第5話 一冊の痛々しいノートと、蒼逢学園への華麗なる凱旋(そして始まるご愁傷様な主人公)
あれから二年ほどの歳月が流れた。
中学を卒業し、僕こと美咲朔夜は十四歳から十五歳へと、心身ともに大人の階段を一段上ることになった。
実家である美咲家の巨大な書斎、その奥の引き出しの最も深い場所。そこに、見つけてしまうと強烈な電撃が全身を駆け巡るような、恐るべき代物が眠っている。
黒い合皮の表紙に、銀色のペンで『漆黒の聖戦記録:The Secret Society "Valkyrie"』と大々的に記された、いわゆる中二病の全盛期に書き殴ったノートだ。
「……見なかったことにしよう、うん」
僕は秒速で引き出しを閉め、深呼吸をして意識を現実へと引き戻す。
そう、中二のあの熱に浮かされていた時期、不治の病のノリと勢いだけで結成してしまった女性のための秘密結社『ワルキューレ』。
あの痛々しい設定やコードネームの数々は、今や僕にとって思い出すだけでベッドの中で手足をバタバタさせたくなるほどの、最高に恥ずかしい黒歴史という名の『負の遺産』であった。
しかし、結成当時からノリノリで参加し、今やそれぞれの分野で世界の頂点を狙うまでに成長した五つ子姉妹たちは、なぜかこの組織名をいまだに大切に(あるいは面白がって)心の拠り所にしている節がある。それがまた僕の精神をじわじわと追い詰めるのだが、まあ、誰も表立って口に出さないのだからセーフということにしよう。
そして今日から、僕たちは新たなステージへと足を踏み入れる。
私立蒼逢学園。
原作ゲーム『クインテットシスターズ・ラブグラフィティ』(通称『ラブグラ』)において、物語の舞台となる、政財界の御曹司や各界の天才たちが集う超エリート校だ。
いよいよ、『ラブグラ』のメインストーリーが動き出す時期がやってきた。
もっとも、原作のシナリオなど、僕の手によって最初から最後まで盛大に書き換えられ、原型すら留めていないわけだけれど。
なんせ、原作では主人公の理玖と数奇な運命で結ばれるはずだったヒロインの五つ子は、今や僕の家の養子になり、僕に対して絶対的な忠誠と、時々ちょっと重すぎるほどの愛を捧げる『美咲家の至宝』と化しているのだから。
ここから、原作主人公である高梨理玖が一体どういう行動を取り、どうやって彼女たちにアプローチしようとするのか、見ものと言えば見ものだった。
まあ、結果がどうなるかは目に見えているけれど。
なお蒼逢学園という名の舞台には、当然ながら五つ子以外にも、原作でおなじみの個性豊かな面々が揃っている。
その中でも、僕が少しだけ注目しているのは、同級生として入学してくる『三つ子の美少女姉妹』の存在だ。
彼女たちは、ゲームの本編でも五つ子たちの強力なライバルとして幾度となく立ち塞がる、由緒正しい名家のお嬢さまたちだった。
オペラ界の若き天才としてその名を轟かせる、誇り高い長女。
天才的な画力とデジタルアートで業界を席巻する、クールな次女。
全国大会レベルの身体能力を誇る、勝気なスポーツ少女の三女。
原作ゲームの中では、この三つ子が財力と英才教育をバックに、孤児院出身でありながら偶然の出会いで成り上がっていく五つ子たちに対して強いライバル心を燃やし、何かにつけて突っかかってくるという描写が定番だった。
ゲームをプレイしていた頃は「お、バチバチのライバル関係だな」と面白がっていたものだが……現実の彼女たちは、ちょっと可哀想なことになっている。
なにせ、我が家で世界最高峰の環境と教育、そして僕からの的確なプロデュースを受けて育った五つ子たちのスペックは、原作の次元を遥かに超越している。
今や彼女たちにとって、三つ子のライバル視など、心地よいそよ風程度のものにすぎないだろう。
それに、もう一つ面白い事実がある。
その三つ子の姉妹たちは、原作通りであれば、学園で偶然出会った主人公の理玖に恋心を抱き、彼を巡って五つ子たちと激しい恋のバトルを繰り広げるはずだった。
しかし、五つ子たちは理玖など眼中にない。彼女たちにあるのは僕への重い愛だけだ。
「この世界では、理玖の立場が悪化する分、原作よりももっとシュールなことになりそうか」
さらに、この蒼逢学園には、学園の自治を越えて政財界の暗部にまで太いパイプを持っていると噂される、絶対的な権力を持った『生徒会』の存在もあった。
