呪いに効く薬
ある日、とある町医者のもとを、一人の男が訪れた。
その顔はどんよりと曇り、眉と口元が情けなく垂れ下がっている。まるで辞書の『不幸』という項目に載せるべき挿絵のようだ、と医者は思った。
患者を安心させるのが医者の務め。いつものように明るい声と表情で問いかける。
「はーい、今日はどうされましたか?」
男はおどおどと視線をさまよわせ、か細い声を絞り出した。
「先生……私、呪いをかけられたみたいなんです……」
「えっと、呪い……ですか?」
「はい……実は――」
医者は一瞬きょとんとしたが、話によると、どうやら男は本気で呪いをかけられたと信じているらしい。
ある晩、男は路上で出会った老女の占い師に運勢を見てもらったという。ただ、もともと占いに興味があったわけでも、大きな悩みを抱えていたわけでもない。むしろ、占いなんて嘘デタラメインチキ詐欺だと思っていた。酒に酔った拍子に、つい人に絡む悪癖が出てしまったのだ。
男は占い師に向かって、「当たり障りのないことを言ってるだけだろ」「おれでもできる」「偉そうにするな」「弱っている人の心につけこむだけの簡単な商売」「社会悪」「スピババア」などと、高説を垂れながら散々に罵った。
そして、勝ち誇るように鼻を鳴らした、そのときだった。占い師が無言で懐から小さな布袋を取り出し、中の粉を男の顔に吹きかけたのだ。
男はむせ返り、大きく咳き込んだ。老女は低く、不気味な声で囁いた。「お前に呪いをかけた」と。
その異様な迫力に、酒の酔いが一瞬で吹き飛んだ。気づけば、周囲の人々が好奇の視線を向けており、男は恥ずかしさで顔を赤くし、逃げるようにその場を立ち去った。
翌朝、目が覚めると体が鉛のように重く、会社に遅刻した。ただの二日酔いかと思ったが、何日経っても症状は改善されない。
これは呪いに違いない。そう確信し、今日この病院を訪れたのだという。
「呪い……ですか。でも、それならどうして病院に? 神社やお寺があるでしょう?」
「もう行きましたよ。厄払いも受けましたし、法話も聞き、お札をもらいました。でも、ちっとも良くならないんです。だいたい、彼らは私の話を信じてないみたいなんですよ」
「なるほど……。ですが、呪いを解きたいなら、その占い師に直接謝ってみるのが一番ではないでしょうか」
「それも考えましたよ。でも、どこを探しても見つからないんです。きっと、復讐を恐れてどこかに隠れてるんですよ。私が死ぬのを待って……うう、ああ、痛い、痛い……」
「落ち着いてください。大丈夫です。医者ですから、体の不調はお任せを」
医者はにこやかに微笑んだ。だが男はさらに顔を歪め、苦悶の表情で訴えた。
「これはただの病気じゃないんです……呪いなんですよ。市販薬を飲んでも全然効かないし、あ、頭の中で声がして寝つけないんです。人や犬の声とか、音がやたら響いて……うううううぅぅぅ……」
「なるほど、そういうことですか……。では、他に当てはまる症状があれば、この紙にチェックを入れてください。それと、ここにサインもお願いします」
男は額を押さえながら紙を受け取り、震える手で記入して医者に返した。
「はい、ありがとうございます。よくお読みになりましたか? これ、新薬の同意書なんです。この薬を飲めば、呪いは解けますよ」
「え!? それは素晴らしい……。現代医療は呪いにまで対応しているのか」
男は目を輝かせ、手渡された薬を一気に飲み干した。すると、次第に目が虚ろになり、まぶたが重くなってきた。
医者は男をそっとベッドに寝かせ、耳元で呪文のような言葉を繰り返し囁いた。時折質問を投げかけると、男は短く答え、やがて深い眠りへと落ちていった。
しばらくして、男はゆっくりと目を開けた。
「あの……」
「ああ、お目覚めですか。気分はいかがですか?」
「気分……? ここは……ああ、病院ですか……?」
「ええ、そうですよ。ずいぶんお疲れのようだ。今日は家に帰ってゆっくり休んでください。また何かあれば、いつでもお越しを」
「はい……」
男は会計を済ませ、ふらふらとした足取りで病院を後にした。
その背中を見送った看護師が、医者に訊ねる。
「あの、先生。あの人、呪いにかかったって言ってましたよね? 本当に呪いは解けたんですか?」
「ん? さあ……」
「え、さあって……」
「少なくとも呪いのことは忘れたはずだよ。そう暗示をかけておいたからね」
「そうなんですね。確かに晴れやかな顔はしてましたけど……でも、それって結局解決してないんじゃ……」
「まあまあ、この紙に書いてある症状を見てごらん。不眠に頭痛、吐き気。どれも現代人がよく抱えてるものだよ。そのうち気にならなくなるさ」