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第1話 霧の国の王女

 ~サーシャ~


 春の心地よい風が草原を駆け抜けていく。

 青々とした草花が、風を受けてさざ波のようにさわさわと流れる。


 背後を振り返れば、すぐそこには広大な森。


 前方は背丈の低い草花が咲き乱れた、緩やかな下り坂。

 二キロほども下って行けば、切り立った崖に囲まれた峡谷の底に街がある。

 この場所からは美しい街並みが良く見えた。


 ここは『霧の王国』。

 その名をニヴルヘイムと言う。


 この国は二つの結界により、外界から完全に断絶されていた。


 一つ目は、街を中心にぐるりと取り囲む、どこまでも深く暗く重い“霧”の壁。


 そしてもう一つは森の中に隠されたこの国への唯一の『扉』。

 その『扉』を通らなければ、何人たりとこの国にはたどり着けない。


 そう。つまりは異空間だ。


 たとえ霧の壁を越えて侵入しようとも、正しい『扉』を通らなければ、広大な森を抜けたところでこの場所にはただ、殺風景な荒地と何もない峡谷があるのみ。


 だから、外界の者がこの国に足を踏み入れるなど、万に一つもない。



 ——ないはず、だったのに。



「今日もいい天気……」


 草原の一角に、彼女はいた。


 若い女性。

 少女から女へと変わっていくちょうどその途上……という表現が正しいか。


 彼女は仰向けになって、草の上に寝そべっている。


 息を飲むほど美しい女性(ひと)だ。


 大きな瞳、整った鼻筋、意志の強そうな眉。

 愛らしい唇に、先のとがった耳。

 銀色の長い髪。

 華奢だが長身で均整の取れた抜群のプロポーション。


 ——そして、透き通るような()()()


 草原の上で無造作に手足を投げ出したその恰好は、彼女のその完璧すぎる容姿とはあまりにも不釣り合いだ。

 でもだからこそ、恐ろしい程の美貌に愛嬌と親しみやすさを添えているのもまた確かなのだと思う。


 彼女は頬を撫でる春風を感じながら、気持ち良さそうに目を瞑っていたが、


「あー!こんなところに!」


 私の隣で声を上げるラーナに妨害される。


「姫さま、やっと見つけましたよ」


 私もラーナに続いてそう言った。


 その女性(ひと)は片目を開けてこちらを見る。


「……ラーナ。サーシャ」


「もう。ちょーっと目を離したら、すぐいなくなっちゃうんですからぁ!」


 ラーナがわざとらしく眉間にしわを寄せた。

 ラーナはショートヘアの若い娘だ。


 その女性(ひと)と同じく銀色の髪、そして青い肌。


「油断も隙もあったものではないですね」


 私も両手を腰に当てて、「怒ってますよ」というようなポーズをして見せた。


 彼女やラーナと同じ銀髪だけど、私はちょうど腰ほどまでの長さのそれを三つ編みにしている。


 もちろん私の肌も、青色。


「だって、こんなに気持ちのいい日なんだもの。陰気なお城の中になんて閉じこもってたらもったいないわ」


 その女性(ひと)は半身だけ起こすと、全く悪びれた様子もなくいたずらっ子のように肩を竦めて「てへっ」と笑った。


 いつもながら、目が釘付けになるような愛らしさ。


「可愛いから許します」

「可愛いは正義」


 私とラーナは反射的にそう言っていた。


「——許すな、馬鹿者。そんな正義があってたまるか」


 その女性(ひと)の背後から、今度は男の低い声がした。


「まったく……。貴女(あなた)はいつになったらご自身の立場を弁えられるのです」


「キロン」


 彼女は首だけ巡らせてその名を呼んだ。


 その視線の先にいたのは、二メートルを超える巨漢だった。

 服の上からでもわかる、鍛え上げられた体。

 その腕は彼女の腰より太い。


 当然この男も、青い肌だ。


 腕を組み、険しい顔で彼女を見下ろしている。

 ラーナや私と違って、かなり本気で怒っているみたいだ。


「姫様。貴女(あなた)はもう子供ではないのですぞ」


「わかってるわよ。キロンの意地悪」


 彼女は頬を膨らまして、ふん、と顔をそむけた。


「まったく……」


 キロンが険しい顔をしたまま、また口を開こうとしたときだった。


 クオオオォォォン


 森の方から、何かの鳴き声が草原に木霊した。


「あら、あれは」


 ラーナがその正体を見極めて、呟いた。

 彼女の視線の先には、森からぞろぞろと出てくる騎馬の一団があった。


 “騎馬”と言っても、彼らが騎乗しているのは“馬”ではなく“鳥竜”だったけれど。


「姫さま。どうやらルイーズさまのようですよ。森からお帰りになったみたい」


 先頭の一騎を見て私がそう伝えると、


「お城を抜け出してばかりの姫さまを、じきじきにお出迎えですかね?——未来の国王さまが」


 ラーナがおどけたように笑った。


「あらラーナ、気が早いわね。私たちの結婚式はまだ先よ?今はまだ、お父様が国王でしょ」


 その女性(ひと)はラーナを睨むような仕草をした。

 でも、その口元は笑っている。


 一方、キロンは少しだけ不満そうにしてそっぽを向いた。


 彼女は立ち上がると、ドレスについた草を手で払ってから騎兵たちの方に向かって大きく手を振った。


 この女性(ひと)はこの国の統治者の娘——つまり王女だ。

 ラーナと私はその侍女。

 そして大男のキロンは彼女の護衛——もっとも、彼は王国の〈戦士〉たちの指揮を預かる指揮官のひとりでもあるのだけれど。


 そして森から帰還した一団を率いているのは、姫さまの婚約者だ。

 その名はルイーズと言う。

 彼もまた、軍の指揮官のひとり。


 ルイーズさまも、手を振る姫さまに気づいたようだった。

 配下の〈戦士〉たちに手で合図をしてその場に待機させると、翼を持たない鳥竜を駆り、単騎で私たちのもとへと“(ウマ)”を進める。


 銀色の髪と青い肌は他のみんなと同じ。

 精悍な顔つきの美青年だ。


 キロンほどではないけれど、長身で戦士らしく引き締まった体をしている。


「ルイーズ!」


「姫さま」


 ルイーズさまが私たちの前で(ウマ)を下りると、姫さまは駆け寄って婚約者に抱き着いた。


「……はしたないですよ、姫様!」


 キロンがしかめっ面をする。


「妬かない、妬かない」


 その横で、からかうように笑いながらラーナが肘でキロンの脇腹をぐりぐりする。


「五月蠅い。……別に俺は妬いてなどいない」


 キロンが不機嫌そうに睨むが、ラーナは「嘘ばっかりぃ」と尚も笑っている。


 けれど、私はそんなラーナの秘めた気持ちも知っている。


 ラーナたちを尻目に、姫さまはもう一度ルイーズさまにギュッと抱き着いてから、その腕を彼の首に回した。


 ルイーズさまもそれを受け入れて、彼女の華奢な腰を包み込むように支える。


「お仕事に行っていたのね。おかえりなさい、ルイーズ」


 そして彼女は、婚約者に優しくそっとキスをした。


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