ナン……だと……
南出大地、五十六歳。小学校教諭として三十年以上を児童の健全な育成に捧げてきた彼の教員人生に、史上最大の危機が訪れていた。
「ナン……だと……」
給食用のメラミン食器の上に乗るそれに、南出は途方に暮れた。
近頃の給食は、実に種類豊富だ。
南出は揚げパンが出ない小学校で育ってきたので揚げパンを見た時は「これが噂の人気メニューか」と感動したし、ピロシキやチヂミなど外国のメニューが出るのにも素直に驚いた。食育の一環として高級食材が出たのを、内心「役得」と喜びつつ食べたことだってある。小学生の給食ということで、量が少ないのがネックだがそれでも南出は可愛い教え子たちと共に楽しい給食ライフを送っていた。
そんな折に、出てきたのがこのナンである。
「ナン」、何だそれ。
給食メニューを見た時から頭に大きなクエスチョンマークが浮かぶが、白っぽいそれを見るとますます混乱してしまう。
(……これは、どうやって食べるんだ……)
特に和食一筋というわけでもない南出だが、はっきり言ってグルメではない。「スパゲッティ」「ハンバーグ」レベルで日本に浸透しきっているような洋食なら、まだわかる。「ポトフ」「アヒージョ」辺りからどこ出身のどういう料理なのかが想像できなくなってくる。「トムヤムクン」と聞いたら一瞬「トムヤム君?」という誤変換をしてしまうぐらいには料理知識が乏しいのだが……微妙にトレイからはみ出た、不格好な二等辺三角形を前に南出はしばらく思考停止してしまう。
(いや……『ナン』という名前だけなら、聞いたことがある気がする。そうだ、パン屋にこういうのが並べられていた気がする……ピザと同じかそれぐらいの値段だったが……つまり、これは少なくとも『パン』のはずだ。なら、手で千切って食べればいい)
自身の中にある全ての『ナン』知識を集合させた結果、そういう結論に至った南出は右手を伸ばしナンに挑む。皿にでんと、いや、「ナーン!」と乗せられたそれはコッペパンなど他のパンに比べ薄いようだ。もちっとしたそれを、恐る恐る引きちぎって口に運んでみる。
(……小学生の給食とはいえ、ちょっと甘いな。もちっとした感触……このままでも十分美味しいとは思うが何か味を付け足したくなる)
食感を楽しみ、じっくり食べていたところで児童の一人が「南出先生」と声をかけてくる。
「ナン、カレーにつけないの?」
「はっ、えっ、つける? カレーに?」
いきなりの発言に挙動不審になる南出は、なんとか動揺を隠し「教師の威厳」を留める。
そうだ、今日の給食のメニューには謎の「ナン」だけではない。サラダに牛乳というレギュラーメンバーに加え、通常のそれよりやや硬めのカレーもついているのだった。そこで初めて、「どうやらナンはカレーにつけながら食べるものらしい」と気づく。それと同時に閃いた。
(そうだ、子どもたちが食べている姿を参考に食べてみればいい。子どもは柔軟な発想力を持っているぶん、環境に順応して「正解」を導きだすことができる。『先生』だからといって、何もかも知っているわけではない。時には児童に学ぶ姿勢も大事だ。よし、素直にどんな食べ方をしているのか見れば……!)
南出先生が身を乗り出し、児童の方に目を向ければ――一部の騒がしい男子生徒たちがナンを両手に持ってシンバルのように打ち鳴らしたり、顔に当てて「お面だー!」と騒いだりしている。
「こらぁっ! 食べ物で遊ぶなぁっ!」
自身のナンを食らうのも忘れ、「南出先生」として説教モードに入ってしまった南出はそのままナンを食べつくしてしまい……結局、持て余してしまったカレーをそのままスプーンですごすごと食べることしかできなかった。
そんなことがあってから数日後。南出がくたくたになりながら帰ってくると、彼の妻が「ねぇこれ」とチラシを差し出してくる。
「近くにインド料理の専門店ができるらしいのよ。目玉商品はもちろんカレーなんだけどそのカレーが種類豊富で、出てくるのも米じゃなくてナンとかも出てくるんだって。行ってみない?」
そう口にした南出夫人だが――こういうことを言った時、自分の旦那がだいたい「俺はいい」と冷めた口調で返してくることを妻としてよく知っている。
結婚して三十年。愛がなかったわけではない、特に酷いことをされたわけでもない。
ただ――例えば「娘が大きくなってから家族で外出する機会がめっきり減ってしまった」とか「結婚記念日のような記念日らしい記念日はなく、祝っているのは互いの誕生日ぐらい」とか、小さな物足りなさがある。ついでに「小学校教諭の仕事が激務ゆえか家事をあまり手伝ってくれない」とか、「義実家に行った時は姑の機嫌ばかり窺ってこちらの立場を慮ってくれない」とか、あとそれから……考え始めたら、夫婦の間に溜まっている不満というのは予想外にぼろぼろ出てくる。
(まぁ、暴力を振るったり浮気したりするわけじゃないし……)
南出の反応を見る前から好意的な返事を諦め、自分にそう言い聞かせる夫人。しかし、彼女の耳に聞こえてきたのは「いいな、いつにする?」という南出の明るい声音だった。
「えっ……?」
「あ、いや……その、俺もこのインド料理の店行ってみたいと思って……」
「あ、あら、そうなの……」
思いがけない南出の返事に、戸惑う南出夫人。
しかし、南出の目を引いたのは――チラシに乗せられていた「ナン」の写真だった。
結局自分はナンを正しい手順で食べることができたのか、そうでないというのであればどうするのが正しいものなのか。
次、給食にナンが出た時は児童たちの前で堂々と食べられるようになりたい――南出のそんな抱負を知らず、南出夫人はおどおどと言葉を続ける。
「あ、えっと、土日なら大丈夫……けれど、あなたエスニック料理とか好きでしたっけ?」
「いや、別に……ただ、ナンを食べてみたいと思ってな……」
「ナン……ですか……?」
そんな気の抜けた回答をしている内に、南出夫人がはっと何かを思いついたような表情をする。
「それなら一週間後の土日はどうかしら?」
南出はナンを前に、格闘している。店員によるとナンは親指と中指でカレーを挟むように持ち、食べるのが良いとのこと。慣れないなりにやり続けていたら、少しはコツが掴めてきたようだ。南出夫人はそんな彼を、シンプルにお米とセットになったカレーを食べながら見つめている。
(まさか『結婚記念日に、夫婦二人で外食しに行きたい』って夢がこんな形で叶うなんてね)
おそらく旦那は結婚記念日の方を覚えていない。当然洒落たプレゼントや花束といったものもないだろう。だが夫婦二人、水入らずでそれなりに洒落た店で食事をしていたらなんとなく恋人時代のことを思い出してしまう。
小学校教諭らしく真面目で、やや頭が固くて、でもわからないことは素直に聞くしこうしてナンをおっかなびっくり食べている姿は可愛らしくもある。……なんだかんだ「夫」としては愛しいし、大事にしたいと思ってしまう。
(まさか『ナン』っていう食べ物一つがきっかけで、こんなことになるなんてね……)
そんなことを考えつつ、南出夫人はぽつりと呟く。
「ナン、か……なんか、不思議な食べ物ね」