第1章・前編:ルーシファー家のクソガキ
静かな村に、奇妙な“病”が忍び寄る。
仮面をかぶった少年の足跡が、石畳に静かに残っていく。
正しさの意味も、優しさの形も、すでに腐りかけている世界で――
これは、「特別」に呪われた一人の子どもの物語。
第一幕:病める子ども(ビョウ・ノ・コドモ)
下の空は、年老いた肺のようにきしんでいた。
本当の現実は、あの黒雲の奥に沈んでいる。息もできぬまま、腐りかけながら、空を目指しても届かない。
山は、まるで子を憎む母のように、俺たちを抱いている。
村は、古代の詩のように斜面に刻まれ、石に残された祈りのように広がっていた。
黒木造りの家々は、金の装飾を身にまとい、神話の鳥の翼のような湾曲屋根をもって森の間に生えていた。軒下には小さな燈籠が浮かび、青い炎が静かに踊っていた。それは霊素結晶で燃える、魔術と命の境にある灯。
生きた縄と魔法金属でできた吊り橋が、峰と峰をつなぐ。金の蛇のように脈打ち、霊気をたたえる。無言の僧たちがそれを渡る。その衣には忘れられた古代文字が織り込まれ、月光に瞬いていた。
生木で彫られたトーテムたちは、金の糸と失われた印に覆われ、死語の祈りをささやく。その声は、存在しなかった神々の記憶のように、空間を漂っていた。
そして、その中に――俺がいた。
裸足だ。みんなと同じように。でも、俺は奴らとは違う。
白いポンチョが、痩せた身体を隠している。木彫りの仮面は、俺が見せたい顔をくれる。ナイフで刻まれた笑顔。感情のない笑み。
でもな、内側じゃ――歌ってる。
内ポケットには、二本の注射器。
それが俺のサイン。俺の才能。
俺の怪物たち。
まずは、石化したガラスの祭壇にひざまずく老人。
耳元に、そっと息を吹きかける。
針が首に刺さる。まるで千回目の儀式のように。
老人が震える。眼が赤黒く染まり、焼け焦げた肉のように。
病が、嫉妬深い恋人のように体を支配する。
そして、俺は歩き続ける。
隠れんぼをしている双子の兄妹の間をすり抜けながら。
もう一本、注射。
少女が転び、兄が闇色の花びらを咳き出す。
死なない。けど、忘れられない。
化粧をした目の女が、俺を見て一歩下がる。
知ってるんだ。俺のことを。
木の仮面の下で、俺はにやけた。
「……あいつだ」誰かがつぶやく。
――「ルーシファーのクソガキ……」
声が四方八方から聞こえてくる。
走る者もいれば、見ぬふりする者もいる。
三本目の注射が、指の間で踊って――
その瞬間、首根っこを掴まれた。
触れられただけで分かる。
こいつだ。
俺の双子の姉。
顔が地面に叩きつけられる。親密すぎるほどに。
ポンチョが、しおれた花のように広がった。
「エゴウ……」――その声は、まるで神の裁きのように重かった。
「また、神様ごっこ?」
必死に身をよじって、顔を上げる。
彼女は、俺の上に立っていた。まるで歩く判決文のように。
白い髪は凍った川のように背中に流れ、完璧な団子にまとめられ、こめかみの横には風に揺れる二本の房。
細く、鋭く弓なりの眉。深く、宇宙のように暗い目。
小さいが、決して揺れない口元。骨のミルクのように白い肌。
そして、あの忌々しい黄色い蓮の花の着物……
いつも清潔。いつも優雅。
いつも俺より“上”。
顔は可愛い。若い――当然だ、俺と同じ十一歳。
けど、あの目は――千年を生きたようだった。
姉は無言で、俺を持ち上げた。
その力は、皮膚の下に見えないエンジンを搭載してるようだった。
「ほんと、自分に優しくしないよね、エゴウ。」
その声は冷たく、犬に話すみたいに呆れていた。
深く息を吸う。仮面が重い。
やっとの思いで立ち上がる。
仮面を外した。
鼻は整い、少し上を向いている。幼い四角い顎が、大人ぶろうとしてる。
目は――彼女と同じ。深い黒。
でも俺のは、もっと獰猛。
笑った時、犬歯が見えた。
「“母親”ぶるの、もうやめたら? 本物の母さんですら諦めたのに、なんでお前はまだやってんだよ?」
彼女は何も答えなかった。
ただ俺の手首を、ギリ、と握った。
毒があっても、かなわない。
あいつの方が、ずっと強い。
ずっと、特別なんだ。
第二幕:特別であることは、お前の才能じゃない
プライダはいつものように前を歩いている。背筋を伸ばし、後ろも見ず、きっちりと結ばれた髪を揺らしながら、まるで世界を背負っているかのような顔で。
「今日はお利口な説教はなし? かわいい妹ちゃん?」
「ゴキブリ相手に時間を無駄にする気はないわ。」