だが、それについてはまた別の機会だ。今はまず、今日の盛大な入学式を無事に乗り切ることに集中しよう。
思考を巡らせながら、僕は自室の鏡の前で紺色のブレザーに、銀の刺繍があしらわれた上品な仕立ての蒼逢学園の制服の襟を正した。
§
美咲家のエントランス前。
大型の高級リムジンが静かにエンジン音を響かせて待機している。
「お待たせ、朔夜」
弾むような声とともに、階段を降りてきた五つ子たちが次々と姿を現した。
彼女たちもまた、蒼逢学園の女子制服に身を包んでいる。デザイン自体は同じものだが、着こなしやそれぞれの佇まいの違いによって、五人五様の魅力がこれでもかと引き出されていた。
顔立ちは驚くほどそっくりで、誰もが息を飲むほどの美少女なのだが、一目で見分けるための最大の個性は、やはりその『髪型』にある。
長女の一果は、背中まで美しく流れる艶やかな『ロングヘア』。知的で凛とした気高さを一層引き立てている。
次女の双羽は、耳元で綺麗に切り揃えられたスタイリッシュな『ミディアムボブ』。どこかミステリアスでクールな雰囲気を漂わせている。
三女の美織は、活発な動きやすさを重視した爽やかな『ショートヘア』。健康的な美しさとボーイッシュな可愛さが絶妙に入り混じっている。
四女の四季は、サイドの髪を上品にまとめたフェミニンな『ハーフアップ』。文学少女らしい物静かな気品と優しさが感じられる。
そして五女の五姫は、ふんわりと肩口で揺れる愛らしい『セミロング』。アイドルとしての華やかさと、甘え上手な妹系オーラが全開だ。
「みんな、制服姿すごく似合ってるよ。とっても綺麗だ」
僕が素直な感想を告げると、五人は一斉にぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「本当? 朔夜にそう言ってもらえるのが、一番嬉しいわ」
「ふふ、今日のコーディネートは私と一果姉様で相談して決めたんだよ。朔夜君の好みに合っててよかった」
「でしょでしょ? 私もこのリボンの位置、こだわったんだから!」
「私の髪型も、お気に入りです……朔夜様、似合っていますか?」
「うんっ! 今日からの学園生活、すっごく楽しみだね、朔夜さん!」
朝から全方位に向けて放たれる過剰なまでの好意と熱視線に、僕は内心タジタジしつつも、紳士的な笑みでそれを華麗にいなす。
僕たち六人はそのままリムジンに乗り込み、春の陽光に包まれた蒼逢学園へと出発した。
§
蒼逢学園の正門をくぐり、広大な敷地に足を踏み入れた瞬間、周囲の空気が一変した。
桜並木の続く校庭を歩く新入生や在校生たちの視線が、一斉に僕たちの一行へと集中する。
「ねえ、見てあの人たち……!」
「あの子たち、噂の美咲グループの御曹司と、その……あの美少女五つ子姉妹じゃない!?」
「嘘でしょ、顔がそっくりな美少女が五人も並んでるなんて……ビジュアルの暴力じゃん……!」
「中央にいる男子、確か美咲財閥の跡取り息子だよね。なんて贅沢な環境なんだ……」
どよめきと感嘆の声が、波のように押し寄せてくる。
顔立ちはそっくりなのに、髪型や醸し出す雰囲気が全く異なる美少女が五人も揃って歩いているだけでも異常事態なのに、その中心にいるのが圧倒的なルックスとオーラを放つ僕なのだから、目立たないわけがなかった。
数少ない男子生徒たちからは、羨望と嫉妬が入り混じったような複雑な視線が突き刺さるが、そんなものは今の僕にとって心地よいBGMのようなものだ。
「すごい見られてるわね、朔夜」
「まあ、僕たちの美貌が優れているから仕方ないさ。胸を張っていこう」
「ふふ、朔夜がそういうこと言うの、珍しいわね」
他愛のない会話を交わしながら、僕たちは新入生のクラス発表が貼り出されているメイン掲示板の前へと歩み寄った。
「さて、私たちのクラスはどこかしら」
一果がスッと歩み出て、滑らかな指先で掲示板の紙面を辿っていく。
「あ、あったわ。私たち、全員同じクラスみたいね」
「本当だぁ! やったあ、朔夜さんと同じクラスだあ!」
五姫が嬉しさのあまりピョンピョンと飛び跳ね、僕の腕にぎゅっとしがみつく。
学校側の配慮なのか、偶然なのか、それとも美咲財閥のネームバリューが裏で働いたのかは定かではないが、ありがたいことに五つ子姉妹は全員揃って『一年A組』に配属されていた。
