第13話 恋人たちのセレナーデ
~マルティナ~
——夕陽が、『ニヴルヘイム』の美しい街並みを優しく染めている。
「じゃあ、私はそろそろ行くわね」
街と草原を隔てる境界の門の前で、姉さまはそう言ってから、ルイーズを抱きしめた。
そしてまた、名残惜しそうにキスをする。
「……その先は明日にしてください」
キロンが仏頂面でそう言った。
「何ピリピリしてるんですかぁ、キロン将軍?」
姉さまの侍女のラーナが、からかうように笑った。
「うるさい」
キロンは憮然とした表情のままだ。
今宵は満月。そして明日は十六夜。
いよいよ、婚儀の日だ。
古来より『ニヴルヘイム』では、結婚式の前夜から花嫁は『寂寥の森』の端にある『月桂樹の塔』に入り、塔の裏にある聖なる泉で身を清める習わしがある。
身を清めた後、翌日は朝から塔に籠って自ら月桂樹の冠を作り、そこにこれまで大切に育ててきた『月光華』を添える。
そしてその夕方、ちょうど今のように夕陽が差す頃に、使いの者が花嫁を迎えに行く。
竜たちに引かれた車に乗って、花嫁が『ニヴルヘイム』に戻ってくると、花婿がそれを出迎え、十六夜月の下で婚儀が始まるのだ。
「……寂しい?キロン」
「そうだな」
ラーナが尋ねると、意外にもキロンは素直に認めた。
「……だが、誇らしくもある。巣立って行く妹を見るようでな」
「またまたぁ、無理をしちゃって」
そう言って、ラーナはキロンの鍛え上げられた脇腹を細い肘でつついた。
「……ラーナ、あなたもね」
小さく呟いたサーシャのその声は、隣にいた私にしか聞こえない。
「姫さまのお幸せとともに、あの子の行く末にも幸あれと……密かに願ってしまいます」
キロンと絡む友を優しい眼差しで見るサーシャに、私は「私もよ」と答えた。
と、友人想いの侍女に微笑みかけたところで、私の視界の端に端正な顔を涙で濡らす嫋やかな女の姿が映った。
「ちょっと、レノラ。泣くのはまだ早いわよ」
私は思わず吹き出してしまった。
式は明日の夜だというのに。
「申し訳ありません、マルティナ様。わたくし、感極まってしまいまして……いやだわ、年を取ると涙もろくて」
「そんな年じゃないでしょう、レノラ!」
それを聞いた姉さまが目を丸くして言う。
私はまた吹き出してしまう。
当たり前だ。
レノラはルイーズの母とは言え、まだまだ見た目は私たちとほとんど変わらない。
我々は、そう言う種族だ。
“老い”が、身体に現れ始めるとき。
それは寿命が近くなっていることを意味する。
——そう。父上のように。
「いいえ、姫様、マルティナ様。お若いお二人には分からないでしょうが、そう言うものなのですよ」
「今からそんなんじゃあ、明日の結婚式ではきっと、レノラさまは泣きはらしてお顔パンパンですねー」
「まあ、ラーナったら、ひどいですわ。明日はわたくしにとっても大切な日ですのに」
そう言って、レノラも泣きながら笑った。
皆もつられて笑う。
「姉さま」
私も姉に悪戯っぽい笑みを浮かべて話しかけた。
「なあに、マルティナ?」
「明日だけは、いつものお転婆も控えてくださいよ、姉さま?レノラをこれ以上泣かさないように」
「ちょっと、あなた、私を何だと思っているの?」
妹の私でも息を飲むようなその美しい顔に、怒ったような表情を作って姉さまが私を睨んだ。
だが、その顔をすぐに保てなくなって、ぷっと吹き出す。
その時の顔がまた可笑しくて、私もまた笑ってしまう。
「“マリッジブルー”ではないですか?」
ふいに、ルイーズが姉さまに優しく訊ねた。
「あら、あなたが人間の言葉を使うなんて珍しい」
姉さまは少しだけ驚いてから、またおどけたように肩を竦めて、
「でも私はいつでも“ブルー”よ?」
「はは、そうでした。これは失礼。イマイチこの言葉はどういう意味なのか分かりませんね」
今度は恋人たちが楽しそうに笑い合う。
——穏やかなひとときだった。
皆の笑顔を夕陽が赤く染め、心地よい笑い声が街と草原の境界に響く。
ああ、これが幸せというものなのか。
私はなんとはなしに、そんなことを考えていた。
それからルイーズはふと真顔になって姉さまを見つめ、
「姫さま。私は明日が待ち遠しくてなりません。間違いなく我が人生で最高の日になるでしょうから」
姉さまもその瞳を真っすぐに見つめ返した。
「私もよ。……もっとも明日だけじゃなくて、その先もずーっと、だけどね」
「はは、確かに」
「でも、明日は素敵な日にしましょうね」
赤く染まった姉さまのその横顔は、この世のものとは思えないほどに美しくて。
「ええ。もちろん。……愛しています、姫さま」
「私も。愛しているわ。ルイーズ」
……そのときのその言葉ほど、哀しいものはあっただろうか。




