第10話 狂い出す歯車
~ラーナ~
「あー、もう、姫さま!まーたおひとりでこんな奥まで……」
「待ってラーナ!あれは……!?」
あたしの言葉を、サーシャが緊迫した声でかき消した。
「……ラーナ、サーシャ」
姫さまが振り返る。
その表情が、声が、いつもとまるで違う。
同時に、姫さまの隣に小さな人影が見え、あたしは思わず目を見開いた。
「人間の子ども!?」
——ガキィィン!!
次の瞬間、硬質の何かが激しくぶつかり合う音が森に木霊した。
最初、あたしには何が起こったのか分からなかった。
けれど、その答えはすぐに出る。
魔法によって生み出された鉄鋼石の弾丸を、透明な壁が弾いた音だ。
「キロン……!」
姫さまの視線の先は、あたしとサーシャの背後に向けられている。
振り返れば、そこには青い肌の大男。
「姫さま、離れて!」
隣でサーシャが叫ぶ。
あたしは完全に焦っていて、そして混乱もしていた。
——まずい。まずい。まずい。
見られた。
ニンゲンに見られた!
「殺さなきゃ!殺して!キロン将軍!」
気付けば無我夢中で叫んでいた。
「……言われるまでもない」
気が動転して喚き散らすあたしに冷徹に答えたのは、『ニヴルヘイム』の〈将軍〉キロン。
「待って、キロン!」
シャッ——
姫さまの叫びに答えず、キロンは直立の姿勢から突然地を蹴った。
その巨躯からは想像もできないほどの速度で、人間の娘の眼前に迫る。
一瞬だった。
少女の胴など簡単に鷲掴みにできるほど巨大な右手が、そしてその指先の鋭利な爪が、幼い人間を襲う。
——ガキィィン!!
再び、激しい衝撃音。
「キロン。やめて」
姫さまがもう一度言った。
彼女が何を言っているのか、何をしているのか、あたしには理解できなかった。
「ひ、姫さま?一体……」
無意識のうちに、あたしの口からはそんな言葉が漏れていた。
キロンの爪は、またも透明な壁に阻まれ、人間には届かない。
少女の前で、青肌の巨漢が不自然な恰好のままただ静止しているだけだ。
しかもあまりにも一瞬の出来事だったために、少女にはまだ何が起こったのかさえ分かっていないようだった。
「ひめさま?……お姉さん、おひめさまだったの!?妖精さんのおひめさま!」
むしろ目を輝かせて姫さまを見上げている。
「……尚更生かしておけん」
キロンは表情を変えずに腰の剣を引き抜く。
「確実に殺す」
「え、ころす……?」
そこでやっと、幼い少女にも状況が飲み込めてきたようだった。
でも関係ない。
今更分かったところで、キロンから逃れられるわけがない。
「リコ……!」
そのとき突然、姫さまが人間のその小さな身体を抱き寄せた。
「姫さま!?」
「あぶない、離れて!」
あたしとサーシャの悲鳴が重なる。
「……姫様。何をしているのです」
キロンが怒りを押し殺した声で言った。
静かな声なのに、全身から放たれた殺気が辺りを支配している。
彼の背後にいるあたしでさえ、嫌な汗が浮かぶほどの気迫だった。
「やめてって、言ってるでしょう」
「それは姫様のご命令でも聞けませんな」
「まだこんな小さな子どもなのよ!?」
「人間です」
「子どもよ!」
「いいえ、人間です」
「……!」
姫さまは唇を噛み締め、そしてリコを抱きしめたままくるりと回ってあたし達に背を向けた。
「姫さま!何を……!?」
サーシャの悲鳴を背に聞きながら、姫さまはその胸からそっと幼い少女を離した。
そして正面からその瞳を見つめる。
「いい?聞いて、リコ」
それから、腰のポーチから素早く一つの小瓶をとり出した。
透明な液体が入っている。
その蓋を開けると、その中に左手で大事に持っていたアマリリスの蕾から花弁を一枚ちぎって落とし、また蓋を締めた。
そして目を瞑って呪文を唱える。
「何を……しているの……!?」
あたしの呻きは届かない。
瞬く間に瓶の中の花弁が光を放ち——そして次の瞬間には液体に解けて跡形もなく消えた。
同時に透明な液体が淡く輝く黄色に染まっていく。
それを人間の少女の小さな手にしっかりと握らせた。
「リコ。これをお母さんに飲ませてあげて。——それから、もう、ここへきてはダメよ」
「う、うん。わかった」
少女はコクコクと頷く。
姫さまは頷き返してから、素早く詠唱して闇の精霊に呼び掛ける。
小さな微精霊たちが少女の周囲に出現したのを確認すると、小声で「この子をお願い」と呟いてから、今度は少女に向かって、
「さあ、行って」
と、その背をそっと押した。
女の子は言われるがままに駆け出す。
「あ!人間が逃げちゃう!」
「キロン将軍!」
「逃がすものか」
あたしとサーシャの悲鳴と、キロンの冷徹な声が重なった。
でも——
『——風の精霊よ……!』
突如、巨漢の〈戦士〉と幼い少女の間に局地的な爆風が吹き荒れた。
それは、暴風の結界だった。
下手に踏み込めば、全身を真空の刃が切り裂くだろう。
「姫様、貴女と言う人は……」
キロンが鋭い目で姫さまを睨んだ。
けれど流石にあの風の壁を越えて人間を追うのはやめたようだった。
一つ大きなため息をついてから、抜き身の剣を鞘に納刀する。
少しだけ意外だった。キロンはもっと激昂すると思っていたから。
「……人間のガキ一匹。必要であればいつでも殺せる」
そう呟いたキロンは、どこか自分に言い聞かせているようにも見えた。
それから彼は、もう一度溜め息をついてから、姫さまに呆れたような顔を向けた。
「姫様。いい加減分かってください。私はただ、貴女を守りたいだけなのですよ」
その顔は、どこか優しげだった。
あたしの胸の奥のほうで、何かがざわざわするのを感じた。
「分かっているわ。そんなこと。その気持ちは嬉しいけど……でも、やっぱり子どもを傷つけていい理由にはならないわ」
姫さまはそのとてもとても美しい瞳で、キロンを睨んだ。
「姫さま……」
また、胸がざわりと音を立てた気がした。
「……あたしたちを危険に晒してまで人間の味方をするなんておかしいです。あたしたちより人間のほうが大事なの……?」
あたしは、無意識のうちにそう言っていた。
「ラーナ……」
隣でサーシャが複雑な顔であたしを見ていた。
後になって考えてみれば、何となくわかる。
少なからず姫さまを傷つけたであろうあたしのその言葉は、ただの嫉妬だったのかもしれないということは。