そして、その隣の列を確認した僕の名前の横にも、しっかりと『一年A組』の文字が刻まれている。
「よし、僕たちも全員同じクラスだね。一年間、賑やかになりそうだ」
僕が微笑みかけると、双羽や美織、四季もそれぞれに嬉しそうな表情を浮かべた。
その時だった。
「やあ、五つ子の皆。久しぶりだね」
背後から、どこか聞き覚えのある、しかし今の彼女たちにとってはまったく歓迎されない快活な声が降ってきた。
振り返るとそこには、引き締まった体躯に制服を着こなし、いかにも青春の1ページを駆け抜けてきましたと言わんばかりの爽やかな笑顔を浮かべた少年の姿があった。
高梨理玖。
かつてあの孤児院の庭で、竹刀を片手に遅れてやってきた、この世界の本来の『主人公』である。
理玖は、かつて助け損ねたはずの五つ子たちに向かって、自信満々な笑みを向けながら一歩踏み出してきた。彼の中では、きっと『高校で再会した幼馴染たちと再び絆を深める青春のスタート』という美しいシナリオが描かれていたに違いない。
しかし。
彼を迎えたのは、青春の甘い再会の空気ではなく、底冷えするような完全なる『無関心』だった。
「……誰?」
長女の一果が、スッと細めた美しい瞳で理玖を見下ろした。その声音には、道端の石ころを見るよりも冷ややかな響きが含まれていた。
他の四人の姉妹たちも、一果と同じように冷ややかな、あるいは「変な虫が湧いた」と言わんばかりの警戒の目を理玖に向けている。
「え……?」
理玖の笑顔が、綺麗に凍りついた。
彼は信じられないものを見るように目を丸くし、慌てて言葉を継ぎ足す。
「なっ……何を言ってるんだよ! 俺だよ、理玖だよ! 君たちが六歳の時に、孤児院の庭で暴漢に襲われそうになった時に、助けに駆けつけた──」
「ああ……」
一果はふっと小さく息を吐き、これ以上ないほど面倒くさそうな表情で首を傾げた。
「そういえば、そんなこともあったかしらね。随分昔の雑音だからすっかり忘れていたわ」
そして、一果は容赦なくトドメの一撃を浴びせた。
「けど、実際にあの時私たちを救い出してくれたのは、この朔夜よ。あなたはただ物陰から遅れてやってきて、ただポカンと突っ立っていただけじゃない。違う?」
「っ……! そ、それは……!」
図星を突かれたのか、あるいはそのまま事実を突きつけられたからか、理玖は顔を真っ青にして言葉を詰まらせた。
原作では、あの強盗事件の時にかっこよく現れてヒロインたちのヒーローになるはずだった彼なのだが、僕が六歳の時にそのポジションを秒速で掠め取ってしまったせいで、彼の記憶は『ただ遅刻して気まずい顔で突っ立っていた無能なギャラリー』として彼女たちの脳裏に刻まれていたらしい。そりゃあ印象に残るわけがない。
「用がないなら道を空けてもらえるかしら? 私たちは朔夜と一緒に、これからのクラスの確認と入学式の準備があるの。あなたのような見知らぬ赤の他人に割いている時間はないわ」
一果の冷徹な一言が、理玖のハートをグサグサと抉っていく。
双羽や美織たちも「ほんと、しつこい男の人って嫌いだよね」「邪魔なんだけど」と、容赦ない冷たい視線を浴びせかけている。
「い、いや、待ってくれ……! 俺たちはこれから同じ時間を──」
「行きましょう、朔夜。こんなところで時間を潰すのは息が詰まるわ」
「そうだね。式典の時間が近づいてるし、行こうか」
僕は理玖の肩をポンと軽く叩き、哀れみの笑みを向けながら、彼の横をすり抜けて歩き出した。
五つ子たちも僕にぴったりと寄り添い、理玖を一瞥すらせずに、優雅な足取りで掲示板を通り過ぎていく。
「待ってくれ……! どうして……どうしてこうなったんだ……!」
背後で、主人公である高梨理玖が崩れ落ちるような絶望の声を漏らしているのが聞こえた。
シナリオが完全に書き換えられた世界で、彼はまだ、五つ子姉妹たちの心をつかめるという微かな希望を捨てきれずにいたらしい。
けれど、彼女たちの反応を見る限り、彼は今後も知人でさえない『通りすがりの赤の他人』として冷遇され続けることになりそうだ。
ご愁傷様、原作主人公くん。
君の青春ロードの難易度は、どうやら僕のせいで『地獄のハードモード』に固定されてしまったらしい。
心の中で小さく苦笑いを浮かべながら、僕は蒼逢学園の校舎へと足を踏み入れた。




