「殿さまァ? 本当は身に覚えがある、なんてことはないですよねェ?」

 探るような、悪戯っぽい目つきでお紺が聞いてくる。

 その瞬間、薫の着物を脱がせた時のことが頭をよぎった。そのためか、一瞬動揺してしまう。

「バカ言ってんじゃないよ。そんなこと、あるわけないだろうが」

 お紺は、よもぎの動揺を見抜いたのか見抜けなかったのか、ただ笑っている。

「しかし、その話気になるねえ。他には何か言ってなかったかい」

 よもぎが水を向けると、お紺は笑いを押さえた。

「そうそう、あとで冷静に考えたら、立っていたのは違うヒトと分かったみたいですよ。何でも、殿さまよりちょっとガッチリしていて、左目に傷があったそうですから」

「ふうん、傷ねえ」

 よもぎには、その点が気になった。自分に似ていて、左目に傷がある男。すぐに一人だけ思い浮かんだ。

「確かウチの祖父さんにも、そんな傷があったな」

「でも、薫ちゃんが知っているはずはないですわね」

「そうだねえ。第一、祖父さんは十七年前に逝っちまってるしねえ」

 一応薫の動揺について、原因が分かっただけでも良しとしようか。結局永十手との関係は分からずじまいだが。


「そうそう、ちょっと気になることが」

 お紺が思いだしたように、両手をぱちりと打った。

「薫ちゃん、親兄弟のことで、変なことを言っていました」

 薫の親のことだ。その正体を知っているだけに、よもぎにも気になる。

「変なこと?」

「話の中で、兄弟姉妹はいないって事は言っていたんですけど、母親の事で」

「母親?」

 そう言えば、内藤もその事には触れていなかった。

「そうなんですよ。“母上だけはいる”って言っていて。まるで、父親がいないみたいに言っていたのが気になって」

 もちろん父親がいないわけはない。それも、今の将軍家だ。

「そいつはおかしいねえ」

「殿さまは、何かご存知なんですか?」

 問われても、素直に答えられるような話ではない。

「一応ね。だが済まないね、こいつは軽々しく言えるような事じゃないのさ」

 お紺は、それだけで納得したようにうなずいた。

 しかし薫の言葉は気になる。単に、将軍家との間が上手くいっていない事の表れなのだろうか。だが、それにしたって存在が無いように言うとは、あまりに極端だ。

 もちろん、考えたって答えが出るような話ではない。よもぎは考えるのを打ち切った。

「ところでお紺、分かっちゃいると思うが、嬢ちゃんのためとはいえ、決して自分の身を粗末にするんじゃないよ」

 お紺は、ただ柔らかく微笑んでいた。


 * * *


 その二日後、大原参信から連絡が入った。女が目覚めたようだ。

 屋敷と薫のことは五平とお紺、そして余之助に任せ、よもぎは知らせにきた末松とともに参信の屋敷に向うことにした。

 屋敷を出るときには、尾行がないか末松に確認させる。気の使いすぎと言われそうだが、相手が相手だ。用心に越したことはない。末松は、ましらという二つ名を持つほど、すばしっこくて身が軽い。よもぎの後ろから、屋根越しに辺りを見張るのだ。


 門をくぐると、参信が玄関で立っていた。

「おお、よもぎ殿。元気だったかの」

 剃り上げた頭に赤ら顔で、軽杉かるさんを着た六尺近い色黒の大柄な老人が立っていた。大原参信である。

 長く伸びた眉に隠されるような眼を細めて、恵比寿のような笑みを浮かべている。

 還暦近いが、なお元気な大猿族の老人である。

「先生、この度はご迷惑を」

 よもぎは深く頭を下げ、みやげの酒樽を渡す。

「何のなんの、御用とあれば当然じゃよ」

 それをうれしそうに受け取る参信。赤ら顔は、酒焼けかもしれない。


 参信は、もともとよもぎの父の先輩である。同じ蘭方医術を志し、ともに長崎で学んだ仲だという。

 よもぎも子供の頃から世話になっており、全く頭が上がらぬ人物である。

「一応意識は戻ったよ。だが、完全に回復できるかわからん」

 脳味噌に血が行かない時間が長いほど、ヒトは後遺症が残るのだ。

「幸い、余之助の処置は完璧だったからの。多分大丈夫じゃ。こ奴、わしの助手に欲しいわい」

 よもぎの後ろに控え、一礼する余之助を見て、かんらかんらと高笑いする参信。

「だがの、きつい取調べは無理だぞ」

「心得ております」

 予想通りではあるが、少しだけ落胆する。

「先生、ありがとうございます。では、女をここから動かせませんか?」

「まだ無理じゃな」

 よもぎは、腕を組んで思案した。少し考えてから口を開く。

「安全になるまで先生だけでも移動しませんか?」

 参信の眼が鋭く光った。

「よもぎ殿、医師は患者を最後まで見捨てんもんじゃ」

 ま、心配してくれるのはうれしいがの、と言うと、再び参信は高笑いする。

「これは失礼しました」

 よもぎは、自分のために危ない橋を渡ってくれるこの老人に、深く頭を下げた。


「ま、こちらへ来なさい」

 参信は、よもぎを奥の間へ案内する。いつもの事だが、廊下ですれ違う病人達が、参信に向って深ぶかと頭を下げるのが印象的だ。

 廊下が突き当たる、奥の間。そこまで来て、初めて参信は足を止めた。

「ここじゃよ、声を掛けるから待っていなさい」

 そう言い残し、参信は襖を開けて入っていく。しばし待つと、声が掛かった。


 襖を開けると、十畳ほどの座敷の真中に布団が敷かれている。畳に胡座を掻く参信の背中越しには、女が半身を起こして座っていた。どうやら、この女が目指す人物のようだ。

 柔らかくほっそりした身体に白い肌。薄茶色の髪は軽く上に結っただけで、ほつれ毛が頬とうなじに数本絡んでいる。耳の形からすると、猫族のようだ。少しはだけた病人用の薄く白い着物から、痩せた身体に似合わぬ少々大振りな乳房がこぼれそうになっている。だがそれは、色っぽさよりも弱々しさを感じさせる。もし浮世絵にするなら、お題は哀しき女、といったところか。