俺は目を回しながら、マスクをポンチョの下に隠す。
そして、石を蹴りながらついて行く。村人たちの視線なんか気にしてないフリをしながら。でも、実際はめちゃくちゃ気になる。
気にしてる。クソほどに。
この村には、甘ったるくて腐ったような臭いが漂ってる。蓮の花と壁のカビと、人間の嫌悪が混じり合ったような匂い。
窓から流れるようなジャッジの視線が、肌に刺さる。
黙っていても、舌打ちが聞こえてきそうだ。
──そして、俺たちは家に着いた。というか、残骸に。
ルーシファー家の家は、村で一番殴られてる家だ。
白い壁には落書きだらけ。「疫病」「怪物が住んでる」「とっとと死ね」とか、インクや炭や乾いた血みたいなもので書かれてる。
門には人形のパーツが吊るされてる。正気じゃねえ。
でも、俺は嫌いじゃない。この光景。俺が何かを残してるって気がしてさ。
プライダがドアを開ける。
俺は先に入り、ポンチョを床に投げ捨てる。お香と何か焦げたような臭いが混ざってて、吐き気がする。
──そして、彼女が目に入る。
母さん。
座ってて、涙ぐんだ目で俺を睨んでる。でも、そこには怒りが渦巻いてる。彼女の暗い巻き毛はボサボサで、生気のない本人よりも生き生きしてるように見える。
顔にはそばかす。昔は可愛いと思ってたけど、今じゃ三年で三十年老けたみたいなシミにしか見えない。でもまだ、どこかにかすかな若さが残ってる。まあ、一応ほめとく。
彼女が立ち上がる。
「もう限界なのよ! 限界なのよッッ!!」
俺は目を回しながらキッチンに行って水を取る。
「病気ばっか探して自分に打って、他人にうつして、近所の人たちから苦情殺到! 私、殺されそうよ!」
俺は一口飲みながら、黙って聞く。
「もう大人なんでしょ!? なのにいつまでも子供みたいな行動ばっかして、父さんの名前を汚して!」
ああ、父さんね。この家で一番出てくる幽霊。
「父さんの名前を? 俺、あいつのこと知らねぇし。あんたと二人の子供をこの家に置いて出てった奴だろ? それなのに、まだ完璧な存在みたいに話すのかよ。」
彼女は固まり、顔を真っ赤にして、目を見開いた。まるで俺が神を侮辱したかのように。
「父さんのことをそんな風に言わないで!!」
笑いそうになった。
プライダは氷像みたいに黙ってたが、ついに口を開いた。
「もう無理よ、エゴウ。あなたのせいで、隣の子供三人に殴らなきゃいけなかった。あんたのせいでペンキ投げられたから。」
「ってことは、俺、有名になってきてるってことだな!」
俺はニヤリと笑った。傲慢で満足げに。
「やっと何かで“特別”になれたんだよ! 俺は気にしねえし──」
パァン!
ビンタが飛んできた。
不意打ちだった。顔が横向いて、頬がヒリヒリする。
でも、本当に痛かったのは──
その後の沈黙だった。
母さんは怒り、悲しみ、失望…いろんな感情を乗せた目で俺を睨んでいた。
「もう疲れたのよ! “特別”? あんたなんか、自分の膨らんだエゴの半分にも満たない!
プライダの方が、よっぽど特別よ! あんたみたいに自分のことばっか考えてる子じゃない!」
そして、言葉を詰まらせたあと──息を吐くように、冷たく言った。
「……あんたは特別なんかじゃない。」
その言葉は──
俺の魂がガラスでできてるみたいに、スッパリ貫いた。
隣村の警官にボコられたときより、ずっと痛かった。
俺は初めて、何も言えなかった。
母さんは息を整えようとする。でも、もう声に力はない。あるのは、後悔だけ。
「エゴウ…聞いて…」
──でも、彼女はフラついた。
「……母さん?」
彼女は、崩れ落ちるように倒れた。
びしゃっ、という音を立てて。
プライダがすぐに動いて、膝をついて母さんを支えた。
俺は動けなかった。まだビンタの痛みを感じながら、何か──たぶん“罪悪感”ってやつ──の重みに押し潰されそうになってた。
でも、それを認めたくなかった。
プライダが顔を上げて、俺を見る。
そこには、初めて“嫌悪”以外の感情があった。
──それは、怒りだった。
純粋な、燃えるような怒り。
「……これは、あんたのせいよ。」
人は皆、誰かの期待に潰されて育つ。
でも、それは才能の証じゃない。ただの呪いだ。
この章で語られたのは、「特別」であることの代償。そして、「特別」じゃないと認められたときの痛み。
仮面の下の笑顔が、本当に笑っていたかどうか──それは読者の想像に任せよう。
次の章では、“痛み”が新たな形をとって現れる。
どうか、その目をそらさずに。
では、また次の病で会いましょう。