 喉には肌と同じほど白いさらしが巻かれている。膏薬を貼っているようだ。首を締められ、喉を痛めたからだろう。

 つまらない事を考えていると、参信は座ったまま、くるりと器用に身体ごとこちらを向いてきた。

「よもぎ殿。患者は眠り続けたせいで、体力が戻っておらん。言葉もいささか不自由じゃ。短めにな」

 どっこらしょ、という掛け声とともに、参信は腰をニ、三度叩いて立ちあがり、座敷を出ていった。


「お前さん、助かってよかったねえ」

 よもぎは、それを黙ったまま見送ると、布団の傍ら、ちょうど参信がいた場所に座りながら、女に声を掛ける。

「ア、なたさま、ハ?」

 女の小さな声がよもぎに届いた。喉のせいか、老婆のようなしゃがれた声だ。まあ、聞き取れないほどではない。

「アタシは、岡田よもぎという者です」

「ナ、によう、で、ござい、ましょウ」

 どうやら、意識や脳味噌には別状が無いようだ。

「いやなに、お前さんの落とし物を届けに来たんだよ」

 そう言うと、よもぎは懐から切り餅をひとつ取り出した。それを見た女は、白い頬を一気に青ざめさせる。

 咳込みながら、慌てて布団から出て逃げようとする女の腕を掴み、後ろからはがい締めにする。

「慌てなさんな。別にお前さんを襲いに来たわけじゃないよ」

 言葉が届いたのか、体力が尽きたのか、大人しくなる女。だが顔面は蒼白なままで、産まれたての子鹿のように震えている。

「オたすけ、くださイ、まし、おタ、すけくダ、さいまシ」

 腕を離すと、両手を合わせてこちらを拝みながら、咳込みつつも壊れたカラクリのように繰り返す女。


 よもぎは正直、ここまで激烈な反応が返ってくるとは思っていなかった。ちょいと失敗したかな、と思いつつも、命請いを繰り返す女をしっかりと抱きしめる。

 女の身体が、びくり、と大きく震えた。よもぎはそのまま、幼子をあやすように、女の背中をゆっくりと叩く。

「心配しなくていい。アタシが守ってやるから」

 しばらくそうしていると、だんだんと女の身体の震えは治まっていった。

「落ち着きましたか?」

 女の肩に手を掛け、身体を離しながら優しく問いかけると、女はひとつ首を縦に振った。頬に赤みが差している。どうやら落ち着いたようだ。

「わたし、ヲ、たすけ、て、くださっタ、のハ、あなたサマ?」

「ああ、アタシの友達で、余之助って男ですよ」

 そうですか、とでも言うように、首を縦に振る女。

「じゃあ、話してもらいましょうか」

 よもぎがそう言うと、女は再び肯いた。


 * * *


 よもぎは、夜の闇を睨みながら、愛用のキセルを片手にひとり縁側に座る。

「余之助、どう思う?」

 廊下から、黒塗りの盆に猪口と徳利、器に大根の漬物を乗せて、余之助が歩み寄ってきた。

「あの吊られ女のことですかぃ?」

「吊られ女はないだろう。さつきって名前だとさ」

 そう言いながら、猪口を手渡してくる。酌を受けると、徳利からこぼれるように、芳醇な酒の薫りが漂ってくる。

 猪口を傾けると、程よく暖められた酒が、喉を軽く焼きながらも潤いをもたらす。思わず、コクリと喉がなった。いい酒だ。

「倉田屋からの依頼で、潜り込んだのは予想の中さね、薬のことも」

 あまりさつきにはこの件の情報を渡していなかったのだろう。消すつもりなら当然だ。

 だが、かろうじて倉田屋の二番番頭が指揮する人買いなどの裏家業を思わせる証言を得られたのが救いか。

「番頭には手を出さないんで?」

 余之助は、くいっと猪口を呑み干して言った。

「ああ、今捕まえても、肝心の件には結び付けられないだろうよ」

 それどころか、蜥蜴の尻尾きりをされかねない。


「振り出しですかねぇ」

「そうでもないさ、少なくとも、倉田屋を追い詰めるのには使えるだろうさ」

 予想以上にあこぎな商売をしているようだ。それも、表に出ない形だからたちが悪い。

「とりあえず、もっと突っ込んで調べる必要がありそうだねえ」

 言いながら杯を空ける。

「ところで、だ。余之助」 

「なんです?」

「お前さん、さつきさんの見舞いに行ったのかい?」

 余之助は、聞かれるとちょっと驚いたようにこちらを見た。

「いえ、まだですがね」

「行っておやり、一応命の恩人だからね」

 よもぎも笑って猪口をあおる。


「でもですねぇ旦那、どうにも事情が見えてきやせんねぇ」

 余之助が、よもぎと自分に酌をしながらぽそりとつぶやいた。

 そう、今回の一件は、色々な思惑が絡みついているように思える。そろそろ混乱しそうだ。こんな時は、まとめた方がいい。

「余之助、明日は一日まとめ物をしようかね」

「合点で」

 余之助は肯きながら徳利を振る。が、音がしない。

「ちょうど酒も尽きたようだし、今日は早めに寝るとしようかねえ」

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